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今週の闇金ウシジマくん/第377話

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第377話/ヤクザくん24





ひとりでことをおさめて丸儲けしようとした熊倉だったが、ハブの覚悟と危険性を見誤り、子分を射殺、自身も足をうたれ、あっさり捕縛されてしまった。

ハブたちは最上を男優としてAVを撮影するつもりのようだが、それが終わったのかどうなのかよくわからないところで、マサルに肉蝮から電話がかかってくる。肉蝮が非常に厄介な男だということはマサルもわかっている。いちおう、当ブログではマサルがのちのちのことを考えて、生き残ったヤクザと肉蝮をぶつけてつぶしあわせることで漁夫の利を得ようとしているのではないか、と想像してきたが、とりあえずいまのところは接触して後悔しているところが大きいのではないだろうか。会話が成り立たないうえに作中最強人物だもん、誰だってかかわりたくないだろう。喧嘩になっても屈服すれば見逃してくれる範馬勇次郎のほうがまだマシである。

流れとしては、ハブがあっさり熊倉の部下を殺したらしいところと、これから熊倉が最上に犯される(あるいはすでに犯されている?)ところを見たばかりで、もともと脳裏にあった「やるといったらやる」男であるところのハブのリアリティを直接体験したばかりである。現場にいたら、電話の向こうの肉蝮とハブのどちらがヤバイかといわれても窮するかもしれない。それに、すぐそばには獏木がいる。獏木はマサルが肉蝮と通じていることを知らない。そればかりか、肉蝮に右目をつぶされた獏木は彼を殺したいとおもっているし、しかもそのことはマサルに話してあるのである。獏木のために探りを入れている、等の言い訳をしても、たぶん通らないだろう。

というわけでマサルは電話に出ない。というか出れない。地元の友達からの電話だ(だから出なくていい)、と露骨に動揺しながらマサルがいうのを獏木が疑わしげに見ている。獏木のほうでもマサルに隠し事があるようだし、まあ信用はしていないのだろう。だけどまさか肉蝮と通じているとはおもっていないだろうな。

マサルが電話に出ないので肉蝮は激おこである。電話に出れないことなんてふつうにあるとおもうが、そういうのは通用しない。聞く耳もたねーなら両耳ちぎって逆向きにつけてやる、などと実に肉蝮らしいメッセージがマサルに届く。


どこかのコンビニの前にあぐらをかいてご飯を食べているヤンキーふたりが、いきがって一般人をからかっている。見るからにウシジマワールドでは小物風だが、まあふつうのひとは関わりたくない。亀田と鴨川というふたりである。

帽子をかぶったほうの鴨川がタバコを買いにいったんコンビニのなかに入る。ひとりカップラーメンが完成するのを待つ亀田のところに、肉蝮がやってくる。金かしてくんねーと。亀田はとりあえず肉蝮の巨大さにびっくりして動揺する、が、いちおうこうして不良をやっているわけで、引くわけにもいかない。ひとりでカツアゲする気か、こっちはふたりいるんだぞと、たぶん自覚はないだろうが、じぶんひとりでは無理っぽいということをすでに認めてしまっている。

肉蝮は亀田のことばをまるで聞いていない。ふつうに腹がへってコンビニにきたけど、手持ちがない、みたいなことかもしれない。肉蝮なら、ふだん財布を持ち歩かず、そこらへんのひとから集めて毎日過ごしている、といわれても驚かない。で、コンビニにきたらおあつらえむきの、すぐに警察に走ったりはしないワルそうなのがいたのである。肉蝮には彼らが財布に見えるのである。

肉蝮は亀田の前でまだできていないカップラーメンを勝手に食べ始める。「まだ硬いな」って、そりゃいまつくってるところだからね。ちゃんと後入れのかやくとかいれたんだろうか。

ラーメンを食われたことじたいは笑っちゃうくらいどうでもいいことだけど、とりあえずこの男がじぶんをなめていることはまちがいない。亀田は引き下がれない。さらって山に埋めるぞ、知り合いのヤクザ呼んでやるという。定型文みたいな文句だが、いちおう、じっさいそういうことを頼めるヤクザの知り合いはいるらしい。いいけど、「勝手にカップラーメンを食べられたんです」っていうのかな・・・。ちょっとまぬけすぎないか。

肉蝮はそういう亀田にも、「誰?(誰を呼ぶのか?)」と、意外な応答をする。亀だのいっているヤクザとは最上のことだった。肉蝮は知らないといいつつ、わりばしの袋のなかに入っていた爪楊枝をなんの躊躇もなく亀田の左目に突き立てる。黒目のとこの真ん中にモロにぶっささっている。

絶叫する亀田の左目に今度はスプーンをあてがい、黙らないと目玉えぐりだすぞと脅す。今すぐATMで全財産おろしてこいと。

殴られて歯が折れたとかくらいならまだ冷静でいられたかもしれない。しかし目の真ん中に爪楊枝とは、もうあたまがパチパチしてなんにも考えられなくなるんじゃないか。亀田は素直に応じてATMに行くが、店内の鴨川に状況を伝えて、最上を呼んでくれと頼む。しかし、店のなかから外にいる肉蝮を確認した鴨川は表情を変える。お前はあいつを知らないのかと。最上ではとてもかなわない。そうして、鴨川のくちから肉蝮のことが語られる。刑務所に入るたびに全国のヤクザから手紙や差し入れが届くのだが、それが中で組員をイジメないでくれということらしいのである。強盗殺人をしたことがある、というのは以前加納のくちから語られたことがあるが、さらに都市伝説的なうわさとして揉めたヤクザを殺して、刺青から身元がバレないように全身の皮を剥いで山に捨てたことがあるらしい、ということも語られる。ここで絵が描かれているので、このはなしはたぶんほんとうなんだろう。森のなかに転がる死体は、遠いので細かいところはわからないが、ほんとうに手や足の先以外のすべての皮が剥がれているっぽい。さらに、指も全部切り落とされ、歯も抜かれている。これではもうすぐ発見されたとしてもだれだかわからない。そして、なぜか胴体も切断されている。足首にはロープがまかれているが、まさかプレデターみたいに逆さに吊るして血をぬいたんだろうか。内臓は転がる死体の、その切断面に散らばっているので、死体がこの状態のときに胴体は切断されたらしい。村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』で生きたまま皮を剥がれる描写があったが、あのときはたいへんな出血量だった。すでに死んでいる状態で剥いだ場合、そんなに血は出ないんだろうか。いずれにしても、皮を剥ぐことで出た血はいっさい見当たらない。たぶん、なんらかの方法で殺したあと、吊るし、大体の血を抜いてそこから皮を剥ぎ、終わったところでおろして、なぜか胴体を切断したのである。あるいは、手術痕的や人工臓器的なものを消し去るためだったり、単純に胃の内容量から推定されないようにとか、そんなことかもしれないが、もうこれ以上はわからない。


ともかく、そのはなしがほんとかどうか不明だとしても、そうしたうわさが立つような人物ではあることはまちがいない。地元で敵なしの獏木だって目をつぶされたのだ、絶対かかわってはいけない人物だと鴨川は語る。たしかに、それじゃ最上なんか出てきたってなんにもできないだろう。いまの状況ではハブも丑嶋の件で手一杯で、仮に最上がやられてもじぶんでどうにかしろって感じだろうし。


裏口から逃げるとか、それでもとりあえず最上に連絡するとか、最後の手段として警察に電話するとか、いろいろあったとおもうが、ふたりはそのどれも選択しない。外から肉蝮がじっと見ていたのかもしれない。亀田はほんとうに全財産おろしてきた。いちどにそんなにおろせるものなのか、貧乏なので知らないが、とりあえず数十万から百万近くはある。亀田が素直に金をもってきたせいか、肉蝮はのんびりした調子に戻っている。そして、ひとりごとのようにmサルっていうダチが無視するからむしゃくしゃしていたとくちにする。鴨川はその名前を記憶する。そして、肉蝮がマサルと殺す約束をしていた人物が丑嶋だということも認識した。

ご機嫌になった肉蝮は三人を連れてゲーセンに行くことにする。亀田は病院にいきたがるが、彼はすっかり肉蝮に気に入られてしまった。無傷の鴨川は肉蝮に連れられながら、もう最上どころではないはなしなので、復讐の件もこみで、獏木に連絡するしかないかなどと考えているのだった。




つづく。






肉蝮が超人すぎる回であった。


鴨川はマサルという人間が肉蝮の友人で、ふたりは丑嶋を殺そうとしているということを認識した。この流れはまちがいなく、彼が獏木にそれを伝えるやつである。マサルという名前じたいはいくらでもあるので、それだけでは確定にはならないが、そこに丑嶋の名前までからんでくると、このマサルというのが加賀勝のであるということがほぼまちがいなくなってしまう。マサルにとっては非常に非常に、命の危機的な意味でまずい状況ではあるが、また大きくはなしが動いていくだろう。

もしマサルが肉蝮と通じていることを知ったら、獏木はどうするだろう。たぶん、いきなり怒り狂うということはないだろう。もともと彼はなにかを隠しているし、たんに利用しているだけというぶぶんは大きいはずだ。しかし肉蝮の件はハブたちとは無関係の、個人的な問題である。もしかしたらひとりでどうにかしようとするかもしれない。もしあの倉庫に呼び出すような事態になったら、こりゃもうとんでもないことになる。丑嶋・滑皮組も、戌亥の働きで現場を知りつつあるのだ。最大トーナメントでも開けそうなくらいの、作中の強者が集合してしまうことになるのだ。


今回は、肉蝮が獏木レベルではない、筋金入りのヤクザと接したときどう出るのか、ということのこたえが出た。別にいつもと変わらないのである。

鴨川が語るエピソードもいかにも都市伝説的で、ほんとかよって感じだが、もし本当のことだとしたら、どういうことになるだろう。肉蝮がいったいいくつくらいなのか不明だが、刑務所にいる彼に(そもそも捕まったことがあるというのが驚きだが)ヤクザたちが差し入れをするということは、これまでもそうしなければどうしようもないような状況になったことがあるということだ。鴨川の言い方では肉蝮は何度も服役していたことがあるっぽい。それが、彼の丑嶋襲撃計画が遅々としていた理由かもしれない。まあすぐ出てきているわけだから、殺人とかではなく、もっと軽い罪ではあるのだろう。で、肉蝮はヤクザを全然恐れないので、出所してから復讐されるとかそんなことは全然気にせず、刑務所でなんか威張っている気に入らないやつをイジめるのだ。そして、もしかすると、そのことで出所後復讐しようとしたヤクザを返り討ちにしたことがあるのではないか。ヤクザとしては、ハブがいまそうしているように、面子をどう立てるかということが最重要になる。いくら肉蝮でも、ヤクザではないという意味ではカタギなわけであるから、本来であるならなんとしてもその復讐をしなければならないはずである。が、ヤクザたちはそれをしないばかりか、差し入れをしてご機嫌をとる。ということは、面子をかけて殺しにいくリスクよりも、適当にご機嫌をとっておいたほうがコスト・パフォーマンスがよいととらえていると考えるほかない。こういうはなしは大げさに伝わるので、たとえば「全国の」とかいうぶぶんは若干誇張である可能性もある。肉蝮は年中今週みたいなカツアゲをしているから、たぶんしょっちゅう捕まっている。で、逆に考えると、刑務所内では銃などの武器はない。あれほどの超人であるから、たぶんふつうのヤクザでは束になってもかなわない。刑務所内で「復讐」をすることはできない。では外にいるときにやろうとしても、それはそれでいろいろ面倒なのである。いくら肉蝮でも殺せば犯罪だし、あんな巨人なのだからこちらも無傷とはいかない。そして家がないかの如くいつもうろうろ歩き回っていて神出鬼没、どこにいるかわからず、そして放っておけばすぐ捕まる。そうしたなかで、面倒に感じたヤクザが差し入れなどを行ったとき、それを知ったほかのヤクザが同様のことをまねしようと考えたとしても不思議ではない。誰でもやっていることで、常識的なことであるなら、それで面子がつぶれるということはないからである。じっさいに刑務所でいじめられたヤクザの自尊心は傷つくかもしれないが、それだからといって若い衆の死者を出すかもしれない覚悟で別にヤクザでもなんでもない肉蝮に返しをするのもなんか割りに合わない。そんな感じで、いつのまにか業界で「肉蝮については触れない方向で」みたいな合意形成がされたのではないだろうか。


いずれにしても、肉蝮の神話的強さは物語を大きく動かすことになる。なぜなら、主人公の丑嶋にしてからが、「ヤクザには逆らってはいけない」という原理から逃れられてはいないからである。それをやってしまったから、いま丑嶋はこんな目にあっている。彼らの生きる裏社会で、ヤクザくんというのは、重力のような自然界の法則や、あるいは数学でいうところの公理(根本命題)みたいなものなのである。ハブにも滑皮にも丑嶋にもマサルにも、立ち位置というものがある。社会的価値と言い換えてもよい。人間関係においての、じぶんの占めている面積や形状のことである。ヤクザは基本的に面子(他者のイメージするわたし)を第一に行動するが、なかでもハブはいまそれに突き動かされるかたちになっている。滑皮は滑皮で、後輩たちにとっての「かっこいい先輩」を演じるためだとか、それと同形の行動として熊倉を立てたりだとか、ひいてはヤクザ業界を賦活するためだとかいうふうにして、組織に生きている。丑嶋も、ハブを殴ってしまったとはいえ、やはり滑皮には逆らえないし、その構造そのものを憎みつつも、滑皮と共闘しようとするかのような姿勢で雌伏に甘んじている。マサルでは現状ハブ組とのかかわりが大きいが、そもそもはカウカウでの社長との関係性ということがある。しかし肉蝮にはそういう、行動の足元に描かれているべき根本的な動線のようなものがまったく欠けている。丑嶋がヤクザを憎むときも、マサルが打倒丑嶋を願うときも、滑皮が旧式のヤクザスタイルを重んじるときも、ハブが面子を気にするときも、必ず、回復したり、覆したりしようとされるモデルや地図のようなものがある。それが肉蝮にはない。完全に自由なのである。

だから、もし今後肉蝮がヤクザと衝突することになっても、そこではたとえば「ヤクザを殴ってはいけない」というような当たり前の前提はまったく通用しない。つまり、肉蝮の前では「ヤクザくん」という社会的価値が全然意味をもたないのである。彼の前では、「ヤクザくん」というものが存在することができないのだ。いや、ヤクザだけに限らないかもしれない。闇金ウシジマくんはこれまで数え切れないほどのたくさんの「社会的価値」を描出してきた。それは要するに、生き方の差異のことであった。世界にはいろんな人間がいて、いろんな生き方をしている。その生き方の一般化が、通常職業の名前で代替される「××くん」という副題なのであった。しかし、どのような「××くん」も、すべてそれ以外の「○○くん」との差異によって成立してきたのである。フーゾクくんがホストくんをホストくんたらしめ、ヤンキーくんがフリーエージェントくんをそれたらしめる・・・という具合に、わたしたちは、「わたしたちとはちがう生き方をしているもの」との差異によって、わたしたちの生き方を言語化し、一般化することができる。それが、わたしとわたしではないものとしての無数の他者との関係が作り出す「社会」というものである。裏社会のヤクザやヤンキーであってもそれは変わらない。むしろ、裏社会ではヤクザがすべてを統一的に秩序立てるぶん、そうした関係性は強固かもしれない。しかし、自由人・肉蝮の前ではそうした価値はなんの意味ももたない。彼は、わたしたちが生きていくうえで自然と着込むことになるエクリチュール(文体)を剥ぎ取り、生身のまま接することを要求してくる唯一の人物だったのである。

そんな肉蝮がもっとも殺した人物、それが丑嶋である。ギャル汚くんで肉蝮は丑嶋に負けているのである。ただ、あの勝負はカウカウメンバーのチームワークによるところが大きかった。つまり、負けてもしかたがなかったというぶぶんがかなりあったのである。それにもかかわらず、肉蝮はハブのように「カウカウ」を皆殺しにしようとはしない。というのは、彼の復讐心が「負けたこと」によって燃やされているわけではないからだろう。肉蝮は相手の社会的価値を剥ぎ取り、生身での対決を要求してくる。そして彼はあのとき丑嶋に、同じことを逆にやられたのだ。生身どうしの対決になれば、ヤクザであっても肉蝮あからすれば弱々しい存在である。しかし丑嶋は、みずから価値を脱ぎ捨てるようにしてすすんで生身になり、からだいっぱいの殺意のこもった目つきで包丁をつきつけたのである。そして、そこで肉蝮は降参してしまった。彼を突き動かすのはこのときの記憶である。構造的意味でも、肉体的意味でも、生身の状況は彼の領域である。彼はそこで負けたのだ。






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Dev Large氏死去

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BUDDHA BRAND Dev Large(デブラージ)さんの訃報。ネットでは悲しみの声が広がる  NAVERまとめより




ぜんぜん知らなかった。すごく動揺してしまった。


じっさいに音楽をやっているかたと比べたらたいしたことはないかもしれないが、僕もデヴラージにははかりしれない影響を受けた。ラップをつくったりトラックをつくったりするわけではない。にもかかわらず、「影響を受けた」としかいいようがないような、こちらの全神経を賦活して高揚させ、日常生活にまでその影響が(微量ではあっても)及ぶような、そういう音楽家だった。

僕はラップ音楽にまずm-floから入った。当時はcome againという曲がはやっていたころで、それが収録されたEXPO EXPOというアルバムを買ったのだが、それが人生で最初のラップ、というよりは、それまではジャズやピアノ音楽しか聴いてこなかったので、宝塚以外では初めて聴くうたのはいった音楽だった。僕にはB-BOYの友人はいなかったが、友達にそういう男がいるという友人はいて、彼はそれなりにくわしく、僕は彼にそのアルバムを聴かせたのである。そして、そのアルバム収録の、ブッダブランドのデヴラージとニップス参加のディスパッチという曲を聴いて、彼は驚愕したのである。こういう音楽に彼らのような「ホンモノ」がフィーチャーされるというのは、けっこう事件だぞと。


それから、ジブラやニトロを中心にいろいろ聴きあさって日本語ラップにくわしくなっていくうちに、彼のいっていたこともだんだんわかるようになってきた。タイミングは忘れたが、ブッダブランドの二枚組ベスト盤もかなりはやい段階で手に入れて、その音にすっかり魅了されてしまった。人間発電所なんて冗談抜きで何百回何千回聴いたことか、もうじぶんでもわからない。僕のガラケーにはなぜか容量を増すカードがついていなくて、短い音楽もほんの数曲しか保存できないのだが、いまでもそのうちのひとつは人間発電所で、毎朝それに起こされている。

だいたい日本語に英語を混ぜるスタイルというのは批判を呼ぶもので、好きなMCに関しても、それがだれかからディスられても、その相手に反感を抱くというよりは「まあわからないでもない」とおもってしまうことのほうが多かったりもする。しかしデヴラージにおいてはそんなことはまったくなかった。あんなふうに英語と日本語が滑らかに連結して心地よいフローを生むようなラップは、あとにもさきにもこのひと以上のものはないといってもいいのではないか。それから、ずっと、いまでも謎なのは、ライミングである。いわゆる「硬い」押韻ではなく、母音で数えればほとんどひとつかふたつくらいしか踏んでないようなこともかなりあるのに、なにゆえあんなふうに韻を踏んでいるように聞こえるのか。ずっと昔に、母音ではなく子音の使い方でこのラップを分析しているサイトを見た記憶があるが、むずかしくてよくわからなかった。

ともかく、硬い韻というのは、ここからここまでが踏んでいる、というのが歌詞を見ればわかるものになっている。けれども、デヴラージはそうではなかった。にもかかわらず、あのサウンド。いったいそこにどんなテクニックが隠されていたのか、いまでもわからないのだ。


その後発売されたデヴラージのソロアルバムも、たぶんレコードだったらすりきれるくらいくりかえし聴いた。D.Lはラッパーでもあると同時にたぐいまれなトラックメイカーでもあった。しかしこんな説明はいかにもまぬけである。たぐいまれなトラックメイカーだなんて、そんな凡庸な説明ではとても足りない。あんな音楽をつくれるひとは世界中探してもほかにひとりもいない。下の「Music」なんてPVも含めてどのくらい聴いただろう。ニトロの初期の曲と合わせて、精神的にきついときなどいつも支えてくれた音楽だった。




https://www.youtube.com/watch?v=PZVETpNA7Qs




トーキョートライブがアニメ化されたとき、MUROを中心に凝ったサウンドトラックが製作されたが、それとはべつにオープニングをブッダが、エンディングをスチャダラパーが担当して、これも刷り込むように聴きまくっていた。基本的にヒップホップのトラックというのはループ(くりかえし)でできているので、そこから中毒性が生じてくるわけだが、そういうことを知識としてではなく体感で、耳で教えてくれたのもこのひとだった。好きだし、音楽に対する姿勢もほんとうに尊敬しています。安らかにお眠りください。




https://www.youtube.com/watch?v=1rwIzrDEPB8




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今週の刃牙道/第67話

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第67話/関ヶ原






地下闘技場初、武蔵対烈の武器アリ対決は武蔵の勝利で終わった。今週のはなしを見ても、烈についての「死」とか「殺人」とかいう具体的な単語は見られないが、しかし編集が記しているとおもわれる「前号まで」のところにははっきり「烈を死に追い込んだ」と書かれている。ここは、作家と合意して書いているところではないことが多いので、これだけでは断定とまではいかないが、やはり前回の描写からしても「そう考えてほぼまちがいない」というところらしい。改めて考えるとたいへんなことで、じっさいとても悲しい。

そんな烈のたたかいぶりを、武蔵は「関ヶ原なみ」と評した。そうして、武蔵の関ヶ原体験が振り返られる。

関ヶ原の戦い当時、武蔵は17歳だった。彼が復活したとき、遺伝子の表現するままの顔貌とじっさいの顔には差があり、そこを、寒子の召還した魂が正しいものとして修正することとなった。つまり、遺伝子的には武蔵の顔はいまのようではないことになり、これは経験がつくったものだということはいえるとおもう。が、17歳時点の武蔵はすでにいまの顔である。たたかいの経験、たとえばひとを殺した回数だとか、重傷を負った回数だとか、そういうものが彼の顔を変えたのではなく、武蔵が宮本武蔵として完成するきっかけのようなものは、もっと電撃的だったのかもしれない。それか、あるいは、幼いころの環境とか、そうなる土台みたいなものが、彼を遺伝子のままの人格にはしなかったのだ。


こうしたたたかいにはくわしくないので(知識があったとしても戦国無双のものである)、そこには踏み入らないが、とにかく戦場は混沌としている。いまとちがって武蔵には若さが感じられる。挑発的であり(それはいまもか)、どこか落ち着きがなく、血に焦っている。が、それでも段違いな強さではあったようだ。4人に囲まれていた状態から、じぶんは餓鬼である、素人である、そんな俺から逃げるんじゃないと、よくわからない挑発をして相手を逃がすまいとしている。あんまりリアルに空想したことはなかったが、指輪物語の映画とかを通してみてみると、個人から見た多対多のたたかいというのはけっきょく目の前の相手とのたたかいである。だから、関ヶ原の戦いに武蔵が参加していても、なにもその場にいる全員を相手にしているわけではないのだ。だから、戦場のあちこちで同じように小さなたたかいが起こっており、とりあえずいま武蔵に注目しているのは、1コマ目で首をとばされた男含め4人ということなのだ。

たぶん技術的にはいまより未熟なんだろうけど、とにかくすさまじい膂力と胆力で、槍みたいな長い武器をもっている相手にも強く踏み込み、武器や鎧ごとぶった切ってしまう。原哲夫の前田慶次みたいな迫力である。

板垣恵介の描く武蔵らしいというところか、武蔵はこのときからふつうに素手の攻撃もしている。刀でなぎはらいつつ拳を顔面に打ち込み、倒れたところ喉を踏みつける、なんていう荒々しいが手順を踏んだ攻撃もしている。相手もみんな職業軍人だとはおもうけど、なんというか人間としてのパワーがちがう感じだ。

残ったひとりを「逃げるなよ」と、なにか楽しむような笑みを浮かべつつ追い詰める武蔵だが、どこからか矢がとんできて相手の顔にささる。武蔵も二発せなかに受けてしまうが、そんなにダメージはなさそう。ともかく、飛来する矢の雨を発見して武蔵はすばやく残った相手をひっつかんで盾にしてしまう。

戦場の局面は流動的である。そばにいたべつのものが次々と襲い掛かってくる。槍の一撃が太ももを貫通、瞬殺するも矢は次から次へと飛んでくる。もはやその矢が味方の放ったものなのか敵のものなのかさえよくわからない。それくらいごちゃごちゃとしているのだ。

ふつうに考えて重傷だが、武蔵の闘志は少しも衰えない。武蔵もどちらかの軍勢に属しているはずである。だから、たたかっているのは、属していないほうの軍隊である。が、武蔵の認識はちがう。負けてたまるか、来やがれ関ヶ原、というものなのだ。


武蔵は烈をその関ヶ原なみだとする。上下、前後、左右、少しの油断も許されない。武器だって、当時はすでに鉄砲がある。なにが飛び出すかぜんぜんわからない。いまならそれもまた楽しかったかもしれないが、当時のじぶんにはそういう戦いだったと。つまり、17歳当時の、まだまだ未熟なじぶんが体験したような戦場、これほどのものだったと、烈を評しているのである。

そればかりか、武蔵は「惚れてしまった」という。武蔵がいちばん驚愕していたのは、例の拳を犠牲にして刀を捕ったあれである。あの烈のとっさの行動にはたくさんの情報が含まれていた。刀を固定してしまう握力、それを支える肉体をつくった部位鍛錬、そしてそんなことをおもいつく発想力と豪胆さ、それらに惚れ、またおそれてしまったという。武蔵は非常に静かな目をしている。まったくの本音とみていいだろう。うそをつく理由もない。

それを聞いて光成は礼をいう。烈もじぶんも救われると。まあ厳密にいえば救われるのは光成で、烈はきちんとこれまでの鍛錬が評価されて報われるというところだろう。光成としては、武器をもった宮本武蔵に挑む、という無謀を許可したじぶんは愚か者なんじゃないか、という考えがあったから、烈が表面の現象だけでは理解できない活躍をしていたということが知れれば、救われるのである。


そこではなしは変わる。光成もずっと気になっていたことではあるのだろう。烈は、武蔵の好敵手として有名な佐々木小次郎と比べてどうだったのかと。武蔵は考え込んでしまうのだった。




つづく。




どこかで佐々木小次郎は創作だというのを読んだ気がするのだが、このはなしではいちおう存在していることになるのだろうか。しばらく悩んだ武蔵が「誰だっけそれ」とか「そんなやついたっけ」とか言い出したらどうしよう。


戦国無双における佐々木小次郎は、なにか別の世界を見ているような、無邪気な人斬りとして描かれていたが、じっさいの(という表現は意味があるのかわからないが)いわゆる佐々木小次郎というのはどういう人物なのだろう。おもえば「敗れたり」のセリフもあったのだし、あのたたかいは伝承のままじっさい行われたとみてもいいのだろう。しかし、とはいえ、なぜ光成はここでいきなり小次郎のはなしを持ち出したのだろう・・・。「会わせたいひとがおるんじゃ」とかいう展開にならないだろうな。いやべつになってもいいけど、そういうことをくりかえしていると、なにか烈の死が軽くなってしまうようで、どこかもやもやする。それで烈が説得力をもって蘇生したとしても、それもまたなんかちがう。

佐々木小次郎についてはよく知らない、というかまったくなにも知らないので、そこのところの深入りは避けるが、やはり武蔵はこうした形容、または比喩を通して強さを見ることのできる人物のようだ。前回長々とわかりにくい説明をしたけれども、これはたぶん、勇次郎の支配していた量的な戦闘力による強さ議論から脱したものである。ひとことでいえば、勇次郎が絶対者である世界では、「既知」の量が強さを決めるのである。長年にわたって分析してきたことなのでくりかえさないが、そういう描写はこれまで無数に行われてきた。ところが、親子喧嘩を終えたことで世界は変わった。勇次郎が負けを認めたことじたいが重要なのではない。極端なはなし、その後もやはり勇次郎が負けることはなかったとしても、絶対者が負けることがあるという背理がいちどでも成立したことが重要なのである。絶対性というものが、原理的なものではなく経験的なものに移り変わったのである。

そこにおいて現時点最強戦線をかきまわす存在である武蔵はどういう立場になるか。武蔵の強さは量に換算できないし、彼も相手をそうしない。武蔵がそうであるというより、世界がそのように変化したのである。

そうしたなかで、武蔵は烈の強さを「関ヶ原」と評した。それは、量的な程度の評価ではなく、今週語られたように、「比喩」であった。油断ならず予測もできないさまはまるで関ヶ原(での体験)だったと、そういっているのである。これもまた「既知」ではないのだろうかという問いは成立可能である。しかし、武蔵は勇次郎敗北の後に、物語を続けて展開させるきっかけとして登場した人物であるので、そうではないと考えたほうが自然だろう。勇次郎の敗北で、世界の強さのありかたは変わった。量的な評価が通用しなくなった。そこに、武蔵があらわれた。ファイターたちは鍛錬しつつ退屈を覚えるという経験で、そのことを伝えているとおもう。つまり、退屈の感覚は、勇次郎を失った結果、宇宙空間で定点を見失ったような状態がもたらしたものであり、じぶんの位置がわからない、どれだけその鍛錬によってじっさい鍛えられているのがはかることができない、そういう感覚によるものだとおもわれるのだが、それと同時的に、武蔵到来の予感がやってきているのである。それが鍛錬を持続させている。つまり、絶対者喪失と武蔵到来は同時に起こっているのだということを、彼らは教えてくれているのだ。

そうしたわけで、武蔵の比喩表現はたんなる「既知」の表明とはちがうのではないかと、このように推測したわけである。ではなんなのかというところの僕の仮説は、ひとまず、バキにも見られた「なんでもないところから強くなるヒントを見つけ出す能力」である。バキの場合は、全知であるところの父が見落としている知、端的にいえばゴキブリのようなものさえも師匠としてヒントを探すことで、あのように強くなっていった。この、じぶん以外は皆師匠である、というスタンスは、そもそも宮本武蔵のものなのだ。関ヶ原の戦いは出来事であり、烈海王は人物であるが、武蔵はそれを同列に語ることができる。たんに事象を量に換算するだけでは、これはできない。武蔵は、両者において似ているものをすくいだす能力があるのである。これはたぶん、戦場で臨機応変に対応しなければならないこととも無関係ではないだろう。出来事でも人物でも、表層の形状や質量のみにこだわらず、その本質を見抜くことができるちから、これが武蔵には備わっているのであり、おそらく彼の強さの不思議な質とも無関係ではないのだろう。


しかしここで佐々木小次郎を持ち出されて、武蔵はなにをおもっただろう。なんか武蔵は「やってみなければわからない」とかいいそうな気がするのだが、ふつうに考え込んで悩んでいる。そして、武蔵がどういうこたえをしても、「で、それがなに?」という感じは残ってしまうだろう。となるとやはり「実は会わせたいひとがおるんじゃ」となるのではないかとおもえてしまうのだが・・・。




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月組東京公演『1789 ‐バスティーユの恋人たち‐』

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月組宝塚大劇場公演 スペクタクル・ミュージカル『 1789 ―バスティーユの恋人たち―』 [B.../宝塚クリエイティブアーツ
¥10,800
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かんぽ生命 ドリームシアター
スペクタクル・ミュージカル

『1789 -バスティーユの恋人たち-』
Le Spectacle Musical ≪1789 - Les Amants de la Bastille≫
Produced by NTCA PRODUCTIONS, Dove Attia and Albert Cohen
International Licensing & Booking, G.L.O, Guillaume Lagorce
潤色・演出/小池 修一郎


1789年初頭、官憲に理不尽に父親を銃殺された青年ロナンはパリに出て、パレ・ロワイヤルで、デムーラン、ロベスピエール、ダントンら革命家と知り合い、新しい時代の到来に希望を託して行く。一方ヴェルサイユ宮殿では、ルイ16世や王妃マリー・アントワネットが、華美な生活を続けていた。病弱な王太子の養育係オランプは、王妃のお供で、お忍びでパレ・ロワイヤルに赴く。
その夜ロナンは、対立する立場のオランプと運命的な出会いをする。
王弟アルトワ伯は革命を潰そうと密偵を放つが、革命家たちの理想の炎はますます燃え上がる。ロナンは革命に身を投じ、遂に7月14日、バスティーユ襲撃に参加するが……。
革命勃発のパリに生きた若者たちの、激しく熱い愛と理想に満ちた青春を描く。

本作品は、2012年にフランス・パリの「パレ・デ・スポール」で初演され、絶賛を博し、以降、フランス語圏で度々上演されてきたヒット作です。日本では宝塚歌劇団が、小池修一郎潤色・演出により宝塚バージョンとして日本初上演。フランス革命に翻弄される様々な人間の生き様を、ポップな現代音楽に乗せて描くフレンチ・ロック・ミュージカルです。また、宝塚大劇場公演は第101期初舞台生のお披露目公演となります。



公式サイトより





月組東京公演『1789 ‐バスティーユの恋人たち‐』を観劇。7月3日13時半開演。


演出は前回のPUCKに引き続き小池修一郎。輸入作やベルばらなどを除く大作は最近ではたいてい小池修一郎で、今回もショーなしのお芝居一本である。

プログラムの小池修一郎のことばにくわしく書かれているが、オリジナルの作品はいわゆるミュージカルとは一線を画す「パリ製スペクタキュル」ということで、家族連れを対象として体育館で行われるような「超大衆娯楽」ということである。そういわれてもどんなものかよくわからないが、たとえば音楽にしても、ミュージカルの物語の流れのいちぶとしてではなく、単独の楽曲としてヒットさせることが目的として書かれているようで、つまりそれだけで聴いても通るような内容になっているという。そこを、宝塚のドラマ挿入歌としての側面を際立たせてつくりなおしたり、あるいは宝塚のスターシステムに馴染むよう、トップコンビのうたを増やしたり、かなり増改築を加えて、小池版1789が完成したということのようである。そういうのはこの先生はほんとに達人ですよね。

以前より、小池先生のつくる台本というのは言葉遣いが非常に独特で、そのあたり分析しているサイトなどないか検索してみたが、出てこない。そうおもいこんでみているだけで、そうでもないのだろうか。芝居として、下手ということではもちろんないのだが、小池先生の個性が表出してしまうようなぶぶんがどこかあるのである。たとえばミュージカル作品としてはオリジナルのオーシャンズ11では、なぜか登場人物が日本の(あるいは中国の)ことわざをつかう場面が、たしか3度ほど出てくる。しかし彼らはアメリカ人である。それをいったらそもそも彼らは英語を話しているはずなのであるから、あれは「本来の像」から一段階翻訳されたものなのであり、アメリカ人である彼らが、別の、なんならヨーロッパ由来の古諺をくちにしているところを、最適なものに言い換えているのだ、と解釈するのがふつうだろうが、オリジナルからして日本人がつくっている作品で、なぜあんなふうにことわざを多用する必要があったのか。ここから先は作品じたいの分析になるが、ともかく、そういう、なにか「小池先生だから」という前置きで解決してしまいそうな独特な言葉運びが多いのである。

とりわけ、このひとはやはりエリザベートの脚色で一般的な認知度が急上昇したとおもうのだけど、あれにしても、オリジナルを知らないでこんなことをいうのはなにも意味がないが、なにか翻訳が独特であると感じるぶぶんがあるのである。語学が堪能でオリジナルとの見比べが可能なかたにぜひそのあたりを研究してもらいたい。

本作では、群像劇というテーマもあって、どこがと指摘するわけにもいかないのだが、どことはなしに、なにかチェーホフ的な、コミュニケーション不全を感じるぶぶんがないではなかった。たぶん、いままでの直観からして、そのあたりを小池先生は意識してはいないのではないかとおもう。ここでいうチェーホフ的なぶぶんというのは、要するにひとがそれぞれかってにじぶんのおもうことを主張して、一見会話が成立しているようでありながら、よく見るとなにも通じ合っているものがない、というものである。チェーホフはみずからのつくった悲劇にしかみえない戯曲を喜劇だといってゆずらなかったそうだが、たぶんそういう、じっさいはぜんぜん通じ合っていないのに通じたつもりでいる人間たちそれじたいの存在が喜劇だと、そういうことなんではないかと、当ブログでは推測してきたのだった。このあたりは、今日一回見た直観的な感想なので、具体的に検証することはできないが(なので話半分に読んでください)、チェーホフの喜劇性じたいはある意味真理であるから、とりわけ今回のような群像劇スタイルではそうしたコミュニケーション不全が生じてきてもなんの不思議もないとはおもえる。そして、チェーホフの喜劇性が自明のことであるとするなら、そういうぶぶんが自然に表出してくる群像劇は端的によくできているのである。

こういうことを以前から考えていて、その結果、たぶん小池先生の作品においては、作品そのものがそれとして自存しているのではなく、観客がそれを鑑賞してはじめて作品として完成する、ということがあるのではないか、という結論にいつも至るのである。まあ、くちにしてみればそれは当たり前のことなのだが、たとえばセリフ表現が個性的すぎても、うたにのせて、かっこいい男役がそれをくちにすれば、そんなことは問題ではないし、そもそも、そうでなければ正確に伝わらない、ということはおそらくあるのである。極端なことをいえば、台本を見たじてんで仮に文法がおかしかったとしても、そうすることによってじっさいに舞台にそれが表出されたときなんらかの表現が結果として現出していれば、それは成功なのである。それはひょっとすると小池先生が翻訳を通じて身につけた芸技でもあるのかもしれない。翻訳というのは、どうやっても歪な作業になる。たんに意味内容を言い換えるだけでも必ず誤差が出るにもかかわらず、ミュージカルではそれをうたわなければならない。特に日本語はすべての音に母音が含まれているので、英語なら一小節に四分音符ひとつにつきひとつずつ計4つの単語を放り込めたものが、日本語ではひらがな4つのことばひとつしかいえないという事態にもなる。そうしたなかで、どうやってオリジナルを翻案していくかとなったとき、多少アクロバティックな飛躍は不可欠なのではないかと。


本作においての1789年とはフランス革命の年、要するに宝塚歌劇を象徴する『ベルサイユのばら』の、文字通り裏側のおはなしである。ただ、本作が変わっているのは、龍真咲演じるロナンがひとりの農民にすぎないということだ。それはまあ、ほんとに通りすがりのひとと差がないようでは感情移入も難しいので、劇的な展開もあるわけだけれども、とりあえず脚本の原理の次元では、彼らがみんな等価であり、それと同時に交換不可能であるということが強いメッセージとして開いているのである。

輸入作なのでしかたない、ということもあるが、通常ヒロインを演じる娘役トップの愛希れいかがマリー・アントワネットを演じるわけだが、これがロナンとほとんど接触さえしないのである。かわりに、ロナンの恋人にはアントワネットの子供の教育係であるオランプが当てられる(ちなみに今回見たものは海乃美月という期待の娘役が堂々と演じており、役替わりで早乙女わかばも演じているようだ)。この配役には小池先生も悩んだようで、わざわざヒロインはアントワネットでなければならない、というようなことがプログラムには書かれている。つまり、どれだけオリジナルをいじっても、ロナンとアントワネットがからむことはない。ではオランプをトップ娘役が演じればいいのかというと、そうもいかない、というのが小池先生の考えのようだ。僕は、ふつうに愛希れいかのファンなので、かわいい役柄を見たい気持ちもあり、なんか、なんていうのかあれは、ポスターのアントワネットのあたまにのってるケーキみたいなやつを見て、正直ちょっとこれはどうなるのかなという感じがした。同様にして僕はふつうに美弥るりかのファンでもあるのだが(帰りに買いそびれていたパーソナルブックを買った)、ポスターの青白い化粧を見たときは正直どうなるのかと。けれども、毎度のことなのに学習しないのだが、舞台で見るのとポスターで撮ったものとではぜんぜんちがうので、どちらも完璧な仕上がりで、アントワネット初登場時のなにか「アントワネットを演じている」かのようなとばしっぷりもすばらしく、アイドルじゃあるまいし、あんまりかわいさを求め続けるのもどうなのかなと少し反省してしまった。


はなしがそれたが、とにかく、通常組み合わせとなるトップコンビが、恋愛関係ではまったく無関係という、宝塚ではかなり異色の内容となっているのである。しかし、オリジナル作品ではないので結果論だが、これもまた本作の群像劇風味を際立てる結果ともなる。トップのふたりの恋の成就を、ある意味で物語の結末としたとき、どうしても、すべての伏線、すべての展開は、そこへ向けて収斂していく、個的な意味を欠いたひとつの物語的装置にすぎなくなる。そして、単純にいって「カップル」が成立したとき、物語の歪みはすべて解消され、展開はひとつのイメージに結実してしまう。その展開の背後にもまた各自の物語がある、という推測は批評の仕事であり、二次創作の領域である。このときに、各自各様の物語が、地獄が、それぞれのしかたで存在している、という本作の基本は消失してしまうだろう。まず、トップコンビがふつうはカップルになる、という前提ありきの、これはくりかえすように結果論ではあるが、それを踏まえたうえで彼らがまったく接触しない、ということが、本作の群像劇風味を際立たせるのである。


父親を殺されて奮起したロナンは、おそらく宝塚史上かつてないほど健康的で明るい珠城りょうのロベスピエールらと合流し、革命の芽を育てていくのだが、あるときロナンは彼らがじぶんとは異なる身分のプチブルジョアだということに気づき、お前らなんかに俺たちの苦しさがわかってたまるか、というようなことを言い出す。これは、「それをいってはおしまいだ」というひとことである。それはそうなんだけど、それではいけないとおもうから、彼ら「あたまのいい連中」はそれを理論化し、行動に反映させ、国のありようを変えようと運動しているわけである。貧しさのもたらす苦しみがいっぽうに傾き、そうでないものにはその苦しさがわからないような世の中だからこそ、彼らはそれを変えようというのだ。そしてこれは、通して僕がぼんやり感じたチェーホフ的なものとも通じ合うかもしれない。そこであきらめて、ある意味写実的に描出したのが、「喜劇」なわけである。

それを、ロナンは、おそらくオランプとの恋を通じて克服する。貧しさを主張する「俺たち」というようなくくりからははずされるであろう、王妃つきの身分であるオランプを他人とはおもえない感情でとらえることで、断絶した他者への架け橋としたのである。ひとはそれぞれ理解し合えないし、そんな個々に勝手に生きているひとびとの交流は「喜劇」にちがいないが、それでも交流しようと努力することはできるだろう。少なくとも、「わかるはずない」とこころを閉ざしてしまえば、革命は起こらないのである。「ベルサイユのばら」が特異なのは、貴族と平民のような対立があって、多くの作品がなんらかの妥協点を見出し、折り合いをつけるのに比べて、「対立相手の消失」というところで結末をむかえるということがある。たぶん、そうした事情もあって、ベルサイユのばらにはフェルゼン編とかオスカル編みたいにいろんなバージョンがあるのである。彼らには、相手側には理解できなくても、それぞれの事情があって、それぞれの人生を一生懸命生きている。が、チェーホフ的な他者との断絶が真理だとしたとき、対立の解消は幻想でしかない。じっさい、多くの「貴族対平民」の対立は、貴種流離譚的に、じつは平民の主人公が高貴な生まれだった、というような結末をむかえるのであり、そこではけっきょく対立そのものの解消は起きていないのだ。物語のうえでは、たたかいに勝利することで革命が成るわけだが、しかしそこで消え去ったたとえばアントワネットにも物語はある。貴族が全員死滅してしまえば、たしかに対立はなくなるが、それはいっぽうの、たとえばオスカル編のベルサイユのばらにおいてだけのはなしであり、両者が和解してわかりあったわけではない。ベルばらが、以上のように個の物語にこだわって対立解消を物語的に実現させたのに対して、本作では、たしかに革命を成しつつも、その対立解消じたいを目的にはしていないのである。愛をはじめとした人間的感情と、それをよすがにした歩み寄りの努力、これが、群像劇としての目指すところなのである。だからこそ、文字通り劇的に、ひとつの結末に伏線が集まっていくようなスターが主人公にはなっていないのだ。


役作りなのかなんなのか、見たところ龍真咲のやせかたはけっこうなもので、ちょっと心配だけど、うたは心地よく、表情も豊かでじっと見ていると時を忘れてしまう。このひとにはこのひとの人生があるのだという当たり前のことが、よくそのやせっぽちの体躯にあらわれていた。

実質ヒロインの海乃美月は、おとめを見てその若さにちょっと衝撃を受けてしまったが、なんだか知らないけどすごい貫禄である。この学年じゃあ、そんなに新人公演の経験もないだろうに、まあなんというか舞台役者の肝がすでに備わっている感じだ。群集に混じっていても目を引く可憐さもあり、先が楽しみである。

愛希れいかはとにかくうたがかなり上手くなっていて、初登場のシーンのあのものすごい衣装も含めて唖然としてしまった。かわいい娘役と考えているぶん、どうしても「かわいいもの」としてみてしまうが、太い人柄も余裕をもって演じられるようになっていて、なんだかほんとう、龍真咲も含めて、立派なコンビになったなあと、フィナーレを見つつひどく感動してしまった。ただあれだな、このひとまた筋肉が増えてたな・・・。個人的にはいいけど、肩まわりなどあんまりつけすぎないほうがいいんじゃ(余計なお世話か)


あと個人的に胸をうたれたのは沙央くらまと光月るうの役柄だった。ふたりはともに、理解の断絶した身分を結びつける(可能性のある)柔軟な立ち位置の人物であった。光月るうのそれは失敗したわけだが、沙央くらまのばあいはロナンとロベスピエールたちをつなぐことには成功した。もうじぶんにできることはないとあきらめ、辞任を決めた光月るうの表情には胸をしめつけられてしまった。


ともかくたいへんな大作である。ダンスなどもはじめて参加する振り付けの先生がいるらしく、細部も意欲的に仕上がっている。内容的にはいちど見ただけではわからないというぶぶんもあるかもしれない。時間があったらもう一回くらい見たいけど、不可能なので、DVDを買います。みなさん、最後までケガなどありませんように。




今週の闇金ウシジマくん/第378話

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第378話/ヤクザくん25






熊倉が捕まってその子分が殺され、鳶田が重傷を負っているそのころ、猪背権蔵、鳩山大成など、若琥会の最高幹部たちはのんびり麻雀をしていた。猪背と鳩山はこれから銀座に遊びに行く予定だ。この前に麻雀をしていた描写の続きだろう。あのときも銀座に行くといっていた。そろそろ行くかというところのようだ。これは要するに、彼らはなにも知らないということである。滑皮は熊倉からはなしが伝わって、鳩山たちからなにか指示があるのを待っているわけだが、総取りしようとした熊倉は誰にもそのことを話していなかったため、こんなことになっているのである。


鳩山のそばには磯辺という、なにやらヅラっぽい男がかけている。鳩山は、飯に付き合えなくなったと美紗子に伝えてくれと磯辺に指示する。たぶん愛人だろう。無理いって寿司屋に席つくってもらってるから、美紗子といっしょに行ってこいとも。ハブとか、あるいはヤクザじゃなくてもちょっと「消費者」気質の強いひとだったら、そんな寿司屋の席なんてふつうにシカトしそうだけど、ここらへんはオジサンヤクザというところだろうか。義理とか貸し借りでずっと生きてきたので、相手がカタギでもそういうところはけっこうしっかりしてるのだろう。

磯辺が美紗子に電話をするのだが出ない。美紗子というのはたぶん水商売なのだろう、今日は店が休みのはずなのに、出ないのは妙だなと、そんなに深く考えた様子もなく、鳩山は磯辺を家に行かせる。美紗子の家は鳩山と磯辺しか知らないというから、磯辺は熊倉にとっての滑皮、滑皮にとっての梶尾みたいな、マネージャーのような存在なのだろう。

そろそろ銀座に行こうかというところで磯辺から電話がかかってくる。合鍵をつかって美紗子の家に入った磯辺は、誰かが押し入って美紗子を襲ったらしいことを発見したのだ。美紗子は、テープでふさがれて顔や表情は不明だが、ロープで縛られて震えている。行うにあたってすごく合理的な結び方をされているので、緊縛とかの技術がつかわれているのかもしれない。彼女じしんの手でV字に開いた足が固定され、全裸で転がっているのである。

磯辺は家が襲われているとしかいっていない。鳩山がどう受け止めたのかは不明だが、いずれにせよ事件だ。たんなる強盗の可能性もあり、犯人は「鳩山の愛人」をねらったのではない可能性もある。しかしもしそうだとすると、美紗子の家は鳩山と磯辺しか知らないのだから、ずいぶん前から狙われていたことになる。そうしたことを即座に理解したのだろう、話をきいていた猪背は銀座を中止にして幹部を集めるよういうのだった。


ハブのアジトでは熊倉の拷問が続いている。ううっ・・・、これは痛い。手や足の爪のあいだに2,3本の釘が打ち込まれているのである。爪を破っているものもあるが、そのまま指の奥に入っているものもある。これは痛すぎる。ほんとうにこのアジトは拷問部屋なんだな。

ハブは涼しげな顔でトンカチをもっている。熊倉は丑嶋の隠れ家を明かしたらしい。思ったよりかんたんにいった、カタギの加納のほうがよほど口がかたい、などとハブはいっているが、いや水責めとかドライヤーもそりゃきついだろうけど、こんなの花山薫じゃないと耐えられないでしょ・・・。それから、例の最上にヤレといった件もある。描写が微妙すぎて、あれはけっきょくやったのかやらなかったのかよくわからなかったのだが、こう流れを見ると、どうもあのときやったような気がしてくる。そうじゃないと、それをやめて、次の拷問にうつったことになってしまう。やるやらないは、拷問としての意味はもちろん、録画してのちのち便利につかうためのことだったと考えるべきだろう。だから、あのとき最上が吐いていたのは、やったからなのだ。それで音をあげず、たぶんぜんぶの指に釘をうたれるまで丑嶋の場所をいわなかった熊倉はむしろすごいでしょ。

もっとも大きな疑問は、実行した最上である。いったい、ノンケの彼がどうやって・・・。薬でもつかったのだろうか。


熊倉がすぐに丑嶋の場所をはかなかったのは、別に丑嶋のことをひととして大切におもっているとか、そういうことではないだろう。金ヅルとして大切におもっているというのはあるだろうが、それよりも、ヤクザとしてのプライドがあっただろう。もはや丑嶋についての価値などここまでくると問題ではない。そうではなく、いわれるがままに必要な情報を示してしまうようなことが、ヤクザの熊倉には我慢ならなかったはずなのだ。

だがそれもさすがにこれでは守りきれない。ハブは最上とマサルに加納たちの見張りを言いつけ、加納から奪った金も最上に金庫に入れるようにいって、拳銃を準備し、獏木、家守を連れて出陣するのであった。


車のなかで家守が突然、ハブの携帯がつながらなかった一時つながらなかったことを言い出す。そんなこともう忘れてたけど、ハブサイドで丑嶋襲撃に失敗し、家守のほうでは柄崎たちを探していたタイミングで、ハブの電話がつながらなかったのだ。まさか滑皮と遭遇して失敗してたなんて家守はおもいもしなかっただろうから、山奥に丑嶋の死体を捨てにでもいっているのだろうと想像したのだった。

しかしそうではなく、ハブは鳩山の愛人宅を襲撃していたという。数週間前から探偵をつかって調べていた、愛人のことは誰にも教えていないっぽかったから精神的ダメージはでかいはずだと。


戌亥が丑嶋にメールしている。最上の乗っていた車にGPSを仕掛けていたので、それが到着したアジトの場所が割れたのだ。しかし、その場面のスピリッツがもう手元にないので確認できないが、いまハブたちが乗っているのはそれとちがう車なのだろうか。なんか似たようなワゴン車だったような気がするけど・・・。

まあ、戌亥はその場所を調べて、ハブ組の物件だということまで突き止めているので、彼が示しているのはあの倉庫、いまマサルたちがいるところと見てまちがいないだろう。もし次にハブたちが停車したところを調べたら、それは猪背組の物件ということになり、ということは丑嶋たちと再び遭遇していることになり、このメールも無意味になってしまう。


それを受けて、丑嶋はそこに向かおうとする。滑皮は、相手の人数もわからないのにひとりで何ができるというのだ、と、案外ふつうの対応だ。熊倉とはずっと連絡がとれない、それは今兵隊と武器を集めているところだからなのだ、待っていろと。しかし丑嶋としては、時間がたつだけ加納の命が心配になってくる。加納の男気に応えて、相手の罠にみずからはまるようなまねはしたくないが、助けに行くとなると、状況次第ではまた別なのだろう。

滑皮は、命令だと怒鳴りつけるが、丑嶋は「俺は誰の子分でもないんで」と応える。これはつまり、滑皮の子分ではないということを遠まわしにいっているのである。

続けてなんだか軽い調子で、預かってる銃を3丁売ってくれないかともいう。柄崎にとってこさせて現場で合流するからと。となると、その銃は丑嶋、柄崎、高田のぶんということになるだろうか。柄崎は役に立つだろうが高田は大丈夫かな・・・。

丑嶋のばあい、いつも滑皮になにかをいわれてくちを開く、というパターンしかなかったので、丑嶋がじぶんからなにかを滑皮に話しかけるという場面は新鮮だ。強権的に動きを抑えてくる滑皮を嫌いは嫌いでも、しばらくいっしょにいて打ち解けているぶぶんもあるのかもしれない。


それを受けて、じぶんの銃の弾を確認した滑皮も立ち上がる。俺も行くと。




つづく。




胸の熱くなる展開が続く。


滑皮は組織の人間なので、熊倉にそこにいろといわれている以上、動けない。内心遅すぎるとおもっていても、梶尾たちへのふるまいからもわかるように、彼はじぶんがどう動くべきなのかという客観を通して行動を選択している。ちょっとくらい理不尽でも、それにいちいち逆らって上司を殺しまわっているようでは、組織は成立していかない。もしその理不尽さを組織の構造そのものから抜き去ろうとしたら、自分自身が部下に理不尽さを感じさせない上司になる以外ない。たぶんそんなような考えなのだろう。だから、もやもやしても熊倉の命令にはしたがうし、そういう感情も出さないばかりか、その件でもやもやしているっぽい梶尾に「熊倉もむかしはかっこよかった」などといってみたり、勝手に動こうとする丑嶋を一喝したりするのである。滑皮を「かっこいい兄貴」たらしめているものは、まぎれもない責任感、あるいは使命感なのである。

しかし、今回彼も動くことになった。理由はいくつか考えられるが、丑嶋がいうことにも一理あるというのが大きいだろう。丑嶋としては加納の命が心配だ。その感情じたいは滑皮にもある。たいていのヤクザは、部下が殺されても、とりあえず心配なのはじぶんの面子だろうが、滑皮のばあいは交換不可能なものとして鳶田たちをあつかってきた。同じくらいの腕っ節の若者を補充しても、鳶田が元気になって戻ってくることと等価ではないのである。わかりやすくいえば、「俺の鳶田」がケガをしたことについてふつうにはらわたが煮えくり返っているはずなのだ。そしてその感情の向きは丑嶋同様ハブなのである。

それから、熊倉から連絡が遅いこともなにか妙だとは、正直なところおもっていたのだろう。組織人としては、熊倉の命令は未だに有効である。基本的に彼らの関係は信頼で成り立っているので、命令をきかない、あるいはそれを疑うということは、その相手の実力を疑うということでもある。スポーツ漫画や、ハリウッドのアクション映画、特に実在の軍隊が出てくるような映画ではおなじみの文法である。滑皮としては、熊倉の命令に背く行動をとるということは、そのまま熊倉の判断を疑うということになり、組織人としては失格ということになるかもしれない。しかしいまは非常事態である。その場その場で、臨機応変に対応していかなければならないこともある。それが丑嶋を「クソ野郎」と呼ぶ感情なのだろう。どうやらこれはじぶんも熊倉の命にそむいて動かなければならないところらしい、クソッ、というところなのである。


今回いちばんの謎は美紗子襲撃である。ハブは、携帯の電源がきられていたあいだ、美紗子を襲っていたという。そのタイミングは、丑嶋拉致に失敗して、家守たちが加納を拷問していたところだ。いったいなんのためにそんな行動に出たのか? その直後、ハブは熊倉から電話を受けて、例の取引を持ちかけられる。つまりこれは美紗子襲撃のあとのはなしだったことになる。ハブとしては、もうこのとき宣戦布告をすませてしまっているわけである。それを知らない熊倉の持ちかける取引など、マヌケにしか見えなかったはずだ。


ハブの行動を推測してみると、まず出所後、丑嶋襲撃を計画するにあたって、ケツモチのことを調べなくてはならなかった。そうして集められた情報のひとつに、鳩山の愛人のものがあった。ハブのいっている精神的ダメージというのは、要するに、誰も知らないはずの美紗子が襲われたという事実が示すもの、つまりずいぶん前から猪背はねらわれていたらしいということである。おもいつきの、感情的な襲撃ではないということなのだ。そんなことが現代であるとは、鳩山たちも想像もしていなかったのかもしれない。だから「まさか・・・」なのである。

ハブは丑嶋襲撃に失敗した。そのときに、正確な動機は不明だが、美紗子のことを思い出したのである。滑皮の部下を半殺しにしたことで、たたかいは始まってしまっている。この間、家守たちのいない状況でなにかできることはないかと、ハブはあるいは考えたのかもしれない。しかし携帯の電源を切っていたのはなぜだろう。たんに、襲撃時に電話がかかってきたら気づかれてしまうとかそんなことだろうか。

ハブは美紗子の足をV字に固定し、レイプしたようだ。顔をテープで覆い、股間のぶぶんのみが前方に突出してあらわれるような、ある意味非常に合理的な結び方である。この意味するところは、彼らが襲った動機が「美紗子」という個人の人格にはないということである。この行為において、美紗子はまるでモノのようにあつかわれている。あんまり露骨な表現をすると規制がかかってしまうので難しいところだが、そこにあるのはただ穴だけなのである。そして、その緊縛をそのまま残していくということは、じぶんたちはお前たちの身内をモノとしてあつかったのだということがメッセージとして示されているということである。目的としては、ヤクザの愛人であるので、その家に金が隠されたりしていた可能性もある。あわよくばそれも、というぶぶんはたぶんあったろうが、しかし確証もないのに、滑皮とドンパチやらかした直後にそんな行動をとる意味があるだろうか。本来なら、即座に家守と連絡をとって連携し、アンテナをはるべきところではなかったか。その忙しいタイミングでなぜハブは、携帯の電源を切ってまでして、鳩山の愛人を襲い、しかもレイプしたのか。その理由は杳として知れない。この行動のもたらした実際的な意味としては、少なくともハブは「精神的ダメージ」ととらえているようである。たしかに、誰も知るものがないはずの美紗子が襲われた、しかも意味もなくレイプされたというのは、不気味ではある。猪背組のほうでも今後事情を知るほど、ちょうどいまわたしたちが戸惑っているように、なぜハブはこんな行動に出たのかと勘繰ることになるにちがいない。そして、実はそのことで「精神的ダメージ」という意味での目的は果たされていることになる。たんなる丑嶋への私怨のみに突き動かされて起こったことではなく、ずっと前から計画されていたことである、というようなメッセージが、「美紗子」を襲うという行為には自然と含まれるのである。さらにハブは、たしかにひとつの人格である彼女をモノとしてあつかう。彼女が襲われたのは、「美紗子」だったからではない。「鳩山の女」だったからである。どう考えても意味がくみとれない行為が、ずいぶん前から計画されていたらしい、そして、やつらが狙っているのは猪背の関係者ということであればほぼ無差別である、こういうような発想が、支離滅裂に見えるハブの行動によって猪背のなかにもたらされるはずなのである。

ハブの意識しているところでは、おそらくそのように解釈できる。しかしそれはやはり計画的とはいいがたいもので、どうしても、なにかべつの無意識が働いているのではないかとおもわれてしまう。ひとつには、ヤクザでは常識的概念である「面子」がかかわっているだろう。ハブは丑嶋に殴られ、おそらく服役などもあったことで、この反撃が遅々としてしまい、大きく面子を損なうこととなった。熊倉や滑皮が内心ではなめてかかっていたことからも、その意味は知れる。それで、もう丑嶋ひとり殺してどうこうではなくなった、カウカウを皆殺しにしてやると、そういうことになった。しかしここでさらにハブは丑嶋拉致に失敗してしまう。鳶田に重傷を負わせはしたが、井森は車にひかれてそれから出てこないし、なぜかぴんぴんしている獏木も丑嶋に殴られている。先の理屈からいえば、ハブは「カウカウを皆殺しにしてどうこうではなくなった」ということになっているはずである。それは滑皮も予想していたことだ。ハブにはもう後がない、なりふりかまわず猪背に攻撃してくるはずだと。その「攻撃」というのがなにを意味するかということなのである。ハブは、ひとつの目的として猪背を襲うわけではない。大きな面をして鬱陶しい猪背グループをつぶしてしまおうと、計画しているのではない(いや、していたのかもしれないが)。彼は「損なわれた面子」を取り戻そうとしているのである。「面子」とは、他者の評価のことである。やられたことを同じ量だけやりかえしても、企業のブランド・イメージなどを想像するとわかりやすいが、面子を取り返すことはできない。面子を損なったなにかしらの出来事の記憶がかすむような新たな記憶がそこに植えつけられない限り、それは回復しない。つまり、「凶悪で素人にも容赦ないヤクザ」というイメージが損なわれてしまったなら、それを損なった丑嶋に復讐するだけではなく、やっぱりハブは「凶悪で素人にも容赦ないヤクザ」だと多くのひとが再認識するようなことをしなくてはならない。ハブの暴走はこうした事情によるのではないだろうか。そうであるなら、美紗子襲撃が本来家守と連携していかなければならない非常に重要なタイミングであった「滑皮との接触直後」であったことの説明にもなる。面子を回復しようとしたその行動それじたいで再び大きく面子を損なってしまったのである、どこかで凶悪さを表現しなければとハブのなかに焦りが生じ、「誰も存在を知らない組長の愛人を意味もなく、そしてモノのように、冷酷にレイプする」というシナリオが瞬間的に浮かんできたのである。


ただ、これはかなりやっちゃったなという感じはある。ハブのさらにうえの組織も実はこの件にかかわっている、という可能性はまだある。しかしそれでも、たぶん組のちからでいえば猪背のほうがうえだろう。鳩山や熊倉、滑皮の周辺には次から次へと新しい顔のヤクザが登場するのに、ハブは新登場のキャラが最上を最後に全然いないのである。熊倉がまぬけにもじぶんのところではなしを止めていたのは、ハブにはかなり好都合な展開だったはず。その時点で美紗子襲撃は済んでしまっていたので、後の祭りではあるが、いずれにしてもハブが勝てる要素はひとつもなさそうな感じがする。そのことをハブがわかっていないはずもない。となれば、やはりもっと大きな黒幕がいるのか、あるいは、それでいいとハブは考えていることになる。ハブには、もはや今後の生き方とか、どうやってこの戦争に勝つかとか、そういう意識はなく、ただ失われた面子をどうやって取り戻すかということだけに文字通りすべての行動が支配されているのである。ヤクザがいちばん面子を損なわないでいられるのは、ほかのヤクザと接触しないことである。だから、究極の護身は、家から出ないことなのだ。しかし、引きこもって他のヤクザと接触しないヤクザは、それはそれで面子を損なうことだろう。おもえばこの世のヤクザの「面子」の総量というのは一定なのである。したがって、じしんが面子をとりもどすということは、誰かからそれを奪うということに他ならない。徹底してエゴイスティックにならなくては、面子にこだわりつづけることはできないのである。くりかえすように面子とは他者からの評価のことだ。いまのハブは、他人がじぶんをどうとらえるかということに全行動を支配されている状態なのだ。滑皮もまた、他人の目、つまり客観を通して行動を規定してはいる。しかしそれはハブとは異なっている。ハブの「凶悪さ」を定める基準などというものは存在しない。あるとすれば、ひとがそれを通して身振りで表現する恐怖とか、それくらいのものである。いっぽうで滑皮は、組織でじしんをとらえている。他者との関係性においてじぶんが果たすべき役割を確認し、そのモデルにしたがっているのである。そうしないと、じぶんを救ってくれたヤクザというものが滅びてしまうから。やはりここには対比があるとみていいだろう。ハブはじぶんの面子を取り戻すためにちからを誇示しつづける。しかし、ヤクザものがみんなそのようなエゴイストになってしまえば、自然状態に陥り、組織は滅びてしまうのだ。




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最近はまたいろいろ勤務形態が変わって、ふつうに物理的な時間がなくなってしまい、ぜんぜん、なにもできない。なにもできないし、疲れがひどくてうちに帰っても筋トレと定期の更新をするのがせいいっぱいで、まったく本が読めていない。ブログを書くときというのは、なぜだか知らないが、ふだんとはちがう脳みそのつかいかたをするので、それはそれで刺激的なのだが、それらの活動のもとになっているのは僕のばあいこれまでの読書の積み重ねなので、それが停止してしまうと、なんとなくあたまが悪くなっていくような気分になってしまう。


しかしそれでも、書店に勤めているので、あれも読みたいこれも読みたいという衝動は抑えられず、次から次へと本はたまっていくことになる。現状読み途中の本は、1年以上読んでいない、放置本を除いても、たぶん軽く3,40冊にはなるとおもう。僕は本を読む速度がひどく遅い。もともと遅かったのが、平野啓一郎のスローリーディングの発想などで正当化されて、生涯で数冊しか本を読まないひとくらいまで速度が落ちてしまっている。たしかに、本をちゃんと読もうとしたら速くは読めないし、ちゃんと読まなきゃ意味がない。意味がないのだけど、しかしいくらなんでも遅すぎるだろうと。言い訳としては、年々読むものが難解になっていっているということはたしかにあるとおもう。しかしそれをさしひいても、1冊も読了本がない月があるようでは、もはや書評ブロガーとは呼べないだろう。


まあこんなことを書いているひまに読み進めればいいということなのだが、ブログが定期の更新ばかりになってしまっているのも気に入らない。もともとは、書きたいことがあり、訓練の一環としてブログをはじめたのである。義務や仕事になってはいけない。もちろんウシジマやバキの感想は好きでやっているが、ブログの表面を見たときにそれら専門の感想サイトととらえられかねない現状は、あまり好ましくないのである。くどいようだがげんにうちはウシジマやバキの感想を定期的に書いていて、更新の中心になってはいるが、理想としてはたくさんの書評や映画評、舞台評、音楽評などに混じってそれが見えている、というところなのである。



かといって現状では大好きな宝塚の観劇に向かうのもふらふら顔面蒼白といったていで、ブログを、ということはじぶんの思考の堆積をよりカラフルにすることなどできそうにない。書きたいことは書評みたいな大型の記事でなくてもけっこうあるが、完成させる元気がない。いま書いているような、あんまりあたまをつかわない愚痴っぽい記事が限度である。そういうわけで、たまにはなんの意味もない記事が混じっていてもいいんじゃないかと考えた次第である。

いちおう、状況を改善する方向で努力しているが、なかなかうまくいかず、数カ月はこんな状態が続くかもしれない。また8月は1年でもっとも業務の過酷な季節である。対抗策としてはやはりからだを鍛えるしかない。筋トレをすることによって、我々は立ち仕事なので、たとえば背中とか僧帽筋とかの翌日は冗談ぬきでつらくて、いったいじぶんはなんのために鍛えているのか、とおもうこともないではないが、しかしたぶんこれは、鍛えていなければもっときついことになっていたのではないかと想像する。根拠はないが。でも、30過ぎてからたしかに何週間も休みなしとかが二十代前半のころよりしんどく感じられてはきているけれど、意外なところで筋トレの成果を感じないこともない。これは鍛えていなければ乗り越えられなかっただろうなーということは、たしかにあるのである。


いくらなんでも愚痴ぐちいいすぎなので、いま読んでいる本をてきとうに並べてそれっぽい記事にしていく。



日本の思想 (岩波新書)/岩波書店
¥799
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ユダヤ人問題に寄せて/ヘーゲル法哲学批判序説 (光文社古典新訳文庫)/光文社
¥1,512
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ショッピングモールの法哲学: 市場、共同体、そして徳/白水社
¥2,052
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比較的硬めの本でいまメインで読んでるものだとこのあたりになるが、この3冊の迫るところがまた似たようなところで、僕の読みの速度で、あいだをあけて、しかも同時に読んでいると、ほんとにわけがわからなくなってくる。というか、ただでさえ硬い本なので、どれも半分くらい読み進めているのに混乱の結果か、どれもほとんど理解できていないような状況である。読みなおしたほうがいいような気もするが、そんな時間はないのであるどうしよう。




縮みゆく男 (扶桑社ミステリー)/扶桑社
¥946
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何者 (新潮文庫)/新潮社
¥637
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匿名芸術家/講談社
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ソポクレス コロノスのオイディプス (岩波文庫)/岩波書店
¥454
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ねむれ巴里 (中公文庫)/中央公論新社
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小説類で持ち歩いているレベルだとこのあたりになる。特に匿名芸術家は非常に楽しみにしているが、まだぜんぜん読めていない。



その他エッセイや新書などがもうじぶんでも開くまで存在を思い出せないほどあっちこっちにちらばって落ちている。ちょっとまずいよなと真剣に悩んでいるが、いっぽうでわずかな居心地のよさを感じないでもない。どの本を拾っても、ほとんど初めて開くような感じだから。


とりあえずしばらくはこんな生活なので、いろいろ大目に見てください。




今週の刃牙道/第68話

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第68話/佐々木某






烈の強さの、その量というより質について、関ヶ原というふうに形容した宮本武蔵。

続けて光成は武蔵のライバルとして語り継がれる佐々木小次郎について訪ねる。小次郎と比べて、烈はどうだったのかと。烈は現代でもまあ10本指には入るであろう、最強者のひとりである。武蔵は小次郎とも烈ともたたかった唯一の人物だ。烈に苦戦したというなら、小次郎とくらべてはどうなのかと問うのだ。ひとつには、光成としては小次郎のことをずっと聞きたかったというのがあるだろう。伝わっているはなしで武蔵がいちばん苦労した相手といえば小次郎だろう、で、いま烈にも苦戦したわけである。小次郎の強さを確認するいい機会だと、そんなふうに考えたのかもしれない。


武蔵が考え込んでいる。悩み、迷っているようにみえる。光成はその状況に感激している。宮本武蔵が、佐々木小次郎と烈海王のどちらが強かったのか判定しているその場にいあわせているのだ。現代によみがえったプラトンにマルクスを読ませて、ソクラテスと比べてどっちがあたまいいとおもいます?と問うようなもんだろうか。そう考えると恥ずかしくなってくるな。


と、武蔵がやっとなにかに思い至ったというような表情を見せて、「船島だ」という。船島というのは巌流島の正式な名前だという。光成のいっているのは、船島でたたかった佐々木なんとかいうやつのことだろうと、こういうのである。要するに忘れていたのである。たしかに前回、光成は佐々木小次郎とはいわず、「佐々木某」というふうにいっていた(うろ覚え)。それで当然通るものと、誰のことかわかるものと考えて、もったいぶってそのようにくちにしたわけである。しかし武蔵としては小次郎の印象は薄く、佐々木・・・って誰だっけと、考え込んでしまったわけである。小次郎の流儀さえうろ覚えである。ふーん、巌流島の巌流って、小次郎の流儀のことだったのか。

光成が念のため確認する。小次郎というのは最大の宿敵ではなかったのかと。武蔵のこたえは「普通」である。別に弱くはないけど、特段いうほどでも、というぐらい。

伝わっている以上の強さを見せている武蔵である。ありえないはなしではないが、少しがっかりもする。では、翻って、烈はふつうだったのかとまた光成は問う。要するにこれまでの武蔵のたたかいの歴史において烈の位置はどうなのかということを確認したいのだ。なにか興味本位で強さ比べをしているようでもあるが、そしてかなりのぶぶんそれはあるとおもうが、やはり烈の死をきちんと価値のあるものとして認めたいというぶぶんがあるのだろう。

もちろん普通ではない。合戦そのものにたとえるほどである。そして武蔵は、これまで紹介してもらった3人はどれも決して「普通」ではなかったとも述べる。この3人には佐部は含まれていない。バキ、独歩、烈のことだ。彼らなら戦国時代でもそこそこ名をなしたであろうと。まあ勇次郎が実行してきたことを考えると、独歩のスタイルでは微妙だが、スピードを旨とするバキ、烈はかなりやりそうな気もする。特にバキは、いちどブラックペンタゴンから脱獄しようとしたときの活躍をおもえば、戦果ということであればそうとうのことをしそう。独歩も、かわいそうなくらい徹底的に武蔵にやられてしまったが、しかしそれは相手が武蔵だったからであって、相手が一般人の集合であるなら、かなりのところまではたしかにいけるだろう。

そういうわけで、ピクルが地下闘技場の意味を学習したように、相手を手配するものとしての武蔵の光成への信頼はしっかり築かれている。武蔵はもう次とたたかいたくてしかたがないのだった。


バキは本部以蔵の道場を訪れている。入門を申し出ているようだ。誰にでも開放されている道場なのだから、断る理由もないけど、なぜいまどき古流武術なんかを?と本部が訊ねる。これは微妙な問いかけである。ふつうに考えて、バキと本部では強さの差がありすぎる。烈との件があり、案外本部って強いのかも、ということがみんなに共有されたとしても、本部があっさり一回戦負けしてしまったトーナメントで優勝し、本部が何度やっても勝てない勇次郎に、不思議なかたちではあれ、最強の座を譲らせた人物である。これは、主観的な感想ではなく、客観的な事実だろう。芥川賞作家が街のおじさんがやってるような文章教室に顔を出したら、おじさんはなんと反応するだろう。「なぜあなたのような文章の達人がこんな講座を・・・?」と返すのがふつうではないだろうか。本部の返答にやや違和感が残るのは、そこにバキという個性と、それがこれまでもたらしてきた経歴が感じられないからだろう。「いまどき古流武術なんて」という感想そのものは、客観的なものではある。しかしそれは、「古流武術」に対して両者が同じ目線であるときだけなりたつ言説である。当然前提となるべき、社会的合意といってもいい客観的事実、つまりバキの「最強の少年」という経歴をすっとばして、古流武術について語るのである。ここには、古流武術に対するある種の信頼とともに、すでにバキへのとがった意識のようなものが見える。まずじぶんより強いとみてまちがいない少年に対しての敬意なり警戒なりがないのだ。となると、本部はそうはおもっていないことになる。


武蔵の件は互いに了承済みである。武蔵より強くなりたいから、ヒントになるかとおもって、バキは本部を訊ねているわけだ。それを、なにしにきた、と返しているわけである。バキは返答に窮して、適当なことをいうのだが、本部は「駄目だ」とあっさり断る。で、はなしが妙な方向にいく。銃で脅してでも烈をとめるべきだった、守護れなかったと。バキたちには無理だ、逆立ちしても勝てないとも。バキが古流武術を習いたいのは、武蔵に勝ちたいからである。しかし、あんたらでは勝てない、だから教えないといっているのである。守護れるのは俺だけだと。

本部ははっきり、じぶんが君らを守護るといっている。しかしそれは聞き捨てならない。バキは表情をかえて、「誰を?」と問い直したのである。




つづく。





また本部のしゅごるしゅごらないでもめるのか。そこでもめるのって、要するに本部の強さに信頼がないってことだよな。勇次郎がそう言い出したら、仮に気に入らないとしても誰もとめないだろう。少しくらい本部を好きに泳がせてあげてもいいんじゃ・・・。


しかしたしかに、本部の強さというのはよくわからないぶぶんがある。烈のときに少し見たけど、強さランキングをつけることのできない、流動的な最強戦線ということを象徴するような人物である。だって、彼は横綱に負ける程度であるのに、勇次郎の背中に鬼を出させたことがあるのだ。さらに、童貞を捨てる前のバキを倒した柳を、武器をつかって圧倒したこともある。「本部が強くてなにが悪い」なのである。そういう流動性を、本部じしんがいちばん理解しているのかもしれない。バキが「最強」であるというのはある意味暫定的なことで、「ある面では」という但し書きが必要な形容でもあるかもしれない。たしかに、トーナメントの結果だけ見れば、本部より強い金竜山を倒した猪狩にバキは勝っている。ふつうに考えてはなしにならない。が、闘争というのは量的には調べることができない。その意味では、ファイターというのはいつでも対等なのである。どちらが強いのかたたかってその結果を調べても、それが有効なのはその瞬間の勝負においてだけであり、翌日にはまた別の結果がやってくるのかもしれない。そういうことを体験としてよく知っている本部は、バキほどの使い手に対しても対等であり、「バキが古流武術を学ぶ」という事態についても、「なぜあなたほどのものが」という、これまでの結果を固定させて算出された経歴を経由したものではなく、対等に「なぜこんな古臭いものを」というふうに語るのだ。


気になるのは「守護る」というのが具体的になにをすることを指すのかということである。本部は稽古中の烈を訪れ、武蔵とやるなら俺を超えていけ、と立ちはだかった。武蔵からみんなを守るいちばんの方法は、武蔵じしんを倒してしまうことである。が、たぶんそれはできないという確信が本部にはある。だから、挑もうとするものを、武蔵的な方法でもって邪魔する。そういうことではないだろうか。「守護る」というのはつまり、挑もうとするものがいたらそこにいって邪魔をする、ということだったのである。そして、だとするなら、本部のバキについての守護は、実はすでにはじまっているのである。入門したいというバキを見て、本部はすぐ彼が武蔵に挑もうとしていることを悟ったはずである。だとしたら邪魔しなくてはならない。それが、この現代において武器全般に長ける唯一のものとしての使命である、という確信が本部にはある。理屈ではないし、強さ比べでもないのである。もっとも武蔵側の人間であるじぶんがしなければならない仕事だと、そのように感じているのだ。だから、バキに挑戦的な口調ではあっても、別に勝てる見込みがあると感じているとか、そういうことではないのだ。これは本部の「仕事」なのである。


いつか考えたことで、烈の敗因のひとつには、あまりにも志が立派過ぎて、死や重傷をおそれていなかった、ということがあったとおもう。拳に刀を食い込ませて捕るなんていう発想は、そうでなければできない。しかしそれは同時に、烈のなかに「致命傷を受けても反撃くらいできるはず」という仮説を育んでもしまった。そうした背景が微妙な距離感を変えてしまった可能性はある。

死や重傷を恐れ続けていては、たたかうことはできないし、当然勝つこともできない。勝負もはじまらない。そうした恐怖心を維持しつつ、そしてそれをむしろ活かしつつ、勝負に勝つ。そう考えると、まずはやはり刀に対応する防御法を体系的に研究したほうがいいかもしれない。としたら、まずは刀を振ってみることである。たぶんこうした発想でバキは本部のもとを訪れたのではないだろうか。刀それじたいに特化した道場はまだあるだろうが、それではたりない。それ以外では中国拳法にも可能性はありそうだが、その結晶ともいえる郭と烈のタッグが負けてしまったわけである。

武蔵の攻撃に対応するには「全般」に長けなくてはならない。そう考えるとじっさい本部の戦場でもいかせる柔術は有効だろうし、だとしたらたしかに、武蔵にいちばん近いのは本部かもしれないのだ。


佐々木小次郎はいわれているほど強くはなかった。武蔵の印象にもあまり残っていなかった。これはありそうなはなしである。しかしそうなるとひっかかるのは、例の「敗れたり」である。とどめをささなかった烈に、二度とないチャンスを逃したとしてそう告げたのである。これには観客もうけて、武蔵も「伝わっているのか」と戸惑っていた。僕は別に戦国にくわしいわけではないのでおとなしくググッてみるが、やはり「敗れたり」といえば佐々木小次郎戦でまちがいない。鞘を捨てた小次郎に対して、それは刀を納める気がないということだろう、小次郎敗れたりと。しかし武蔵はこのたたかいを覚えていなかった。「伝わっているのか」と戸惑うからには、じぶんが以前に少なくとも一回はこのことばをいったことは記憶している。が、小次郎戦のことは覚えていない。もちろん、小次郎のことは忘れていたけど、じぶんの鮮やかな戦略のことは覚えていたという可能性はある。例の、遅刻してじらし、いらつかせ、「敗れたり」で動揺を誘う、というやつである。しかしそうだとしても、これを「伝わっている」と解釈するためには、武蔵のなかでくりかえしこのことが検証されていなければならないような気がする。となると、武蔵はこの戦法をけっこうつかっていたのかもしれない。あれを、僕は、凡人からは全貌を見ることすらかなわない「闘争のシナリオ」が表出したものとして受け取り、じっさいそういう面はあったとおもうが、それ以上に、武蔵はこれを、あるいはこれの変形を多用していたのである。多用して有効なままでいられるのは、目撃者がいないときだけである。だから、誰も見ているものがいないタイマンのときにけっこうつかっていたのではないか。で、小次郎戦にはなぜか見ているものがいたような記憶がある。ここでうっかりつかってしまい、広まった。武蔵としては小次郎戦を覚えていないので、広がり、伝わっていることじたいが驚きであったと、そういうことかもしれない。





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今週の闇金ウシジマくん/第379話

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第379話/ヤクザくん26






召還獣・戌亥でハブのアジトをつきとめた丑嶋。そこには加納がいるにちがいない。以前呼び出されたときは、明らかに罠だったわけだが、今回はこちらから場所をつきとめたかたちとなる。丑嶋はそこへ行くことにする。いっしょにいる滑皮としては、そこでじっとしていろという熊倉の指示がある以上、積極的には動けない。もしかしたらうすうす「なんかおかしいな」と気づいているのかもしれないが、そうした疑いをことばにしたり、あるいはそこから行動に移ったりすることは、これまで示されてきた滑皮の、組織の構造を重視したスタイルに反するものとなる。彼は丑嶋を止めようとするが、丑嶋はべつに滑皮の部下ではない。というのはつまり、彼がヤクザ組織の上下関係を気にしたり、熊倉のいうことを間接的にきいたりする義理はないということである。彼らはカウカウのケツモチだが、丑嶋としてはそれを受け入れているわけではないし、そこのところの微妙な関係なのだろう。そうして、ふたりはアジトに向かっていくのだった。


丑嶋は柄崎に連絡してじぶんのいえの金庫にある滑皮の銃を3丁と弾をあるだけもってきてくれと指示する。どこか近くで落ち合い、おそらく高田を含めて、乗り込むつもりなのだ。


車のなかではほとんど雑談といってもいいようなどうでもいい会話がすすむ。ぽんぽんひとを撃ちまくっているハブのところに向かうのに、緊張などはないようだ。それともこうすることでほぐしているのだろうか。

滑皮などはほとんど「ご機嫌」といってもいいかもしれない。そして、驚くべきことに、滑皮大嫌いな丑嶋までもが、かなり機嫌よく応対しているのである。

とりあえず滑皮としては、そして読者としても気になることとして、丑嶋の銃の腕前である。丑嶋のことだからどこかで練習していたりしても不思議はないが、そういうことはべつにないらしい。まあ、彼の場合は、タクティカル・ペンというものがそれじたいで示しているように、「表面的にはカタギ」ということを通しているのが強みでもある。巨大な筋肉を搭載しているからといって逮捕されることはないのと同様である。ことばどおり、特に射撃が得意ということはないのだろう。かわりに、縁日の射的で屋台を破産させるくらいの腕前である、みたいな軽口を叩く。酔っ払ってんのかっていうくらいの不思議な丑嶋の対応である。

滑皮のほうは、梶尾と鳶田を連れてサバゲーに参加したりしているらしい。そんなものやらなくても滑皮のばあいはふつうに実戦で最低でもひとりは殺しているわけだが、しかしヤクザがサバゲーなんか参加して、相手のひとたちはやりにくいだろうな・・・。丑嶋も「どんな顔してやってんだよ」とか考えている。ほんとにそうだよ。まあ、スーツ着てなかったら滑皮も見えるところにはイレズミなんかもないし、梶尾とかもただのガタイのいい土木建築系の男に見えないこともないので、案外どうということもないのかもしれない。

滑皮の軽口は続く。ワイルドガンマンならプロ級だと。バック・トゥ・ザ・フューチャー2に似たタイトル(同一作品?)のゲームが登場していたが、あれはゲーセンにあるような筐体だった。滑皮のいっているのはファミコンらしい。丑嶋はゲームにくわしいので、このゲームを知ってはいるが、けっこう古いみたい。ファミコン世代じゃないでしょ、などと2、3拍とばした応答をしている。つまり、ファミコン直撃世代がやっているようなゲームということなんだろう。熊倉のお古なんだそうだ。マーティ・マクフライが1985年に十代半ばだったわけだから、1970年くらいに生まれていれば直撃ということになるだろうか。僕が1983年生まれで、もちろんファミコンもふつうにやっていたけど、やはり世代としてはスーファミということになるだろう。カセットをさしこんでそのままマリオができるテレビとかあったなあ・・・。

ウシジマくんのエピソード全体を時系列にそって並べることは難しいが、とりあえずヤクザくんはフリーエージェントくんと接続している。そして、フリーエージェントくんにはヤンキーくん時代にまだ12歳だった迷彩服の少年が、たぶん17歳くらいになって登場している。初登場時、丑嶋は23歳だった。以上のことから、論理的ではないが、ふつうに考えて、丑嶋が28歳くらいだろうと推定できる。で、滑皮は丑嶋が中学二年のときすでにモンスター連合の総長であった。いくら滑皮が不良の天才でも10代前半であれだけの大所帯の総長というのは考えにくい。また、滑皮は愛沢の先輩でもある。愛沢もまたこの時点で愛沢連合を結成していた。暴走族の総長の平均年齢なんかわからないが、常識的に考えて、どんなに若くても16歳くらいではないかと。15歳くらいではまだからだも子供なものが多いし、ふたつみっつうえの連中と喧嘩するのもかなり難しい。だから、あの時点で愛沢が16歳、滑皮が18歳くらい、というのが妥当なところとおもわれる。あんまり年が行き過ぎると馬鹿にされる、というはなしも後輩から聞いたことがあるので、そんなところだろう。とすると、滑皮は丑嶋の4つか5つくらいうえ、つまり32か33歳くらいということになるだろうか。以上大雑把な計算になったが、そうなると、僕のちょっとだけうえということになり、たしかにファミコン直撃とは少しずれるかもしれない。ていうか、丑嶋年下かよ・・・。


この会話じたいは、これから向かうハブとのたたかいにはほとんど不要なやりとりである。サバゲーはともかく、ファミコンが上手かったからなんだというのだ。しかし、会話というのはただの情報の交換ではない。おもったことをいってみたり、相手の感情を想像してみたり、それじたいとしては無意味なことばを並べて、われわれは互いに世界を確認しあい、現象学的にいえば妥当する。わたしたちは、ただ情報を交換するためだけのことばを用いることができない。そもそも、すべての会話が情報の交換だと仮定して、その情報が有効であることを、どうやって確信すればよいのか?この現実が、じつは寝ているときに見ている夢であるかもしれないのに。まずわたしたちは、なんでもない会話を通して世界がそこにあることを確信しているのである。だから、世の主婦たちは、皮肉のように聞こえるとおもうが、無意味に見える天気のはなしとか、近所のひとのうわさばなしとかに常に興じているのである。

というのはあまりにも原理的すぎるはなしではあるが、要するにそうした無意味な会話が、しかも自然にさしこまれるのは、情報の交換のみの関係ではなくなっているということを示すだろう。ウシジマくんを読み続けてきたものとしてはついひとの残酷さとかを想定してしまい、見たとおりに受け取れないぶぶんがあるのだが、これはそのまま、ふたりの関係が縮まっているとみてもいいのではないだろうか。




「丑嶋ぁ。


おめーとこんなに話するの


初めてだな」



「最初で最後になるかもしれませんがね」




ぜんぶ片付いたら飲みいくぞという滑皮に、丑嶋は断れるなら断っていいかという。これも、ぱっと見はいままで通りのやりとりなのだが、ふたりの接近が感じ取れる。丑嶋は、「滑皮の誘いに嫌そうな顔をして遠まわしに断る」という身振りを、また滑皮は「なにがなんでも無理矢理いうことをきかせる」という身振りを、それぞれ演じているのである。丑嶋の「嫌そうな顔」は、もちろん嫌だから出てくるものなわけだが、それがいちど括弧にくくられて、そういう関係を認めたポジションから、つっこみの芸人がプライベートの飲み会でもいちおう天然のアイドルとかにつっこんでおくような感じで、演じ出されているのである。


熊倉のもとに残されたマサルと最上は険悪な雰囲気だ。最上はだいたいマサルが気に入らない。仲間を裏切ったくせに盃がどうのと抜かすし、ヤクザでもないのにじぶんの先輩にあたる獏木と対等な感じなのも、相当腹立たしいのだろう。それもそうかも。マサルは、なぜじぶんはこんなに優遇されてるのかということをもういちど考えてみたほうがいいのではないかな。

獏木がいなくなった途端、最上はいきなりマサルを呼び捨てである。で、じぶんが熊倉を掘ってるときわらっただと、みたいな言いがかりをつけはじめる。あ、掘ったんだ・・・。何度もいうけれど、いったいどうやって・・・。

きもちわるくて見てられなかったというマサルに、おれがキモイっていうのか、という具合に、例のヤクザ的文法で最上は迫っていく。ただ、そのやりかたはいかにも稚拙である。キモくないならお前も熊倉を掘れ、などといいながらハナクソをマサルの服につけている。最上はマサルよりじぶんがうえだということを示しておきたくてしかたがないのだ。


最上が金をしまいにいっているあいだ、熊倉がマサルに話しかける。じぶんのことがわかるかと。カウカウみんなに焼肉をおごったことがあるみたいだ。

あなたは利用されるだけされてハブに殺される、悪いことはいわないから最上をぶっ飛ばして金をもって逃げろと、敬語で言い募る。ついでに縄もほどいてくれと、そうすれば、じぶんたち若琥会が総力をあげてあなたを守る。せっぱつまったような表情ではあるが、でもまあ、さすが熊倉って感じもする。生き残るためにできることは全部やる、そういう気迫が見て取れる。これ、生きて逃したらハブにとってはほんとうにたいへんなことになりそう。動画なんか問題にならないかもしれない。マサルはかなり悩んでいるようだ。


柄崎との待ち合わせ場所についたところで、滑皮に鳩山から電話がかかってくる。美紗子の件である。鳩山たちはハブのことを知らない。丑嶋がハブを殴ったことや、ハブが丑嶋を殺そうとしているということは知っているかもしれないが、いくつもある血なまぐさい情報のひとつに過ぎないだろうし、それが現在進行形でしかも美紗子の件にまでかかわっているとはつゆほども考えていないのだろう。とりあえず鳩山は配下のものにあたって、どこかと揉めてないかと確認しているらしい。が、滑皮としてはむしろ衝撃である。鳩山には熊倉からはなしがいっているはずなのだ。

そういうわけで、滑皮はいったん鳩山のところに向かうことになった。待ち合わせ場所に丑嶋をおろし、待つように指示して彼は去っていく。


いっぽう、さっきまで丑嶋たちが隠れていた倉庫。留守番役の冴えない二人組みが再び留守番の仕事に戻っている。ふたりも滑皮にはあこがれているようだ。が、梶尾などと比べるとまだ遠いようで、緊張していたらしい。気のぬけたところでデリヘルでも呼ぶか、などとのんきにはなしているところいきなりあたまを撃ち抜かれてふたりとも即死。いかにも死にそうなふたりだなとおもっていたらほんとうに死んでしまった。ハブが到着したのである。




つづく。




倉庫にはもちろん丑嶋はいない。入れ違いである。二人組みのいっぽうでも生きていればなにかわかったかもしれないが、最初から皆殺しにする気満々ということか、ハブはあっさりふたりを片付けてしまった。だからハブは、熊倉にハメられたのかと考えている。たしかに、もしこれがウソの情報だとしたら、熊倉にはチャンスだったかもしれない。げんに彼はマサルを誘惑しているし、マサルがこれにのれば、足を怪我してはいるものの、逃げることくらいはできる。


丑嶋としては一刻もはやく加納を助けたい。冷静に考えて滑皮を待つべきということはあるだろう。しかし展開からしてそれはなさそうである。この滑皮離脱は、熊倉が話を上に通していなかったことの結果だからだ。これで滑皮の帰りを待ったら、鳩山たちにもはなしが通じることになり、熊倉の野心はすべてなかったことになってしまうのだ。身もふたもない見方になるが、ここで丑嶋が出発しないと、熊倉の孤独な頑張りはなんの意味もなかったことになってしまうのである。


今回は丑嶋と滑皮の仲良し描写がうれしかった。特に丑嶋のほうには明らかに変化が見て取れる。うえにも書いたけど、ウシジマ読者はこれまで人間の嫌なぶぶんを見せられ続けてきたせいで、人間不信というか疑い深いというか、「表に表出している人間のふるまいはもれなくすべてウソである」というような思考法になれてしまっているぶぶんがある、ような気がする。少なくとも僕はそうである。そう考えていたほうが精神的ダメージが少ないからかもしれない。しかしそれはそれで健康的とはいいがたいかもしれない。誰でも人間を信じてしまって、あっさり裏切られるより、あらかじめ疑っておけば裏切られてもダメージは少ない。けれども、本来疑わなくてもいいときまでそんなふうに人間をとらえていては、世界は暗く見えてしまうだろう。なにがいいたいかというと、互いにおもうところはあれ、今回の丑嶋と滑皮のやりとりにおける軽口感は、じっさいかなりのところまでホンモノだったんではないかということだ。滑皮のほうがそうなるというのはありえるはなしだが、丑嶋のほうであんなふうなくちが聞けるようになるとはおもってもいなかった。ちょっと前まで殺してやるみたいなことをいっていたのだから。あのときの筋トレの描写において、その種目がラットプルダウンだったことから、丑嶋は引きの動作を行っており、ヤクザの体質を憎みつつも引き受けざるを得ないというじぶんのポジションを、そうすることで彼は反復し、耐えているのではないかと推測した。もちろんこれは物語の構造的なはなしであって、丑嶋が自覚してやっているということではない。二度ほど書いたのでくりかえさないが、彼があそこで「背中を鍛えている」ということは、それがただのルーティンであるということを示していると考えられる。それも含めて、丑嶋は、ひとがタナトスに突き動かされて死ぬ練習をするように、憎くてたまらないヤクザの要求を受け入れるトレーニングをしているのではないかと。


うえのほうで分析したが、今回のふたりの会話は「情報の交換」ではなかった。もちろん、厳密にいえば、彼らは、たとえば「滑皮はファミコン世代ではない」等の情報を交換してはいる。しかしそれは、それじたいでなんらかの目的に応えたり、対価としてなにかが支払われたりするといった性質の情報ではない。端的に無意味なのである。極論を述べたように、わたしたちは「無意味な会話」を通して世界の輪郭を鮮やかに見てとっている。いまブログ記事を書き終え、外に出てみたら明るくなっていて、若干の肌寒さがあり、朝だとわかる。しかしそれは、わたしたちの認識の外に絶対的な時計が存在していて、いまが朝だと示しているからわかるというものではない。それまでの経験から、わたしたちはそれが朝だということを自明のものとして受け取っているのだ。その経験の多くをわたしたちは他人との会話で埋めている。それが「朝」だとまだ確認できない時点では、わたしたちは「朝についての情報」を受け取ることができない。なぜなら、「朝」についてなにも知らないからである。「お金」という概念がない者に会社四季報を与えてもなんの意味もない。しかし、そうした「無意味な情報の交換」の堆積がわたしたちの世界を明らかにし、はじめて「情報の交換」を行わせる。原理的に考えてそうなる。

そうした「情報の交換」は、ひとつのコードを経由して行われるので、それまでまったく会話をしたことがない相手ともすることができる。「お金」についてわたしたちは了解しているので、はじめて会ったコンビニ店員と取引することができる。「無意味な情報の交換」が貴重なのは、コードを経由せず、なおかつ、それがわたしたちの世界認識にかかわる事柄だからである。ふたりの関係でいえば、コードというのはもちろん裏社会のことである。金であり、ヤクザであり、弱者であり、ひとの命であり、銃弾である。そういうものを通して、ふたりは「情報の交換」を行う。そのコードの基本部分にあるヤクザ組織を丑嶋は憎んではいるが、抗うことはできない。そうして、彼らのやりとりはより「情報の交換」っぽくなっていた。要するにビジネスライクなのである。

しかし、今回の無意味な会話はコードを介さない。いや、ある意味では介しているのかもしれない。たとえば親密さなどというのはどうだろう。無意味な会話は、対価や目的なしに、ただ発声されるだけのものだ。そしてそれが、相手に受け容れられる。それは、聴く側からすれば、世界の認識を新たに、また確固とするものにちがいない。「朝」というものについて、他人が語るのをくりかえし聴くことで、わたしたちは「朝」への信憑を高めていくのだが、そのときある種の同期感がなければ、それは確信へとつながってはいかないだろう。それがおそらく親密さと無関係ではないのである。


滑皮にとって丑嶋がどういう存在であるかよくわからないが、滑皮の行動原理としては、まさにこのコードを意識したものだった。ヤクザ業界は不況である、じぶんを救ってくれた組織を維持させるためには、ハブのようにエゴイスティックにふるまうばかりでは、無法者の集団でもあることだし、組織はいずれ自然状態、普遍闘争に陥り、自壊する。それを防ぐためには、「かっこいい兄貴」にならなくてはならない。じぶんがそうして熊倉にひきつけられたように、「あこがれ」だけが後輩をひきつけ、次代へのパスを持続させ、組織を成り立たせる。滑皮の思考法はおそらく以上のようなものである。熊倉の指示を律儀に守るのも、それを守らないという身振りが、兄貴への不信を語ることになり、上下関係を貶める結果となるからである。が、今回、彼は丑嶋の前でわずかにでもそのコードからはずれることができた。だから、彼らの無意味な会話と、熊倉の指示を保留して滑皮も丑嶋につきあうことにしたこととは、無関係ではないのである。


おそらく丑嶋は幼少期の経験から、父的なもの、兄貴的なものを軽蔑しており、それが、まさにそれを基調とするヤクザ組織への不満の根元になっている。そんな丑嶋が父になってしまった結果生み出されたのがマサルなわけだが、それはともかく、そんな丑嶋を、ある意味では滑皮はかわいがってもいるようである。それは、丑嶋個人をというより、彼とのかかわりにおいてなにか予感的に今回のようなものが見えていたからかもしれない。ヤクザはカタギに対しても必然的に上下関係を求めるものである。「なんのかんけいもないもの」というのがヤクザにはないのである。そこにどっぷりつかる丑嶋だが、じぶんと似ているがちがう道を選んだということなのか、滑皮はそこに一種の親近感を抱いているのかもしれない。少なくとも今回の会話では、ヤクザと闇金のやりとりが「いちおうやっておく」というような、芝居のようなものになりうる可能性が示されたのである。


次号から長期休載だそうです。再開は9月頃とのこと。ずいぶんあとだなあ。その間、ヤクザくんもけっこう長くなってきたので、これまでの思いついては忘れていった仮説の数々を整理して記事にしてみようかな。





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今週の刃牙道/第69話

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第69話/300点






武蔵とたたかうために、本部道場へ入門しようとするバキなのだが、本部は認めない。教えたその技術を、バキは武蔵につかっていこうとするはずである。もしバキが本部のもとで十年単位で訓練していけば、たぶん本部的な意味で問題はないだろうとおもわれる。つまり、ほんのちょっと学んだくらいでは追いつかない。だいたい、基本が素手にあり、武器がオプションにすぎないという時点で、本部的には「はなしにならない」というものかもしれない。ともかく、ちょっと学んでみたくらいではとても武蔵にはかなわない。そこまでならバキもべつに怒らなかったかも。しかし本部は、続けて例の「俺が守護る」という発言をしたのだ。

バキはかなり怒っているようだ。とてもなにかを学びにきた人間には見えない。その肉体、その技術で、誰を守るというのかとバキは訊ねる。本部はそれを、自分よりはるかによわいおっさんのくせしてなにをハネっ返っているのか、じぶんは天下の範馬刃牙だぞと、そういうふうに読み取る。バキも否定しない。そういう意味にとってもらってかまわないと。本部以蔵だからというより、誰であっても、じぶんを守ることは許さないと、正座をほどき、あぐらになって強い言葉をくりだしていく。


一拍おいて本部が烈対武蔵を振り返り始める。この世界での最強の一角、範馬一族やピクルなどを含めても、まちがいなく10本指には入るであろう達人・烈海王。それが一刀両断された。ここで、作中人物でははじめて、「死」という具体的なことばで烈の最期が語られる。それじたいは悲しむべきことであると本部はいう。死刑囚5人がやってきたときも、ピクルが発掘されたときも、そして今回武蔵が復活したときも、おもえば異質な相手が登場したとき最初にとびこんで挑んでいくのはいつも烈であった。ピクルのときでさえ、命が助かったのは博士の恣意によるものであり、ある意味偶然ではあったわけだが、いずれにしても、武蔵の時代の真剣勝負が「再戦」のないものであるという本部の発言を、烈は裏付けることになってしまったのだ。

烈の死は悲しいけど、武術家としては、武蔵のような圧倒的到達点を目撃することは喜ばしい。だからそれを語る本部はちょっとうれしそうなのだった。それについてのバキのコメントは特にない。まあ、本部とバキでは烈とのかかわりかたが全然ちがうからなあ・・・。烈とバキは最大トーナメントでも屈指の名勝負を繰り広げた間柄だし、バキが毒にやられてピンチのとき烈は一生懸命やってくれたし、さまざまな局面で広い視野のアドバイスをくれたりもした。勇次郎などの超人のたたかいをふたりでいっしょに汗をかきながら観戦するところもよく見た気がする。なんでもなさそうだけど、バキが泣きじゃくったとしても不思議はないようにおもう。あ、いかん、感傷的な気分に・・・。


しかし重要なのはここからで、本部によれば、我々は武蔵の本気を見ていないというのである。烈海王に圧勝してなお全力ではないと。バキは微妙な表情だ。たしかに、たたかいを思い返してみると、果たしてそうかなという気もする。終始精神的には安定していた武蔵だったが、かなりの技をまともに受けて顔面ズタボロになってしまった。しかし本部にいわせれば、それは別に手こずったわけではなく、「現代の闘争術を」「なるべく多く体験しておきたかった」というところらしい。なるほど・・・。だから、武蔵としても決してすべてをコントロールしていたわけではない。どんなものが飛び出すのかわからないから、

結果まともに受けて、油断しているようにも見えたかもしれない。しかしそうなることじたいは武蔵も望んでいたことなのだ。なにか飛び出そうだから、とりあえず飛び出るまで待ってみようと。妙に間延びしたぶぶん、たとえば、縛法でしばりつけたのをまた解いてしまったりとか、そういうところは、つまりそういうことなのだ。武蔵からすれば、烈はたしかに実力者ではあった。武器をつかうぶん、それまでの独歩やバキよりは現実的であり、しかもそれにかなり長けているようであった。けれども、死んでしまうほどではないと、そんなような見立てだったようだ。でも、ほんのちょっとの入力のちがいで武蔵が死んでいた可能性はあった。たとえば、烈の九節棍の先が刃物だったら?ドイルのように手足に刃物が仕込んであったら?しかしそうした仮定も、勝負の決まったいまではなんの意味もないし、仮にそうだとしても、それならそれで勝負の流れも変わっていたはずで、たとえば刃物の隠された次の一撃で勝負が決まると確信した烈の若干の緊張感などを、武蔵は感じ取るにちがいないのである。それに、日本刀をあつかう武蔵からしたら、関ヶ原の描写でもあったように、隠せる程度の大きさの刃物なんてなんてことないのかもしれない。


バキはそれを聞いて歯を食いしばっている。そんなふうに烈を試されたことと、じぶんとの差異への苛立ちが合わさって、というところだろう。そんなバキがさらに苛立つことばを本部はまだ続ける。だからこそ、じぶんが君らを守らなければならないと。

バキはあぐらのまま高く跳躍し、すばやく立ち上がる。はじめるつもりのようだ。対して本部はのそのそと、誘うようにのんびり立ち上がる。バキの素手のレベルは、100点満点でいえばどれくらいか。当然100点、いや120点だってつけられるかもしれない。いっぽうじぶんは、甘めに見積もっても80点だと。ずいぶん高評価だなあ。個人的にはせいぜい40点くらいな気もするが。

しかし、いま話題になるべきは素手の実力ではない。剣や槍などの技術をすべて合わせれば、300点は下らないと本部は自己評価する。バキは笑うしかない。笑い方が勇次郎になっている。勇次郎も笑うだろう。バキだって対武器の経験がないわけではないのだ。計算違いを思い知らせる、そんなつもりで、バキが踏み込もうとする。しかしそこにえたいのしれない爆発が起こる。煙に巻かれてバキが一瞬本部を見失う。と、後頭部に刃物の感触。煙幕をつかった本部がすばやく背後にまわり、刃物をつきつけたのだった。




つづく。





じっさい、武器をつかった本部は強いのだろう。あの柳を圧倒したくらいだから。しかしなんかちょっと腹立つのはなぜか・・・。

本部はもともと強さのよくわからないキャラだった。それは、けっきょくのところ「すべてを使う」という状況がふつうは生まれてこなかったからだ。素手で80点とはずいぶん甘口の評価だが、そこはたいして重要ではない。要は、素手ならバキみたいなものにはとてもかなわないが、ぜんぶつかったら余裕だと、そういうはなしである。

これは、対勇次郎を考えたときにはどうなるだろう。最初期のころ、本部は勇次郎とたたかっている。あのたたかいがすでに再戦で、その8年前に負けているらしい。あのとき本部は武器をつかっていただろうか。ちょっと該当するコミックが手元にないのだが、アライが登場するまであたりのたたかいをすべて収めたファンブック「青龍之書」を見る限りでは、本部も素手挑んでいたっぽい。バキは勇次郎に匹敵する強さの持ち主である。しかし、これには異論もあるだろう。たとえば郭春成を圧倒したように、ふつうのやりかたで勇次郎を倒したわけではなかった。勇次郎に勝つということは、究極の未知を与えるということである。くわしい解説は当時の記事を読んでもらうとして(僕もその理路をもう覚えていない)、勇次郎に勝つには固有の「勇次郎への勝ち方」をしなければならなかったのである。強さに点数をつけること、つまりものさしをあてがうことに意味はないが、しかし「勇次郎に勝つということ」がふつうに「勇次郎より強くなること」と同義ではない可能性はある。したがって、バキが120点だとして勇次郎は500点、しかしバキは勇次郎に勝ったことがある、ということも、理論的にはありえるのである。なにをやらせても無敵の東大生とかがいたとして、知力でも体力でも誰もかなうものがいないときに、虚無のなか理解者がいないというさびしさでなんでもないキャバクラ嬢の優しいことばに屈服して全財産つぎこんでしまう、ということも、世の中ないではないだろう。このとき、勝敗でいえばキャバクラ嬢は東大生に勝ってはいるだろうが、べつに知力体力で勝っているわけではないのである。

だから、本部と勇次郎についてはここでは保留しなくてはならない。情報が少なすぎる。本部は、勇次郎が素手で地上最強と呼ばれている以上、同じ条件でいなければ勝ったことにならない、という今回武蔵に挑んだ烈と同じ理屈で武器を手にしなかった可能性はある。あるいは、手にしたところで勇次郎の前では同じこと、という可能性もある。だいたい、勇次郎は戦場を素手でわたりあるいてきた人物であり、そもそも素手とか武器とかいう区別じたいがないだろう。


強さというのは足し算なのだろうか、選択肢が多いぶん強くなるのだろうか、という疑問はあるが、げんに今回本部はバキの背後をとっている。刃物が触れるまでバキは気づいていないので、現代格闘技の「見込み」を含めたルールでいえば勝負ありである。いくら煙に巻かれたとはいえ、バキが本部を見失ったのは数秒とおもわれる。その間に本部がどこかからこの短い匕首をもってきたとは考えにくいわけで、となると本部はそれを常備していたはずである。バキはたぶんそのことにも気づいていなかった。そうしたところに、たしかにバキの、対武器ということにおいての未熟さは出ているかもしれない。独歩なんかは歩き方とかにおいだけで、どこにどれくらいの武器をもっているか見抜いていたし。

だいたい、初速マックスのバキが間に合わない速さで本部が動いたというのもすごい。かってに、なんというかあれは煙玉というのか、ニンジャがドロンするときにつかうようなやつを想像していたが、これはアレということでいいのかな。そうだとすると、本部はそれを取り出して地面に叩きつけたはずである。それにバキが間に合っていない。たぶん、見慣れぬ動作だったために反応が遅れてしまったのだろう。それがじぶんに向けて投擲されたものだったら、バキにも対応できたかもしれない。


前回、本部の守護というのは、彼においての使命、「仕事」だと書いた。武蔵のレベルには達していなくても、武蔵のやりかたを熟知しているのはじぶんしかいない。素手の彼らでは太刀打ちできない。しかし彼らはその性格から挑もうとするだろう、だから守らないと、というのが本部の理屈なのである。武蔵や、あるいはそれに挑むバキなどに勝てる勝てないは問題ではなく、それが務めだと。しかし今回の描写を見ると、本部にとってそれが「仕事」だということはまちがいないとしても、「勝てる勝てないは問題ではない」ということではないのかなという気もしてくる。「守護る」の本質が、武蔵を倒すほうか、それともバキたちを邪魔するほうか、どちらにあるのかは、いまのところどちらともとれる。あるいは、その両方なのかもしれない。いずれにしても、その無謀なたたかいが起こらないようにするのがじぶんの仕事だと。しかし、冷静に考えてみると、そのことと本部が武器術に長けた武蔵側の人間であることはどうつながるだろうか。邪魔をするだけなら、梢江でもできる。それが無謀なたたかいだからとめなければならない、ということと、その邪魔をするものが本部でなければならない、ということのつながりに必然性はなさそうに見える。あるいは、バキがそうであるように、素手の彼らが武蔵のこわさをほんとうには理解していない、ということが動機なのだろうか。強いということはみんな理解しているだろうけど、とてもかなわないとは誇りにかけて誰も考えない。武器術に精通しているということがどれほどのことかを知っていて、しかも命を奪うことなく教えることができるのはじぶんしかいないと、そういうことなのだろうか。だとしたなら、それが本部である必然性はあることになる。そして、その必然性がたしかであるなら、本部は必ず、「守護る」にあたって、無謀にも武蔵に挑もうとするものたちとたたかわなければならない。その「守り手」が本部でなければならないとするなら、理屈としてそうなる。

整理すると、まず本部は、これを守れるのはじぶんしかいない、と考えた。それは、じぶんが武蔵同様武器に精通した現代で唯一の人物だからである。ということは、「守る」ためには「武器術に精通している必要がある」ことになる。いちばん手っ取り早いのは、それで武蔵を倒してしまうことであるが、それはできない(やろうとするかもしれないが)。だとしたら、挑もうとするものを邪魔するほかない。まとめると、「挑もうとするものを邪魔するためには、武器術に精通している必要がある」ということになるのである。なぜなら、彼らは武蔵ほどの使い手がどれくらいのものなのかわかっていないからである。本部の「守護る」とは、彼らとたたかって武器術で圧倒する、ということだったのだ。


こういう現象も、親子喧嘩を超えた世界らしいものとおもえる。それ以前は勇次郎が絶対者で、彼の前ではどんな戦術もどんな武器もほとんど意味がなかった。しかしバキは、キャバ嬢が無敵の東大生を破産させるように、「対勇次郎でしかありえない勝ち方」で親子喧嘩を終わらせた。それが、勝敗のありようまで変えてしまったのだ。すべてのファイターの個性を絶対者として否定し続けてきた当の勇次郎じしんが、「個性的な負け方」をしてしまったのである。ひとことでいえば「相性」である。バキは勇次郎に負けを認めさせたが、だからといって勇次郎に負けた本部がバキより弱いことにはならない。いってみれば当たり前のことが、こうして具現化しはじめているのだ。





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『コロノスのオイディプス』ソポクレス

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■『コロノスのオイディプス』ソポクレス 高津春繁訳 岩波文庫






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「『オイディプス王』で我が目をつぶしたオイディプスの、その後の放浪の旅と父子の葛藤、神との和解を描く。人知人力をもってはいかんともしがたい運命、そしてそれを知りながらも屈服せずに我が道を歩むオイディプス。この悲劇は、運命の底知れぬ恐ろしさと、それに対する人間の強さというものを考えさせずにはおかない」Amazon商品説明より








ともとフロイトから大きな影響を受けているというのに加えて、宝塚で8月に上演が予定されており、また最近NHKの人気番組・100分de名著でも取り上げられたという状況が重なり、いい機会ととらえて続けてオイディプスの続編である『コロノスのオイディプス』を読んだ。

オイディプス王じたいは非常に有名なはなしだ。書評も書いたしその番組のテキストについての記事もあるが、知らず父を殺し母と結婚してしまった王のおはなしである。舞台は古代のギリシアなので、まず現代と異なるところとしては「神託」というものがある。これが具体的にはどのように受け取られるものかというとよくわからないが、映画などではクスリでラリっているような処女がなにか喃語のようなものをくちにし、欲深い神官が都合よく言い換える、みたいな描写はよく見かける。医学の発達で精神の病、「狂人」というものが見出されるまでは、そうしたひとびとは神に近い存在として考えられていた、というはなしもどこかで読んだことがある。「狂っている」という状況認識も、「ことば」なのである。それまでは「あたまのおかしいひと」というのは、わたしたちの認識世界には文字通り存在しなかったのだ(「あたまのわるいひと」はいたとおもうけど)

具体的な景色はどうあれ、まず前提として神託がある。神託は人間たちの認識に先立つ指示のようなものであると同時に、たんなるガイドラインにとどまらない、現実に結びつく予言のようなものでもあった。「お前は息子に殺される」という神託があれば、それはまずまちがいなくそうなるし、彼らとしても信じない理由はなかったのである。

だから、古代ギリシアの世界においては、生きとし生ける人間たちの世界のその外側に、まるでその世界のシナリオを描いているかのような神々の世界があったのだ。彼らは、悪巧みの延長であれ、善意からであれ、それを受ければ、それが起こらないようにふるまうのが常態である。果たして予言を覆すことは可能なのか、あるいは、神託は常に選択肢を与えるような形式になっていて、努力次第ではどうにかなるものなのか、それはよくわからないのだが、ともかく彼らはそれを受け入れて、抗うなり警戒するなりする。オイディプスの父・ライオスは、じぶんが息子に殺されるという神託を受け、家来のひとりに小さなオイディプスを捨ててくるよう命じる。しかし、いろいろな善意が働き、オイディプスは死ぬことなく拾われ、やがて成長し、異国の旅行者のような気分で、知らず故郷に向かうことになる。オイディプスを育てたふたりの両親はじぶんたちが実の親ではないことを彼に伝えていなかったのだ。

そうした道で、小さな原因でオイディプスは父のライオスを知らず殺してしまう。故郷のテーバイはスフィンクスによって呪われていたが、そうしてたまたま訪れたオイディプスはなぞなぞを解いてこれを破り、じぶんが殺したせいでそうなっているとは知らず、空位となっていたテーバイの王座についたと、こういうことである。当然、その妃となるのはライオスの妻、オイディプスの実母ということになり、こうしてすべての文学においてもっとも重要な要素と考えられる「父殺し」と「近親相姦」があっさり成り立ったわけである。

『オイディプス王』でオイディプスはまた神託を受けて、ライオス殺しの犯人を捜すことになる。これが、近代ミステリばりにスリリングでとにかくおもしろいのだが、なんやかんやで、それがじぶんだということを彼は知る。オイディプスは運命の残酷さに耐え切れず、みずから両目をつぶしてテーバイを去っていく。ここまでが『オイディプス王』のおはなしで、『コロノスのオイディプス』はそのあとのおはなしだ。故郷では甥にして義弟のクレオンやふたりの息子による王座をめぐる争いが起きており、それぞれに受けた神託から、去ってしまった父を求めるようになっている。アンティゴネというよくできた娘に支えられ、アンティゴネの妹になるイスメネという娘は国と父とを往復するような役割をしており、父親のためによく尽くしているが、ふたりの息子が去っていく父を当時は止めようともしなかったことをオイディプスはひどく根に持っている。彼らはクレオン、長男のポリュネイケスの順にオイディプスのもとを訪れ、娘をさらってまでどうにか連れて行こうとするが、コロノスにたどりついて正体を打ち明け、すでに親交していたテセウスのちからを借りて、彼はこれを追い払う。そして、やがて、彼自身がどこかの段階でやはり神託として受け止めていた死に方を通し、彼はコロノスの平和を守る存在に変わったのだった。


数ヶ月前に岩波文庫で『オイディプス王』を読むまで、僕はこのはなしを読んだことはなかったのだが、その筋じたいは熟知していた。そのときの書評にも書いたが、それはじつに神話的なありかただったとおもう。とはいえ、どこでこれを最初に知ったかというと、おそらくフロイトのエディプス(オイディプス)・コンプレックスだろう。よく思い返してみてもやはりエディプス・コンプレックスそれじたいを検証した論文を読んだ記憶はないので、ふつうにその他の評論で引かれているのを見て調べたとか、光文社の新訳についてる中山元とかの長い解説で学んだとか、そういうことだとおもう。人間が幼児期に異性の親に愛情を抱き、同性の親を憎むというあの仮説である。フロイトが先にこうした症状のパターンを発見しており、そののちに神話を知ったのか、あるいは逆なのか、わからないわけだが、神話というものの定義上、後者ではないかとはおもわれる。神話的表現は、個人の創作とは異なっている。もちろん、構造主義的に厳密なことをいえば、個人の創作もまた、時代をうつす鏡でもあるかもしれない。テキストは書かれた瞬間に作者の手を離れ、誰のものでもなくなり、あらゆる意味を孕むようになる。わたしたちは、親や教師や友人や恋人や小説家や漫画家やテレビタレントやハリウッドスター(の吹き替え)からことばを学び、それを借用して言語を運用する。「わたしじしんのことば」というものは存在しないのであり、そうしたことばによって編まれるテクストというのはテクスチャー(織地)なのだ。しかし、個人の創作がさまざまな声を含む可能性があることに対して、神話的表現は、最初からさまざまな声で輪郭が形成されることで姿をあらわしていく。たとえば「桃太郎」という昔話の正典、「これが正しい物語の声音だ」といえるようなオリジナルを、わたしたちはもっていない。母親や、祖母や、うたのおねえさんや、幼稚園の先生や、永岡書店のあの正方形の本の語るさまざまな声が、それぞれに微妙にずれた「桃太郎」を語ることで、神話は立体的な神話的宇宙を完成させていく。ソポクレスの『オイディプス王』はやはりいちばん有名だろうけれど、その当時からして、いくつもの『オイディプス王』があったのである。そうしたひとつの物語についての若干異なった表現が積み重なっていくことで、つかみがたい「世界」が語られていく。おそらくこの「世界」というのは、「神々の手による」世界ということだ。神々の姿や行い、そしてもちろんそれによってつくられた世界の全貌は、定義からして語りつくすことができない。こういうものですよ、と説明することができない。だから神話なのである。これはレヴィ=ストロースとそれを援用した中沢新一の受け売りだが、なにか物語を語るときに、わたしたちは手持ちのことばで一生懸命それをかたちにしようと努める。その「ありあわせのものでどうにかする」という手つきはレヴィ=ストロースが想定した人類最古の思考法、ブリコラージュそのものである。ブリコラージュするひとのことをブリコルールというが、多くのブリコルールとしての神話の語り手が、言葉をつくして「仮の世界」を構築していくのだ。そして、神話的表現というのはそれじたいのことをいうのではなく、その現象のことをいうのだとおもう。それぞれの神話の発現が残す若干の違和感、これが重なっていくことで、なにか和音のようなものを作り出し、立体感を呼び起こし、神々の世界へと接続していくのである。こうしてみてみると、人間の普遍的な無意識について研究したフロイトが神話を参照したというのは非常に興味深いのである。「説明しつくすことのできない神々の世界」というのは、まさしく「無意識」のことだからである。


ギリシア神話そのものにそういう性格があるというはなしだが、ソポクレスはオイディプスをはじめとした登場人物を非常に人間的に描いてもいる。それであるから、以上のことから考えると、エディプス・コンプレックスとのちに形容されるようになる症状はすでに神話的思考のうちに確認されていたのであり、フロイトはその点と点を結びつけたのだ、と考えることができるわけだが、しかし読んだ感触としては、人間オイディプスが無意識に直面してしまう物語とも見れるわけである。神々の世界を無意識界だとすれば、神託やそれを授けるものは分析医ということになるだろうか。しかし無意識を正確につかみとることは誰にもできないので、やはり神託や神官のようなものとしか表現できないかもしれない。ともかく、オイディプスは、無意識に隠されていたじぶんの本性のようなものにそのとき直面したはずである。とりわけ彼は意志のひとだった。誠実と知性と勇気で、世界を、人生を切り開いていくような強者なのである。意識至上者とでもいえばいいだろうか。それが、抗えぬ残酷な運命と対峙することになる。それは、「神々の世界」が上に立ってシナリオを書くような世界の、その運命の流れの強さに直面することであると同時に、彼自身のなかにある、「意識」では書き換えることのできない本性のようなものを目の当たりにすることにほかならなかったわけである。


けっこう乱暴な仮説を重ねてきたが、さらに暴走すると、オイディプスが目をつぶしたのはロゴスの否定と見ることができる。ここでいうロゴスとは、言語と知性によって再構成された、人間の支配する論理的な世界、目に見える自明の世界のことだ。つまり、強い意識で世界を構築してきたこれまでのありかたの否定なのである。それからコロノスにたどりつくまでかなり時間がたっているようなので、それまでにどのような経験をしてきたかは不明である。人間の世界で生きるにはロゴスが不可欠だ。だから、コロノスにたどりつくまでのあいだ、娘のアンティゴネがその役割をつとめることになる。やがてオイディプスは、なにかこう、神々に赦されたかのようにして、そちらの世界の住人になる。コロノスの平和を守るというのはそういうことだろう。それはつまり、意識から離れ、フロイトが看破した無意識の世界に沈潜するということにほかならない。オイディプスが死ぬところは王のテセウス以外誰も見ていないし、その場所に向かうときにはついにアンティゴネの手を借りずにたどりつくことになるが、それもそのはずだ。アンティゴネはオイディプスを「人間の世界」につなぎとめる最後の存在だったのだ。


ただ、なぜ彼がクレオンや息子たちを退けることでそれが達成されたのかというと、よくわからない。特に息子を拒む場面は、無理もないとはいえ、いささか言いすぎというかやりすぎのような感じもないではない。そのあたりは、つづく『アンティゴネー』を読めばなにかわかるかもしれない。





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今週の刃牙道/第70話

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第70話/武芸百般






素手ではごく一部の例外を除けばほぼ無敵といっていいバキを本部は「守護る」といいだした。もとは父を超えればそれでいい、という考えの持ち主だったが、そうはいってもその強さは一生懸命彫琢してきたものなのだし、それなりに誇りをもっている。誰かに守ってもらうような弱々しい存在ではないのだ。

挑発にのったバキがしかけていく。本部は冷静に懐からガチャガチャのボールくらいの煙玉を取り出し、すばやく地面に叩きつける。こう見ると、おもったより距離がある。煙がどれくらいの速度で視界を覆うのかわからないが、とにかく、バキは相手に到達する前に見失ってしまう。いや、見失うとかいう以前に、いきなり煙がボッと出てきたことじたいに戸惑い、足をとめてしまっている感じだ。一瞬、状況が理解を超えて、フリーズしてしまっているのだ。

で、あっさり背後にまわった本部が匕首を後頭部に突きつける。勝負ありである。


本部はすぐに刃物をふところにしまう。どうやって入ってるのかわからないが、「カチ・・・」という音がしているので、けっこう近代的な装備が道着のしたには隠されているのかもしれない。

バキは、本部の「武芸百般」を警戒してはいたけど、よもや煙幕が飛び出てくるとはおもいもしなかった、というようなことを、じぶんにがっかりしたというような顔でいう。「武芸百般」って現実の武術のひとにつかうとむしろ悪口みたいな感じがするが、ほんとうにそのカバーしている広さをきわめれば、本部や、あるいは武蔵のようになりうるのだ。

本部がこの展開の解説をする。朝バキがこちらに向かうという連絡を受けたときから、こういう展開、つまりたたかいが起こるということは予想していたという。素手ではとても勝てない。というわけで「煙幕玉」を用意したのだという。本部の手作りということだ。「これが兵法 これも闘争」などとUZIみたいな韻の踏み方で本部が現実を語る。そして、武蔵の流儀もまたこういうものだとも。バキは歯をくいしばって悔しがっているようだが、反論はできない。バキは「殺された」のだ。しかし本部は、それはどうかななどという。少なくともじぶんには殺す気はなかったし、そうであったならバキの反応もちがっていたはずだと。多少なぐさめも含まれているとはおもうが、しかしこれはたしかにそうだろう。これを勝負ありとする、つまり「殺された」とするのは、近代格闘技の「見込み」による勝敗の決定がわたしたちに馴染んでいるためなのだ。げんに死んでないのだから負けてない、というのは独歩などがよくつかう論法だが、それもたしかに一理あるのである。

バキはすっかり自信をなくしてしまっている。本部が殺す気であったなら、バキだってそれに気づけたはずだ。しかし果たして気づけたか、ちがいはあったか、というふうに悩んでしまっている。


本部はバキをなぐさめつつ、本論に入る。バキたち現代格闘士はこうした闘法に慣れていない、それは事実なのだと。やはりバキは反論できない。この流儀に精通するのは現代ではじぶんだけである。バキでも勇次郎でも渋川剛気でもなく、じぶんなのである、そう本部は述べる。この戦いはじぶんの責任なのだと。べつに新しいことはいっていない。本部がずっといってきたことがくりかえされているだけなのだが、じっさいにその流儀で圧倒されてしまったあとでは説得力がちがうだろう。そしてバキは、そこに父・勇次郎も含まれていることに驚愕している。勇次郎にかんしては前回同様パスしよう。戦場を素手でわたりあるくことと、本部がバキの前に煙を広げて背後をとることがどのように異なるか、現段階ではまだよくわからないのだ。本部がその流儀で勇次郎を圧倒してくれたらいろいろわかるとおもうのだけど。


いっぽう、光成邸では武蔵が手錠をかけられ逮捕されていた。いちどだけ名前の出た警察のトップである内海警視総監が顔を出している。殺人の容疑で武蔵に逮捕状が出たらしい。観客が目撃者として警察に名乗り出たのだ。光成は警視総監相手でもすげえ偉そう。どれだけ金持ちだとこんなふうにふるまえるのかな。一存で国の運命を左右するくらいじゃないと無理だよな。まあ武蔵ひとりのためにあんな施設つくっちゃうくらいだからそれもそうか。

地下闘技場の観客はたしか選ばれたものたちだったはずである。ふつうにコンビニでチケット発行して見にきているわけではない。しかし、かといって、巽とサクラの試合を見に来ていたような金持ちたちばかりということもない。今回目撃者として描かれるふたりはすごくふつうの日本人である。金とかいうよりも、コネのほうが効き目のあるコミュニティなのかもしれない。一見さんお断りの店に入るようなものか。今回の武器あり対決はもちろん、普段から地下闘技場は違法な試合を組んでいる。だから観客は、信頼のできるものだけを光成側に紹介し、承諾してもらい、観戦すると、そんなところなのだろう。仮にもともとは選ばれた金持ちばかりが観客だったとしても、紹介に紹介を重ねた長い年月のうちになんでもない標準的日本人が見に来るようなことがあっても不思議はない。

試合中の描写でも、現場にいるものたちの罪悪感のようなものは描かれていた。たぶん、それを飲み込むことのできない誠実すぎるものたちが何人かいたのである。いくらなんでもこれはまずいだろう、ひとがひとり死んじゃってるじゃないか、と。今回のふたりがひどくふつうっぽいのも偶然ではないのだろう。そして、耐え切れず、市民の義務として、警察に通報したわけである。


彼らはどこまで話したのだろう。「宮本武蔵が」というところを省略したとしても、警視総監くらいなら地下闘技場のことを知っていても不思議はない。そこがついに殺人をやらかしたと、そんなふうな認識かもしれない。しかし光成はそれを「演武」だという。その事故だと。終始偉そうな表情を崩さない光成だが、これはまあ、ことがそうして運んでいる以上、しかたのないことなのだろう。だってここでもし、「ひょっとしてじぶん間違ってたかな・・・」とかいう感情がおもてに出てしまっては、同意のもと試合場に立った烈が報われない。実行した以上、責任をもってそれを守らなければならないのだ。

内海としては一般人の目撃者が出ている以上、はいそうですかとはならないようである。悪いようにはしないから、ひとつ任せてくれないかと、引き下がらない。

そんな大人の駆け引きをしている横では、武蔵があっさり手錠を破壊していた。光成はうれしそうに笑っている。そして武蔵は、機動隊が大勢待機している屋敷の外にみずから出て行く。心配はいらない、すぐ戻る、これも勉強じゃと。




つづく。




包囲している警察の人数がハンパではない。車も玄関のすぐ前まできており、ほとんど臨戦態勢といってもいいかもしれない。これはいったい、どういうふうにはなしが伝わったのだろう。凶悪な殺人犯の居場所がわかったとして、よし捕まえるぞとなったとき、果たしてどれくらいの人数・装備でいくものなのだろうか。今回の場合は武蔵は刀で武装しており、しかもどうやらその心得があるらしいというところまではわかっている。うえにも書いたように、警視総監くらいならすべての事情を把握していたも不思議はない。まあ総理みたいなひとが武蔵のクローン作製の施設の存在を知らなかったくらいだから、全然、なにも知らない可能性はあるが、この包囲を考えると、たぶん知っていたのではないかとおもわれる。いくら日本一の富豪だとはいっても殺人は許されることではない。だいたい前々からあの闘技場を鬱陶しいとおもっていたんだ・・・くらいのことをこの警視総監が考えたとしても不思議はないだろう。それで、表面では丁重に、どうにか納得をいただこうと低姿勢でのぞんでいるにも関わらず、はらわたは煮えくり返っており、これを最後にとっちめてやろう、くらいのことをあさはかにも考えたのかもしれない。相手は光成が抱える刀の達人らしい。ではこちらも本気を出して捕まえさせてもらおうと、そんなところではないだろうか。

しかし、武蔵はちゃんと捕まるだろうか。武蔵のことだから外に大勢ひとがきていることはすでに承知していただろうが、玄関を出て行くときの様子は、とりあえず捕まってみたいというところのように見える。脱出することも武蔵ならたやすいだろう。「警察」を理解していない武蔵が、現代の治安システムがどのようなものであるのかを学ぶために外に出たように見えるのである。となると、彼は案外この機動隊群に抵抗しないのだろうか。勇次郎は100人の機動隊を正面からの腕力で制圧したが、武蔵はそういうタイプではない。としたら、それを制圧するという意味も含めて、ここはあっさり捕まるかもしれない。少なくとも本部ならそうするだろう。


バキと本部については、とにかく本部のほうが一枚も二枚も上手だったということになるか。ふたりはたがいにこういう展開になることを想定していた。バキも、本部が「武芸百般」であり、じぶんのおもいもよらない攻撃方法をとってくるであろうことを予想していた。バキとしては、ある程度のことが起きても対応できるよう、なんというか、意識に余白をもうけていたはずである。おもいもよらないことが起きても不思議はないという覚悟でいれば、対応できないまでもフリーズすることはないだろう。しかしおそらく、バキの想定した「おもいもよらないこと」とは、せいぜい武器の種類について程度だったのではないか。どんな長さ、どんな破壊力の武器が出てくるかわからない、でもやってやるぜ!という心持ちだったのである。しかし、本部は煙玉を用いた。煙幕はそれじたいは攻撃ではない。意識の余白は、おもいもよらないことが起きて硬直してしまう事態を回避するかもしれないが、おそらくそれは「距離」とか「破壊力」といった、バキの身体が行うことのできる動作の相似形として想定されていたのである。本部がいきなり如意棒を取り出してのばしても、バキなら対応できただろう。それは要するに「長い腕」にほかならないからである。しかし煙幕は、バキのとりうるどの動作を拡大したり縮小したりしても起こりえない事態である。もともと、彼がじぶんの動作の相似として余白を想定したのも、それが正面からのたたかいとして、じぶんへの攻撃的な動作として考えられたからだろう。しかし本部の、そして武蔵の考える兵法はそうではない。決定的な攻撃を行うためにいったん逃げるというようなことを行うのもアリなのである。ブラック・ペンタゴンから脱走したときなど、バキはじぶんに向けられた敵意や銃弾を軽々とかわしてみせたが、あのとき、たとえば、バキの前に立ちはだかった所長がいきなり銃をくわえて自殺したらびっくりして硬直したのではないだろうか。そしてその瞬間、ほかのものたちにバキは射殺されていただろう。このあたり、殺意を消して渋川の防御を封じた独歩の菩薩拳にも通じるものがある。アプローチとしては、独歩もまちがってはいなかったんだろうな・・・。




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『キラキラネームの大研究』伊東ひとみ

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■『キラキラネームの大研究』伊東ひとみ 新潮新書






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「苺苺苺と書いて「まりなる」、愛夜姫で「あげは」、心で「ぴゅあ」。珍奇な難読名、いわゆる「キラキラネーム」の暴走が日本を席巻しつつある。バカ親の所業と一言で片づけてはいけない。ルーツを辿っていくと、見えてきたのは日本語の本質だった。それは漢字を取り入れた瞬間に背負った宿命の落とし穴、本居宣長も頭を悩ませていた問題だったのだ。豊富な実例で思い込みの〝常識〟を覆す、驚きと発見に満ちた日本語論」Amazon商品説明より




硬い本ばかりたまってしまっているので、なんか軽く読めるものないかなくらいで衝動買いしたものだけど、これは予想以上におもしろかった。標準的な読みやすさを保ちつつ満足のいく(なおかつ深入りしすぎない)考察が展開されていて、なんか「新書のお手本」っていう感じがした。


キラキラネームはDQNネームとも呼ばれる。各媒体でくりかえし話題になっていることなので、なんのことかわからないというひとはいないとおもうが、要するに「愛夜姫ちゃん」と書いて「あげはちゃん」と読む類である。あと「波動拳くん」とかいて「つよしくん」と読む類である。対象は同じのようだが、前者が、当のキラキラネームをつける親たちやそれに近いものがからかいをこめて呼ぶもので、後者が社会問題として感情的にとりあつかうときのもののようである。筆者のスタンスとしては、そのどちらにも属さず、そもそもキラキラネームの実態をよく知らないままでは論じることもできない、というようなところから、どういうふうにしたものか見当もつかないが、調査を重ね、それがどうした原因で起こっていったものか考えていく、というものである。歴史を振り返れば、現在見られるキラキラネームによく似た名づけはむかしからけっこうあった。織田信長とかはうつけものらしくひとを食ったような名前を子供につけまくり、森鴎外は国際社会を見据えて外国人にも発音しやすい名前を考えていった。だからといって、年長者が「最近の若者は」とぼやくような次元の通時的で普遍的な現象である、というふうに片付くわけではなく、敗戦を境にして漢字に対するわたしたち日本人のありかたが決定的に変わってしまった、と看破していく。くわしく書かれているが、ひとことでいえば戦後に行われた漢字の使用制限、「当用漢字」の採用によって、中国語としての、表意文字としての漢字がもっていた深みや、それが日本に輸入されて口語の「やまとことば」と日焼けがひりひりするようなストラグルをくりかえしたのちに生まれた日本語的深み、こういったものが失われてしまったのである。織田信長は歴史的にみても例外中の例外だろうからどうだか知らないが、鴎外にしても、てきとうに外国人の名前をもってきて表音的に、つまりひらがなが漢字から成立していったようにあてはめたわけではなかった。そこには、現代では考えられないくらいの深い深い漢文への教養があったのであり、要は「元ネタ」があったのである。かんたんにいってしまえば、戦前のキラキラ風ネームはすべて、漢字そのものの意味や由来をよく理解したうえで成立しているものだったのである。それが失われ、さらには、本書とはまた別の研究テーマとなるが、たとえば個人・個性主義だとか、社会的抑圧からくる親の自己満足だとか、いろいろな要素が複雑に交わり、いまの状況になったと。もっとも腹に落ちたのは、キラキラネームの増加が日本を(日本の言語状況を)壊してしまう、のではなく、日本が(日本の言語状況が)壊れかけているからこうした現象が起きているのであり、キラキラネームは炭鉱のカナリアなのだ、というところだ。漢字のあつかいがわたしたちにとって短絡的な「デザイン」にすぎなくなっているとしたら、「エレガント」という意味のつもりで「象」というタトゥーを入れている外国人を笑うことなどできないのである。


名づけ用の書籍とかはよく見るけれど、中身を見たことはないので、どういうものなのか見当もつかないが、やはり、漢字の意味とかいうことよりトレンドが重視されているものなのだろうか。そりゃまあ、キラキラネームが周囲から浮くかもしれない、いじめられるかもしれないという心配と同様にして、古臭くい名前をわざわざつける必要はないのだし、なにしろこうした場合親の愛情はホンモノなわけである。それが、本書の初期衝動ともなっている。ほとんどすべてのばあい、親は善意と愛情でもって、子供に不可思議な名前を授けるのである。だから、子どもの名前に「腥」という字をつけたがるのも、べつに「なまぐさい」という意味を知っていてそうするのではなく、ただ月と星が並んでいて美しいからなのである(ちなみにこの漢字は人名にはつかえないそうである)

そういうことは、やはり子どもの名前辞典なんかにはのっていないのだろうか。まあ、漢文から遠いところに住んでいる現代のわたしたちからすれば、「なまぐさい」は極端な例としても、漢字の本来の意味を持ち出されて非難されたとしてもことによっては周囲のだれひとりとして「そんなはなしは聞いたことがない」となる可能性もある。つまり、「腥い」を「なまぐさい」と読めるものが仮に100人に1人くらいになったとしたら、そんなことを気にしたってしょうがないし、残りの99人はこれを「ロマンチックで美しい」と感じる可能性も出てくるのである。古諺の類でもともとと逆の意味で通じてしまっているものがよくあり、テレビのクイズ番組で紹介されたり、偉いひとが戒めたりという光景はよく見る。たとえば「情けはひとのためならず」みたいなものだ。個人的には「気が置けない」ということばをずっと間違ってつかっていたという経験もある。これは、気をつかわなくていいという意味なので、「気の置けない友人」といえばそれは「気をつかわなくていい友人」という意味になる。しかしその語感から僕はずっと「油断できない友人」という意味でつかってきたのである。とはいえ、これらは慣用句なので、「ひとが慣習的に用いてきた絶妙な言い回し」というところなわけであるから、多数が逆の意味にとらえるようになったらもうそれでいいではないか、というふうにはおもう。学問的に正解がある事象だと、そういうことが合意されても誰かが沈黙を守ってストレスをためなければならなくなるので、これは「多数」というより「全員」ということになるかもしれないが、ともかく、とりあえずそうした慣用句についてはそんなにくちうるさくいうこともないんでないの、とあくびをする程度に考えている。


しかし、では漢字はどうだろうか。本書によれば、キラキラネームはなにかの原因ではなく、「しるし」である。すでに起こりつつあるなんらかの出来事の兆しなのである。ネットではともかくとしても、日常生活では、わたしたちはだいたい同じくらいの知性、同じくらいの経済状況のひとたちと接している。ということは、教養や社会への意識とかもだいたい同程度ということになる。「腥い」を誰も読めないという状況は、理屈からいってだからふつうにありえる。わたしが読めないのだから、周囲のものも読めないのだし、周囲のものが読めるのなら、わたしも読めるはずなのである。(漢字への意識の変化はこのような「読める/読めない」ということとはまた異なるのだが、わかりやすいのでこれを使う)。そして、現状ではだいたいのひとは「周囲のもの」が世界のすべてなわけである。共同体の外側からさかしらに「それはなまぐさいと読むのだよ」と言い立てても、「そう・・・(だから?)」というところなのであり、それについて責められる筋合いも本当はないのである。それは原因ではなく、すでに起こり始めている現象の「しるし」なのだから。


だから、げんにキラキラネームを無邪気に子どもたちに施す親を責めてみてもしかたないのである。というか、はっきりいってしまえば、もしわたしたちが「同程度の知性、経済状況」のものとだけ暮らすような世界にいるとしたら、そもそもわたしたちはキラキラネームの存在に気づけないかもしれず、(外部からさかしらに言い立てること以外に)あるいはなんの害もないのかもしれないのである(だから、一般の小学生が経験する「学区」という区切りの、さまざまな種類の人間が集まる経験は非常に重要なのである)。全員が「黄熊(ぷぅ)」とか「手真似(さいん)」とかいう名前だったとき、誰が「紗冬(しゅがー)」ちゃんをいじめるだろうか。この問題は根が深い。個人の美意識とか教養とかに還元できない事象なのだ。

そもそもそんなふうに格差が生じて、階層ごとにくっきり断絶しているのがよくないのだということもある。しかし、仮にそうだとしても、げんにいまそうであるのだから、問題は生じないのではないかと、考えることはできる。そうもいかないのは、ことが言語にかかわることだからだ。くりかえすようにこれは、漢字を表意文字として、またひらがなとの関係性として受け止める感覚が失われた結果ということである。本書においてはまず、わたしたちが同音異義語をうけとめるとき、無意識にすばやく漢字を脳内に浮かべることで会話を成立させているという点をあげている。本書の例としては、「せいこうのひけつをおしえてくださいよ」という音声を受け止めたとき、わたしたちは瞬時に「性交」ではなく「成功」の文字を浮かべて処理しているのである。明治時代に比べたら薄っぺらでもそれまで培われてきた漢字の知識が、前後の文脈からしてそのように自然と推測させるのである。

明治以降、福沢諭吉なんかが猛烈な集中力とスピードで仕事をこなした結果、わたしたちのことばのなかに大量の翻訳語が混じることとなった。「社会」とか「人格」とか「理念」とか「哲学」とかはぜんぶ明治期に海外から輸入されてきたことばで、仏教用語とかからそれっぽい日本語を見つけてきて作り出された新語なのである。もともとの日本語に(少なくとも日常会話には)なかったこうした言語がもたらす感覚を柳父章は「カセット効果」と呼んだ。カセットとは宝石箱のことで、字と意味がリニアに接続するものではなく、なにかきらきらしたものがつまっている空語のようなものとしてわたしたちはそれをとらえるのである。言語学的には日本語は膠着語と呼び、テンプレートさえしっかりしていればよく意味のわからないことばもぼんぼん放り込んで、なんとなく、それっぽく使いこなすことができる。英語もカタカナにしてしまえばすぐ日本語になるし、「『 』は『 』だから『 』すべきだ」というような形式のなかにそうしたカタカナ語や奇抜な造語を放り込んでも文章は成立するし、カセット効果によってわたしたちはむしろそこに権威的な意味を自主的に拾いあげてしまうのである。

そういう意味でいえば、表意文字としての漢字がいまどれだけの霊力をもっているかというと、やや微妙なところもある。けれども、はなしはそんな単純ではないのだろう。中国語であれ近代の翻訳語であれ、もともとあったやまとことばとの衝突と融和の結果、いまのかたちが成り立っているのである。膠着語としての日本語の形式からして、ファーストインパクトとしてのカセットである漢字があって成立しているものなのである。その意味が剥がれてしまえば、わたしたちは基本的な思考すら困難になっていくのではないか。・・・いや、どうだろう。漢字が入る前の口語のみの日本語は、果たして膠着語だったのだろうか。である、って断言しちゃったけど、わからないな。


というわけで、問題は単純ではない。しかしこんな壮大なことでなくとも、ごく単純に、子どもの名前というのは熟考されて創案されるものだろう。それはキラキラネームを授けるときであっても変わらないはずだ。だからそのときに、トレンド以外に漢字の意味を調べる、という程度の移動があってもよいのではないかとはおもう。まあそれも、そもそもそうした移動が起こらないというのが「しるし」ではあるのだが、とりあえず僕としては白川静の字典をおすすめしたい。「字統」みたいな字書はびっくりするほど高いけど、図書館とかに行けばあるかもしれない。また、僕は「常用字解」というもっと簡単な字書をもっているのだけれど、成り立ちから独特の発想と霊力で文字が読み解かれていて、ふつうによくつかっている。人名漢字の字書ではないのでそのままこたえにはならないかもしれないが、大きなヒントにはなるのではないかとおもう。





↓調べてみたら人名字解っていうのもあるらしい。読んでみたい。






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今週の刃牙道/第71話

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第71話/喝あつッッ






武蔵を逮捕するため、光成の豪邸に警官がたくさん押し寄せてきていた。光成はそれを強権的に抑えつけようとするのだが、武蔵は別に気にしていない。すぐ戻る、ということで、外に出てしまったのである。

と、今回はなにかの回想シーンではじまる。1921年に起きた大本事件というじっさいにあった事件についての語りだ。今回はじめてこの名前を聞いたので、細かいことはわからないが、新興宗教「大本」弾圧事件ということである。

なんだかよくわからないが、要するに、警察がその教祖である出口王仁三郎の逮捕をしようとしているところのようだ。

しかし問題があった。出口の側近であったひとりの武道家というのが、合気道開祖の植芝盛平だというのである。バキ世界には御子柴喜平という、植芝にそっくりで、なおかつ後述の塩田剛三にそっくりな渋川剛気の師匠である男が存在するが、もちろん別人である。わたしたちの世界における実在の人物である宮本武蔵が漫画内に登場している以上、もはやこんなことを気にしてもしかたないかもしれない。おもえば宮本武蔵をモデルにしたキャラというのは、これまでもいそうでいなかったな。

植芝は当時警視庁で指導もしていたという。だから、彼らは植芝が普通ではないということを実感としてよく知っていたのだ。人数の多さでどうにかなるものでもなく、軍の協力は得られないのかとまでいっているものもいる。出口を捕まえるためには、植芝をどうにかしなくてはならない。しかし指導を受けている彼らが、植芝の超人ぶりをよく知っている。人数や安っぽい装備ではどうにもならないのだ。

そうして議論を重ね、彼らは奇策を考え付く。まず消防車で植芝をかこむ。その周囲には数え切れないほどの人間がいる。たぶん100人くらいいるだろう。それくらいの人数でかかっていってもどうにもならないということなのだろうか。

ともかく、その状態で放水をする。当時はどうだか知らないが、消防車の水圧というのはふつうではない。四方から撃たれたらよけるのも難しいだろう。いちどでもとらえることができたら、あるいは絵にあるように植芝でも丸くなって防御の体勢をとるかもしれない。そうなったところで巨大な網をかぶせる。放水で丸くなっている最中であるならこれもかぶってくれるかもしれない。自由がきかなくなったところで、今度は5メートルくらいの長―い棒で10人くらいでめちゃくちゃに打ちまくる。戦闘不能になったところで逮捕と。このはなしを、作者は植芝の高弟である塩田剛三から直接聞いたそうである。渋川剛気そっくりだけど、こっちがオリジナルです。作戦じたいは、植芝が姿を消したために行われることはなかったが、ここで重要なことは、完成された武道家は国家権力をしてここまで畏怖させる、ということだ。


武蔵を見て緊張した様子の警察官たちを内海警視総監が制止する。武蔵は陽気に声をかけて様子を探っているようだが、内海はごにょごにょと小声で隊長っぽいひとに指示して撤収させる。どうも、「万が一」に備えて内海は用意したようである。それが、おもったより武蔵は協力的というかなんというか、別に抵抗もしないので、帰っていいと。

しかしそれを武蔵がとめる。あんまり近くですばやく両手をあげつつ大声を出されたものだから、内海がビクッとなっちゃってる。

武蔵は隊員たちを「兵士(もののふ)」たちと呼ぶ。なるほど、そう見えるか。いわれてみるとたしかにこれは兵士以外のなにものでもないかも。

内海と隊長のはなしが聞こえたわけでもないだろうが、武蔵は、この配備は万が一じぶんが抵抗したときのものだろうと指摘する。多勢に無勢でおさえこむつもりだったのだろうと。そのことについて武蔵の感想はよくわからない。問題なのは、この程度の兵力でこの武蔵を制圧するつもりだったのかと、そういうところだ。そりゃまあ、内海が武蔵の正体をどこまで知っているのか、あるいはどこまで信じているのかわからないとはいえ、ふつうの感覚でいえばじゅうぶんすぎるほどの兵力である。全盛期の大山倍達が暴れたとしても、この人数がいればまず大丈夫だろう。というか、武蔵がホンモノだろうと、あるいは達人は達人でも武蔵を名乗るニセモノだろうと、内海は武蔵のたたかいを見たことがない、ばかり歩いている姿すら見たことないのだから、見誤るのも自然なわけだが、武蔵はそこに食いつくのである。これは、みくびられたとしてほんとうに怒っているというよりは、独歩なんかが上手にやってみせるあの喧嘩のはじめかたみたいなものじゃないだろうか。例の悪魔的オーラを発しながら武蔵は感情を表明するが、じっさいにそうやって気分を害した、というより、ちょっと試してみよう、というくらいなのかもしれない。


オーラを放つ武蔵は、烈でも「仕掛けられた」と判定して攻撃してしまうような、じっさいおそろしいものである。内海やうしろにいる隊長は顔面蒼白になってだらだら冷や汗を流している。

そんな彼らを、武蔵は「喝あつッッ」と大声で叱りつける。ただの大きな声だろうに、衝撃波でも発したかのように周囲の隊員は武蔵を中心にした円を描いてすばやくはなれてしまうのだった。内海がいないなとおもったら、ひとりすばやく隊員の群れの奥のほうに逃げてしまっている。まあ、ほかのひとちがってなにも装備してないしね・・・。こわいよねそりゃ。

大声でみんな逃げてしまうくらいでは、武蔵的にははなしにならない。まあ、いてもいなくても同じことだったわけである。

というわけで、武蔵は明確に「自主的に」捕まることとなった。移動の車のなかで、内海が今回の件の意味について語る。警察は武蔵の罪を問うつもりはないという。そのかわり、取引をしないかともちかけるのだ。警視庁の剣道場では有段者の三輪猛丈という男が待機している。どうやら彼と関係している取引らしい。が、武蔵はそれどころではない。相変わらず移動する車に乗るのは苦手なのであった。




つづく。





なんだか不思議な回だったなとおもったら、今回のはなしにはレギュラーのバキキャラがひとりも登場してないんだな。ドアの向こうにいるにちがいない光成さえいちども描かれなかった。久々にバキを読むというひとが今回だけを読んだら、タイトルを確認してしまうかもしれない。

はじまりかたも変わっていた。梶原一騎の手法ということでいいだろうか、「作者」の名前が登場したことは過去にもあっただろう。たしか克己対花山で、みぞおちを踏み台にして云々という大技を克己がくりだしたとき、この方法がとられていたはず。それから、今回植芝盛平と塩田剛三そのものが登場した。作中に実在の人物が登場したこともまたいくらでもある。作中にその人物をモデルにしたキャラクターがいたうえで登場することもあるのである。たとえば、大山倍達やモハメド・アリである。このことについては、あくまで手法であるということで片付けることは可能だろう。難しく考えることはない。板垣恵介という人物が「バキ」という世界をつくっていて、そのなかのエピソードに箔をつけるために、読者にとってより身近な、つまり「実際の」出来事を引用するのである。そうすれば、作中の奇抜な展開も真実味を帯びることになる。なにも問題はない。ただひとつ問題があるとすれば、当の作中に実在の人物である宮本武蔵が登場しているということである。


これまでたくさんの実在の偉大な武道家や格闘家がモデルとされ、キャラクターが創出されていったが、おもえば宮本武蔵をモデルにしたキャラはいなかった。いやまあ、それをいったら、織田信長をモデルにしたキャラもいないし、呂布も関羽もいないし、きりがないが、宮本武蔵も「実在の偉大な人物」として描かれてきたことはまちがいない。つまり、作品として、作者として、偉大でなおかつ近しい人物として、武蔵は認識されてきたはずである。そしてそうした人物こそが、これまでモデルに採用されてきたのだ。現実的な理由としては、たんにこれまでのたたかいが素手中心だった、ということはあるだろう。闘争への心構えとか精神性を語るときに武蔵はつかえたが、具体的な技法になるとバキたちの演じるものとはまた異なってしまうからだ。しかし、直覚的には、武蔵というのはなにかこう、わたしたちの住む現実世界と漫画の世界の接合点のようなもののような気がする。宮本武蔵は光成の姉・寒子に魂を呼び寄せられてこの時代にやってきた。武蔵というのは実在の人物なので、だとするなら寒子はわたしたちの世界に住む人間の魂とも接触できることになる。描写ではふつうに生きている人間の魂も一時的に憑依させることができていたので、原理的にいえば、寒子がその気になれば、いまこの瞬間、わたしやあなたの魂を呼び寄せて、漫画のなかで活動させることもできるのである。当時はそのように考えた。しかし、武蔵というのが接合点に存在するものだとすると、そういうわけにもならないのかもしれない。現実と漫画、両方の世界を合わせて、武蔵だけが特別なのだ。わかりやすくいえば、塩田剛三と渋川剛気はよく似ているが、彼らを「似ている」とおもわせるなにか中心核のようなもの、プラトン的にいえば「イデア」が、そこにはあるはずである。わたしたちはあるリンゴを手に取り、他方でそれとは色もかたちもちがうべつのリンゴを手に取ったとしても、それもまた同じくリンゴであると把握することができる。色も、厳密には形もちがうのに、どちらも同じリンゴだとわかるのだ。そのとき認識しているものがプラトンの考えたイデア、形而上学的に個性が捨象された客観の最底部である。彼らにもまた中心をなすなにかシルエットのようなものがあり、それが、バキ世界、あるいは現実世界において起き上がったとき、それぞれ渋川剛気や塩田剛三といった個性に変わっていったのだ。

ところが武蔵はそうではない。並行世界にじぶんと同じイデアを源とした、「じぶんとはわずかにどこかがちがうじぶん」が存在している、という考え方はSFなどではよくある設定だろうが、そのはなしでいけば、要するに武蔵というのはひとりしかいないのである。奇怪な状況ではあるが、わたしたちが歴史で学ぶ武蔵と、バキ世界で語られる武蔵は、そのままの意味で「同一人物」なのである。


植芝盛平のエピソードは、究極にとぎすまされた武道家は、集団の国家権力さえおそれさせるということを指摘するためのものだ。しかし、じつはこんなことはバキ読者としてはいわれるまでもない。わたしたちは100人の機動隊をちからで押し返す範馬勇次郎という存在を知っているのである。それに近い実力をもつ人物も何人かいる。いってみれば、バキ世界の基準でいえば植芝盛平のレベルは標準なのである。しかし現実原則でいえば、このはなしが本当だとしたら、もちろん植芝盛平は超人である。したがって、流れからして、今回配備された大勢の機動隊員は、バキ世界よりむしろ現実世界のものに近い戦力として想定されているのだ。花山薫の握力を、漫画のなかに存在しているトランプや古タイヤで測定することはできるが、わたしたちがハンズとかに出かけて購入した握力計そのものでそれを計ることはできない。当たり前のことである。「花山薫」も「握力計」も、それぞれの世界の原則に縛られているからである。梶原一騎的手法で、握力100キロを出すことがどれだけのことかをいくら説得的に描いても、それはある意味幻でしかない。哲学的に厳密なことをいえば、作中の100キロとわたしたちの知っている100キロが同一であることを証明することはできないからだ。しかしふたつの次元をまたいでひとりしか存在しない超越者であるところの武蔵ではそれが可能である。宮本武蔵はバキが始まって以来はじめて、わたしたちの所持するものさしで実際に測定することのできる人物だったのである。


こうして見ると、武蔵を経由することによって、とりわけ今回のおはなしは、わたしたちの住む現実世界にバキ世界がやや接近していたのではないかと考えられる。それが違和感というか今回の不思議な感触の正体である。異界の空気が漂っているために、バキ世界のレギュラー陣は今回登場しにくかったのである。


内海のもちかける取引はなんだろうか。直感的には、バキ戦を前にしたピクルがティラノサウルスの肉を半永久的に手にしたみたいな感じで、今後の武蔵が行動をとりやすくなるようななにか特権的なものが手に入る機会なのではないかとおもうが、まあ内容としてはしょうもないものになるだろう。だって相手にするのはまちがいなく現実世界のひとだから。このすきにバキが本部からなにかを学んでいるといいのだが。






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ヤクザくん ここまでの考察まとめ

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ヤクザくんはウシジマくんの物語でカウカウ・ファイナンスおよび丑嶋社長がそれとして存在する背骨のようなものなので、当然長くなるだろうし、はなしとしても多面的になる。僕は基本的に毎回の感想の内容を書くその瞬間まで考えていないので、ということは大部分その瞬間に思いついたことなので、いろんなことを思いつきでてきとうにそれらしく書いては忘れてしまう。ウシジマくんの、それもヤクザくんともなれば、毎回ちがうことを書いている(思いついている)といってもそれほどまちがいはなく、そろそろなにがなにやらわからなくなってきそうなので、これまでの考察をかんたんにまとめておく(僕自身のために・・・)。いちおう現時点までにスピリッツに掲載されたぶんを対象とするが、あまりにも本が多すぎて雑誌を保管するスペースがないので、スピリッツもチャンピオンも感想を書いたらすぐ捨ててしまう。というわけで、現在まで発売されているウシジマくん33巻と34巻を見ながら書いていくことにする。



丑嶋とのかかわりを保留して、このヤクザくんがどういうことを描いているかというと、まずはその「世知辛さ」である。このあたりの僕の認識は大部分、ヤクザくんがはじまったときにあわてて読んだ溝口敦『暴力団』によってはいるが、原則的に読解は本編に記されていることのみを手掛かりに行うので、探してみると、33巻に井森と家守がそういうはなしをしている箇所がある。暴対法の施行によってヤクザはまともな仕事ができなくなっている。銀行口座がつくれなかったり、部屋を借りれなかったりということもあるようだ。また、ヤクザくんでは特にハブなんかがぽんぽんひとを殺すので実感がわきにくいが、喧嘩もろくにできない。もし下っ端がなんでもない路上の喧嘩で相手に重傷を負わせてしまったり、あるいは殺してしまったりしたら、使用者責任ということで組のトップにまではなしがいくというのである。『暴力団』に出てきたエピソードでは、ホスト集団に暴行を受けたヤクザふたりが、とりあえずその場は事務所に退散し、怒りのままに武器を手にとって再びそこに向かおうとするのを、上のものがとめたのだという。もちろんアウトローどうしの喧嘩なんてないほうが世の中のためだが、それではいったいなんのためにじぶんたちはヤクザをやっているのかと彼らが考えたとしても不思議はないわけである。それだから、家守がいうように、活きのいい若者はヤクザ業界に入ってこない。金は稼げない、ということは美女を侍らせてかっこいい車に乗ったり、大勢の後輩にご飯をおごったり、みたいなステレオタイプのヤクザ的ふるまいはできない、そして喧嘩もろくにできない、そのくせ義理ということで上のものからの徴収だけは律儀にあると、そういう状況であるから、若い不良からすれば、ヤクザになることにいったいなんのメリットがあるのかと、損得にうるさい現代人でなくても自然とそういうはなしになる。そこで台頭してきたのが関東連合のような半グレ集団である、というはなしであった。稼げず、暴れられず、金ばかりとられるヤクザになるより、気の知れた古い友人たちとつるんで、遊んで、悪巧みで儲けたほうがよほど利巧ではないかと。

こういう背景が、ヤクザくんにはある。若者が入ってこない組織は自然の摂理として必ず老いていく。こうした状況が続くのであれば、ヤクザ業界の崩壊は必然である。暴対法等のしめつけがこれからも存続するのだとしたとき、そしてヤクザ業界の衰退をおしとどめようとしたとき、ではどうしたらよいのかと、そこでとりあえず考えられるモデルが滑皮秀信のものである。滑皮じたいの野心については、まだわからないぶぶんがある。いま描かれているような姿は、以前の彼からは考えられなかった。だから、彼が今後「ほんとうのところ」どういう態度に出るつもりでいるのか、というのは保留しなくてはならない。しかし彼が、ヤクザくんのありようを保持するものとしてそのふるまいを(あるいは無自覚に)選択していることはまちがいない。それは「かっこいい兄貴」でいることである。どういう事情があるものか不明だが、とにかく彼はヤクザ業界に救われたようなところがあるようだ。鼓舞羅に殴られ、男をおとし、じっさい脳に障害が出ているとしかおもわれない熊倉だが、彼は後輩の梶尾に対して熊倉をフォローするような態度をとる。梶尾としては、尊敬する先輩が理不尽な目にあっているのを目にして、熊倉を信用するという行為を通して先輩を立てる、という姿勢でありつつ、なにか割り切れないものを抱えている。が、滑皮は熊倉も「むかしはかっこよかった」とする。この言外にはなにが含まれているだろうか。ヤクザ業界の不況は成員すべての共有する認識事項であるとおもわれる。熊倉がなにかに追い詰められているかのようにむちゃくちゃな行動に出るのも、だから彼らからすれば同情の余地がある。もともと理不尽な、かっこわるいひとだったわけではない、いまの状況と、そして熊倉の場合は鼓舞羅の事件が重なり、こんなことになっているのだと、たぶん滑皮はそのように伝えたかったのだろうとおもわれるのだ。

ヤクザになっても、金を稼ぐのは難しい。若者をひきつける安易な要素はもうこの業界にはない。しかし滑皮は「かっこよかったころの熊倉」を知っている。そして、そんな熊倉に世話になり、あこがれ、一人前のヤクザになった。そうした、「安易な要素」以前の、原風景みたいなものが滑皮にはあるのである。じぶんが熊倉にあこがれたように、じぶんもまた「かっこいい兄貴」になれば、後輩たちはじぶんにあこがれるのであり、それは彼らをひきつけるちからになる。滑皮がそれを純粋な打算として行っているのかどうか、そのあたりはくりかえすように不明である。しかし重要なことは、梶尾たちがげんに滑皮を尊敬し、金をもってるかどうかなどということは二の次の「高楊枝」の姿にあこがれていることはまちがいないということだ。ほんのちょっとした入力のちがいでいまの地位が危うくなるかもしれない現況で、熊倉をはじめとしたヤクザものはエゴイスティックになっている。もともと無法者の集団で自己中心的な傾向があるものたちが、余裕を失い、それぞれに自己利益を追求するようになっているのだ。ホッブズの想定するところでは、社会契約以前の人間の自然状態というのは「普遍闘争」であるということだった。それぞれが好き勝手に利益を追求していけば各地で闘争が起こり、最終的にはもっともちからの強いものが利益を独占することになる。というより、「自己利益を追求する」ということは、「最強者が利益を独占する」ということに合意したも同然なのである。しかし、「バキ」が描いているように、最強者というのは普通流動的である。弱者が一時的に結託しないとも限らないし、どんな強者もいずれは老いる。かくして利益はどこの誰にも持続的には独占されず、ただ血だけが無益に流されることになる。くりかえすように、ヤクザというのは無法者の集団、つまりいってみれば社会契約以前の集団であるから、本質的には自然状態である。僕のあてずっぽの推測だが、そこに親子や兄弟といった擬制を設けることが、彼らが受け入れた最低限の秩序なのではないかとおもう。持続的に、金を、あるいは幸福を、各自それなりに享受するためには、秩序が必要になる。そこで、これだけは破ってはいけないという、ちょうど憲法のようなものとして、彼らは家族の制度を採用したのではないだろうか。

こうした制度がありながらも、現況が彼らを少しずつエゴイスティックにしているのである。熊倉が面子回復のためにハブの件を総取りしようとしたのもおもえばわかりやすく象徴的なことだった。しかし、それではヤクザ業界は自壊する。だから滑皮は、家族の擬制に敬意を払い、金があるとかないとかいう次元とはまたべつのところで、「高楊枝」の「かっこいい兄貴」を演出するのである。「下のものが上のものにあこがれる」という図式だけが、この業界を持続させる唯一の道なのだ。だから、滑皮としては、梶尾たちからの「あこがれ」を尊重するためにも、熊倉の理不尽な要求を受け容れなければならない。多少奇妙に感じても、熊倉を信頼しているということを示すために、彼の命令や発想を支持しなくてはならないのだ。



こうしたヤクザ業界の背景と、そこから導かれた滑皮のありように相対的に描かれるのがハブと、そして丑嶋である。

ハブサイドに関しては、ハブじしんより当初の井森や家守にすべてがあらわれているといえるだろうか。

ハブもまた熊倉同様、丑嶋に殴られたことで男を下げてしまった。細かい事情はどうでもよい。重要なのは「ヤクザではない」という意味合いでは素人でカタギである男に殴られて、その返しをしていないということだった。いまのハブの暴走っぷりを見ると、丑嶋や、あるいはケツモチがこわかったからとか、そういう理由があったとは到底おもえない。しかたない事情があったはずである。直接言及はないが、ふつうに考えていままで服役していたのだから、それが理由だろうとおもわれる。ビビッていなくても、組どうしの抗争にまで持ち込むのは馬鹿げている。ケツモチにかんしてはそれなりに慎重にやらなくてはならない。そんなこんなでもたついているうちに捕まり、出てきてからは再び態勢をたてなおしていた、みたいなところではないかと、ごく当たり前に考えて推測できる。しかし井森たちはなぜかそのあたりを汲んでくれない。家守などがたんに時間があいてしまっていることに苛立つばかりか、「なぜ返しをしないのか」という具体的な言い方までしているのが奇妙ではあるが、くりかえすようにハブは別にためらっていたわけではない。しかしそういう感情が井森たちには出てくる。それはハブを信用していないからだ。ヤクザとしてのハブを信用していれば、仮に服役をしていなくてこれだけの時間があいてしまったとしても、「おそろしいハブの兄貴は必ず丑嶋に復讐をするはずである」というふうに思考が巡るはずなのである。少なくとも同じ状況なら梶尾は滑皮についてそう考えるだろうし、滑皮も、ほんとうの気持ちはともかくとしても、とりあえず梶尾たちの前では熊倉についてそのように考えていることを表明するだろう。くどいようだがそれしか組織が生き残る術はないのである。

つまり、若干感傷的ないいかたをすれば、ハブ組のメンバーは気持ちがばらばらなのである。それをハブは恐怖でもって統率する。一時的には、それはたしかに有効にみえる。しかしこれは、ホッブズの視座からすればたんにその場の最強者が利益を(権利を)独占しているというだけの状況にすぎない。最強者がすべてを独占する状況に合意している以上、ハブは新たな強者、たとえば結託した井森と家守だとか、あるいは睡眠中の弱者としてのじぶんとの相対的強者としての家守とか、そういうものに権利を奪われることについてひとことのクレームもつけられないのである。ハブ組が崩壊するとすればまちがいなくこのあたりが火種になるだろう。

けれどもハブにもまだ旧体制の名残はあり、そこを獏木が受け継いでいる。獏木のハブへの敬意は、恐怖を経由しない本当のものであろうとおもわれるのだ。そして、ハブもそれをどこかで感じ取っている。井森たちに対するのとは明らかに態度が違うのだ。獏木と接しているときのハブは、「恐怖」のカードを用いずに「強く、周囲からおそれられている兄貴」を演じているようなところがあるのである。




そして丑嶋である。丑嶋はみずからアウトローの道を選び、徹底して悪の道を貫きながら、滑皮に誘われ、戌亥にすすめられてもヤクザにはならない、ばかりかヤクザをひどく嫌っているという不思議なポジションにある。若者の損得勘定からヤクザを遠ざけている、というのとはどうもちがうようにおもわれる。ヤクザへの嫌悪感はアウトローとしての選択肢というより、もっと根本的なもののようにおもわれるのだ。いくつでも理由が考えられる。ふつうに闇金を営むうえでからんでくる滑皮がちょうど同世代で、なんとなーく気に食わないという感情が持続して、彼を「いつかぶっ殺す」と憎む感情がやがてヤクザ一般を憎むものに変わってしまったとか。しかし、以上のようなことから、丑嶋が無自覚に憎んでいるのは家族関係の擬制なのではないかと僕は推測したのだった。中学生の時点でも丑嶋はかなりすさんだ家庭環境にいたようである。家族、あるいは父的なものを憎んでいる可能性はかなりある。具体的な言明があるわけではないが、愛しても見返りがなく、理不尽な要求をされるばかりの家族関係の経験から、その相似形のように「ケツモチ」の関係だけを言い立てて要求ばかりしてくるヤクザもまた憎んでいると考えればすっきりするのである。構造的にいえば、丑嶋はヤクザを憎み、ケツモチを拒むことで、「父的なもの」を拒否することにもなっている。「父的なもの」とは要するに秩序のことだ。なにかことを行うにあたり、判断をする際に用いるものさし、うかがいをたてるものの表情、やるべきかやらざるべきか、善か悪かを定める標準、こういうもののことである。通常の闇金は、ヤクザ組織の末端に属することで、その行動を束縛されることになる。しかし丑嶋はこれを拒む。「孤独」が丑嶋にとってのキーワードであることはまちがいないが、それはこのことと関係しているだろう。彼は多くの債務者に、おせっかいにも「孤独を受け入れろ」と、そして自立しろと、そういうようなことをことばを変えてこれまでいってきた。それは、ひとつには、現代社会が「大きな物語」を骨組みとしたわかりやすい秩序のもとには成立しておらず、ある意味では個々人がそれぞれ「小さな父」として乱立し、衝突する社会であるということを告げているのだろう(宇野常寛は村上春樹の批評を展開しつつ『1Q84』からの引用でそれを「リトル・ピープル」と定義する)。だとするなら、丑嶋はヤクザ組織の用いる擬制の文法を拒んでいるというよりは、古いものとして疎んじている、といったほうがいいのかもしれない。もはやそのような擬似的な物語は機能しない。機能しているように見えても結果擬似的でしかない。滑皮がいくら「かっこいい兄貴」を自覚的に演じて、「大きな物語」の登場人物たろうとしても、それが失われた物語であることにちがいはなく、現実的に回復はありえないのである。



まああてずっぽではあるのだけど、そんなような仕組みで、丑嶋はヤクザをおそらく憎んでいる。しかし、おもしろいのは、そのようにして、たとえばここでいえば「家族の物語」のような制度が失われて久しいと、みずからの言動で示しながら、彼がマサルという息子を誕生させてしまっているということである。そのマサルが丑嶋に牙をむいたことがなにを示すのか、丑嶋のミスとみるか、あるいは失われたとおもわれた物語は不完全燃焼のまま沈滞していただけで、それは再び姿をあらわした「物語の必然」であるとみるか、それは結末まで見てみないことにはわからないが、互いに父たろうと、また息子たろうとしているわけではないのにこうなっている以上、後者なのではないかという感じはする。

愛沢の件で転生したマサルは、高田に命を救われたことである意味では彼を母として、アウトローとしての技能を授けられた、あるいは奪って身につけたという意味では丑嶋を父として成長してきた。いちど見捨てられたとはいえ、ある意味でいえば、見捨てられたのは転生の前のマサルであるのだから、見捨てると同時に新たな生を丑嶋は与えたことにもなる。丑嶋を盛田同様「地獄行き」にしようというマサルについては、母親のこととか、いろいろな事情があるとはいえ、逆恨みにも程があるんじゃないかと、そのように見えないこともない。しかしまあ、おもえば父というものは、全貌の見えないものである。語りつくせないもののことである。通常の親子関係でも、父の行いの意味というのは、じっさいに父の年齢くらいにならないことにはわからないことも多いだろう。それと同様と考えてもそれほど差し支えないかもしれない。

盛田を生きる価値なしとする丑嶋を見て、大義を得たというぶぶんもあるだろうが、マサルはそんな丑嶋にも生きる価値なしと判定する。これは非常におもしろいというか、露骨に彼が丑嶋の息子であることを示す場面である。マサルは、「人の生きる価値を勝手に決めるようなやつに生きる価値はない」と勝手に決めているのである。マサルのことばをそのまま受け取れば、丑嶋を「生きる価値なし」と判定した彼自身も「生きる価値」なしということになるのである。

そして、マサルじしん、じぶんが丑嶋を父親のようにとらえていることをどこかで気づいている。折口信夫の看破した説話類型に貴種流離譚というものがある。高貴な生まれのものが、なにかのはずみで苦難に投げ込まれ、それを克服していくというパターンのことだ。人類が普遍的にそうした説話を創出していったということは、おそらくそういう願望がわたしたちのなかにはあるからなのだろう。ほんとうのわたしはこんな貧乏な生まれではない、このひとたちはほんとうの両親ではないと、そんなようなおもいが、貴種流離譚を語らせるのかもしれないのだ。マサルではそれの変形というか逆流のような現象が起きていて、彼は自分を肯定するために、その原型となる丑嶋社長という人格が「こうでなくてはならない」と考えるモデルを想定しているのである。たとえばそれは、ひとの生きる価値を勝手に決めないような生き方である。しかし、そうではない。丑嶋はマサルの理想の親ではない。だとすると、彼はじぶんのありかたを肯定できなくなる。かくしてマサルは「丑嶋を殺す」という方法でもって、世にも歪んだ自己否定を果たそうとしているわけである。



マサルのはなしのあたりから眠気が限界でもうなにを書いているのかわからない。とりあえずここまでにします。またあとで書き直したり追記したりするかもしれません。





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今週の刃牙道/第72話

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第72話/剣道






武蔵の逮捕にはなにか裏があるらしい。内海警視総監はなにかの取引をもちかけたようなのだ。

彼らのむかう先には、全日本剣道選手権4連覇の三輪猛丈七段が待っている。剣道のことはまったく知らないが、4連覇ってすごいな。僅差で負けるようなものさえいないというような、現状では圧倒的強者ということなんだろう。

うしろに立っていたメガネの男が、正座して待っている三輪が少し笑っていることに気づく。とにかく宮本武蔵と立ち会えるのがうれしいのだ。かたちだけ逮捕してすぐ釈放するから、そのかわり全日本覇者とたたかってくれと、これだけのことのようだが、内海の取引というのはそれですべてなのだろうか?全日本覇者と、うそかほんとか宮本武蔵をたたかわせたいと、そんな光成的欲求だけが動機なのだろうか。

とはいえ、それがホンモノの宮本武蔵かどうかは疑わしい。というか、常識的に考えてありえない。たとえばいま匿名の作家がデビューして、天才的だともてはやされて、それがじつは夏目漱石だったと聞かされたら、どう考えるだろう。とりあえずそれがほんとうのことだとして、まずは長寿の可能性を考えるかもしれない。なんらかの奇跡や魔術が働いて、いままで生きていたのだと、信じないまでもそういう可能性があたまに浮かんできそう。しかし宮本武蔵の姿はみんな動画で見て知っている。どう見てもお年寄りではない。そしたらまあ、クローンっていう可能性も導かれるかもしれないが・・・。

武蔵がどうやって生き返ったのかというのは、当事者的にはたいして重要ではない。彼に接触した職員はくちをそろえて「ホンモノだ」と語っているという。バキ周辺ほどでなくとも、彼らもまたからだを鍛え、それなりに武術を修めている身である。常識や理性の前にからだが、それが真実であると告げてしまうのだ。

メガネはまだ信じられないようだが、とりあえず彼が「武蔵であっても不思議ではない」とおもわせるほどの達人であることはまちがいない。三輪は日本の頂点に立つほどの剣道を身につけている。じぶんがじぶんであることを確信するときのもっとも大きな要素として「剣道」があるのである。それが、模擬的なものにすぎないのか、あるいは一種の進化であるのか、それがわかるかもしれないと、三輪は考えているのだった。


そこに内海や武蔵が到着する。手続き上は、武蔵は身柄を拘束されているということになっている。

三輪は武蔵と目を合わせて大量の冷や汗を流している。武蔵の例のオーラを感じ取っているようだ。

ふたりが竹刀をもって向かい合う。武蔵はここまでひとことも発せず、おとなしくしたがっている。屋敷を出るときにいっていた「勉強」のために、なにかこう、空気を読んでいるような雰囲気がある。

向かい合うふたりを見て内海は興奮している。竹刀による防具なしの真剣勝負、これを見たかったのだと。これが今回の「取引」のすべてだとすると、やはり光成と大差ない動機だったらしい。あるいは、内海は剣道がかなり好きなのかもしれない。公務としてはどういう意識でいるのか、それはともかくとしても、剣道のはなしとなると黙っていられず、ついこういう行動に出てしまった、そしてつい「光成側」に立ってしまったと、そういう単純なことかもしれない。

まあこれで警察からうるさくいわれなくなるんだったら、光成も読者もうれしいので、別に文句はない。武蔵は特に構えるでもなくいつも通りだが、三輪は激しく緊張している。だが自信もあるようである。剣道は、重い刀を軽い竹刀に持ちかえることで速度を手に入れた。その意味では剣豪を超えるはずだと。なんかよくわからない理屈だが、ともかく自信はある。この立会いは真剣勝負ということなので剣道ルールではない。なにをやってもいいのだろう。ただし武器は三輪のつかいなれた、そして速度を獲得したという竹刀であると。


武蔵が竹刀を観察している。刀を壊してしまう武蔵であるから、軽いとかいう以前にもろすぎてなんだこれというところだろう。しかし、あまりにも刀からかけはなれているせいで、武蔵はすんなり竹刀の模擬刀としての役割を理解したのかもしれない。これまでだったらいろいろ問題点などくちにしただろうが、今回「ふむ」とだけしかいわないのは、あまりにこの状況がつまらなすぎて相手にしていないのか、それともこれはこれで認めて受けようというのか、微妙なところだ。


なんにしても問題外にはちがいない。てくてくと、散歩するイカ娘くらいの無防備さで竹刀をぶら下げた武蔵が三輪に近づいていく。そしてなんの小細工もなく、戸惑う三輪に向けてただ竹刀を振り下ろす。三輪はあわてて竹刀を横にしてそれを受けるが、武蔵の一撃は竹刀をぶち折るばかりかそのまま頭をとらえ、さらにはあたまのところで折れて三輪の背中まで叩くのであった。




つづく。




まあ、相手にならない。剣道は速度を手に入れたということだが、それを見せる余裕もなかった。なにかを制限することでなにかを得るというのは、それほど珍しいことでもないだろう。一般的なフルコンタクト空手では、素手での打撃を認めるかわりに手技での顔面攻撃を禁止した。そのことによって距離感や、実戦では当然くりだされてくる顔面突きについてそうとうの熟練者でも不慣れであるという状況が生まれてしまったわけだが、いまでは当たり前に見られる下段蹴りなんかは、顔面攻撃を禁止したことでここまで発達したといわれている。ボディへの下突きなんかもそうかもしれない。徹底的な筋力トレーニングとスネの強化で、ただ足を蹴るだけで相手をダウンさせることも可能であると、ある意味でわたしたちは発見したわけである。しかしそれが「真剣勝負」でも有効かというと、それが黒澤浩樹とか数見肇だったらふつうのひとの足なんてかんたんに折れてしまうだろうけど、それは一般化することはできないし、そもそもそれが問いとして成立しているかというのもあやしいわけである。空手でもなんでも、なにかを学ぶということは、じぶんにとって未知なある体系を理解するということにほかならず、たとえば試合は、その体系をどれだけ身につけているかを試す機会であるから、それにふさわしいルールが用意されている。それぞれの武術が目指しているところが仮に「真剣勝負」だとしても、「真剣勝負」そのものに体系があるわけでもないし、だからそれを試すためのルールというものも原理的に考え出すことができない。緊急事態でつかえなければ意味がない、という考えはもちろん有効だが、「そんな問いは意味がない」という考えも同様にして有効なのである。どうしてもこたえを求められたら、そんなことはそのときになってみないとわからないと、たぶんみんな応えるんじゃないだろうか。それぞれの競技が成立したときの動機は、あるいは、「真剣勝負」についての「解釈」だったかもしれない。あるものは投げを、あるものは打撃を選択し、それを掘り下げていくのだ。それを学ぶものは、その解釈を信頼して、打ち込む以外にすることはないのである。

しかし武蔵は、体系化できない「真剣勝負」をくりかえしてずっと勝利してきた人物である。これは三輪にとっての本番だった。顔面をたたかない直接打撃制が実戦で通用するの?とか、拳を鍛えていないボクサーが実戦で相手を殴れるの?とか、そういう感じの無邪気な問い、しかしいちどは考えずにいられない問いについて、こたえなりヒントなりが得られる最高の機会だったわけである。じっさいのところ竹刀だろうと木刀だろうと、あるいは傘とかであっても、剣道の達人が武器をもっていれば、真剣勝負ではまず敵なしかもしれない。しかしそれは、たとえば空手やボクシングなどの「別の体系」に信頼をよせているものが相手であるばあいだけだろう。武蔵は体系への信頼もなにもなく、真剣勝負の真っ只中に生きてきた人間なのである。すべての体系は真剣勝負についての解釈である。だとするなら、剣道は、「宮本武蔵」に学んだ体系にちがいないのである。それが正しい解釈であったのかどうかが、ここではつきつけられてしまったのだ。しかしまあ、これは相手が悪すぎるといってもしかたないだろう。これで剣道を全否定してみてもしかたない(空手は全否定されたが)。それもこれも、武蔵からしたらそうだろうけど、というおはなしである。


今回の感想というか前回のつづきだが、現実と漫画が近づきつつあるという仮説について、そういえば以前、漫画内における表世界と裏世界が近づきつつあるという考察をしていたことを思い出した。それは、絶対知的存在の勇次郎をどうやって敗北やそれに近い状態にもっていくかということの創作上の必要であったとともに、世界のパワーバランスを担う勇次郎が喧嘩をするということの結果でもあった。勇次郎が喧嘩をして、負けるかもしれないということは、世界のバランスが崩れないまでも変化するということにほかならなかった。だから、わたしたち凡人もそれを無視することができない。あるいは無視したり、無自覚でいたりしても、無関係でいることができない。大国の不況が世界に影響を及ぼすようなものだ。そうした理由で、親子喧嘩が近づくにつれて、独歩の「使用してはならない技」が公衆の面前で使用され、そればかりか「大衆の目線」を代表するものとして監視カメラに撮影されてしまったり、雷にうたれても死なない勇次郎が報道されたり、ピクルというセンセーショナルな存在がふつうに報道されたり、という具合に、凡人の住まう表世界と、バキや独歩たちが表世界の知らない技をつかう裏世界とが、少しずつ、準備的に接合していったのである。そうした流れの延長で、今度はわたしたち読者の現実と漫画が接合しはじめているのかもしれない、と考えたら、すでにそう書いたことがあった。武蔵はスカイツリーの地下366メートルで生まれた。スカイツリーはこの土地の名前である武蔵にちなんで634メートルあるということで、つまり武蔵は頂上から数えて1000メートルのところで誕生したのである。いったいなぜ「頂上から数えて」なのか。地下1000メートルとか、あるいは地下634メートルとかならわかる。頂上から数えて1000メートルということは、原点は頂上にあるということになるのだ。これを、僕は表世界と裏世界の接合が完全に達成されたと見たのであった。表を地表、裏を地下と考えたとき、原点は地表0メートルということになる。スカイツリーの高さのような数値が一種の強さの指標だとすると、もし表裏の接合が達成されていなかった場合、武蔵は地下634メートルで生まれていたにちがいない。ところが、親子喧嘩を経由して表裏は完全に合体した。もうこの世界には地表も地下もない。どちらもともに「地下」に含まれるのである。

そして、前回見たように、モデルにした架空のキャラではない「実物」の宮本武蔵が登場したことは、漫画と現実の世界が近づきつつあることを示している。そのことの意味することはまだわからないが、今回の三輪もそうだし、あるいは本部もそうかもしれない、起きていることが非常に「現実的」なのである。範馬をはじめとしたほぼすべてのキャラクターは、モデルがいたとしても、ほとんどのばあい非現実的であり、個人の蓄積や才能にかなり左右されていた、「一般化できない人物」であった。あるいは、宮本武蔵の体現する、実戦の身もふたもない「現実」が、こうした人物たちのファンタジーっぽさを剥ぎ取りつつあるのかもしれない。表も裏も、あるいは漫画も現実も超えて、スカイツリーがイメージとして象徴する圧倒的な高さを身にまとった武蔵が、それらを統合するような「現実」をつきつけつつあるのである。この「現実」はおそらく、わたしたち読者が住む「現実」ともまた異なっているのだろう。わたしたちにとっての現実もまた一種のフィクションである。漫画のフィクションとしてあらわれた渋川剛気とそれのモデルである塩田剛三、このどちらにおいても下地になっているイデア的な、これ以上個性を剥ぎ取れないような客観、こうした世界が、武蔵によってあらわにされようとしているのかもしれないのだ。

作中それに対抗できるかもしれない唯一の男である本部は、ある意味では全然特殊ではない、リアリストである。なにしろバキの強さに対抗できないからといって煙玉である。害虫駆除に火炎放射器をつかうような露骨さなのだ。こうなってみると、裏世界の代表で、もっともファンタジー的な存在である勇次郎が気にかかる。全然登場しないけど、この現状に活力を奪われてすごい老いてたりしないだろうな・・・。おもえば勇次郎とならんでファンタジーな花山薫も、刃牙道初期のころ勇次郎と同時に登場したことで、しばらく登場しなくてもいい権利を獲得したようなところがあったが、あれはそういうことだったのかもしれないなあ。





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『ハネムーン』リー・ジャニアック監督

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「ハネムーン」という映画を見たのだけど、結末が気になる感じだったので、記録のためにおもったことを書いておこう。以下かなり細かい展開や結末について触れます。もし映画を見ずに読まれるのだとしても、かなりむちゃくちゃな、荒唐無稽な仮説を展開するので、話半分、いや10分の1くらいで、映画とは無関係なものとして読んでください。


登場人物は4人、中心となるのはポール(ハリー・トレッダウェイ)とビー(ローズ・レスリー)という新婚夫婦である。こういう種類の映画ではのちのちの転落のためにお決まりの方法かとおもうが、最初うちしばらくは幸せをかみしめるふたりの充実っぷりがいやというほど描かれる。ふたりの職業等は不明だが、とりわけて裕福ということもなく、しかしかといって貧困層ということもない、ごく標準的な若いカップルで、交換不可能な固有の経験を通して深く深く結ばれており、前半のその幸福描写ではたしかに若干だれる感じもないではないが、後半の転落がこわいとか不快とかいう以前に胸の痛いものであることをおもうと、描写としては成功しているのだとおもわれる。結婚式についても、参列者のことよりまず自分たちの思い出が優先されたようで、世界が相手のみで構成されていると感じられるような恋愛に満たされており、新婚旅行にビーが子ども時代に過ごしたとおもわれる別荘が多少しょぼくても相手がいればなにも問題がない、という具合に認められていく。ビーはどうやらそこが「地元」みたいなもののようで、近所のレストランにはウィルという幼馴染が勤めていて(ビーはそのときまでそのことを知らなかった)、ウィルの思わせぶりな色目づかいが多少の不安感をポールや鑑賞者に残すことになる。レストランはウィルの妻・アニーの家族が経営しているということだが、その姿はいっさい見えない。ちなみに、ビーはこの結婚についてやっと「わたしはもうひとりじゃない」的なことをいっており、ビーの父親のことなどがはなしには出てくるものの、姿はやはり見えない。そしてこのアニーというのがまた異様であり、なにかにおびえているようでもありながら、力強くポールたちをレストランから追い出そうともする。とりあえずポールも、そして大半の鑑賞者も、ウィルのDV的なことではないかと推測するだろうが、しかしそれにしては少しへんだな、という雰囲気である。

別荘ですごすある夜、朝早く釣りに出かけようと早起きしたポールは、しかし時計がおかしくなっていることに気づき、停電かなにかがあったのかもといったん家に戻るのだが、さっきまで寝ていたはずの妻がいない。家のなかなど、徐々に不安感を強めながら探すが全然見つからない。やがてポールは森のなかに全裸で棒立ちしている妻を発見する。妻はそのことについて夢遊病だと説明するが、いまいち要領を得ない。まだなにか(たとえばウィルとの再会からの浮気とか)を疑うほどではないが、ポールはいったんそれを認めつつも違和感を覚えている。で、その翌朝から、妻の様子がおかしいことに気づく。パンをこがして平然としていたり、思い出のジョークをくちにしても反応がなかったり。妻の太ももの内側には、なにかにかまれたようなあとがあり、ウィルが噛むなんてことはないとしても、場所が場所だし、だいたい妻は森で全裸だったわけだし、さすがにポールはこれはどういうことなんだと、問い詰めたり悩んだりしはじめる。やがてポールはビーがセックスを迫られたときに断る練習をしている現場を見てしまう。あんなにあつあつだったカップルがどうしてこんなことに・・・と、胸が痛くなってくるのはこのあたりである。

やがてポールは比較的ビーの状態がよいとおもわれるとき、セックスに持ち込もうと手を入れるのだが、そこで激しい出血。生理ではない。こんな状況はふつうではなく、考えられる原因は幼馴染で妙な色目をつかってきたウィルしかない。ポールはそのままレストランに乗り込む。が、ウィルは見当たらず、顔色の悪いアニーがなにやら作業をしているばかりである。そのアニーによればウィルは「隠れている」ということであるが、ポールは血のついたウィルの帽子をそこで発見する。アニーが去ったあと、ポールはウィルの家に侵入し、監視カメラの映像をしらべて、妻が最初にいなくなった午前3時45分(おそらく別の日)、アニーもまた夢遊病者のように家を出て行ったことを知る。そしてさらに、妻が一心不乱にメモ帳に書きなぐっていたあるメモ、自分の名前や夫の名前などの個人情報を、まるで覚えようとするかのように記していたメモ、これと同様のアニーによるものをそこで発見する。

ポールは大急ぎで帰宅、もうウィルが原因だとは考えていないし、というかもう彼が生きているかどうかもあやしい。とにかく、妻とアニーは同じようにどこかに向かい、変になって帰ってきた。いったいどこへ行っていたのかと、しばらく前から続いていた深夜の強烈な光による照射なども含めて妻に問い詰める。しかし妻のこたえはやはり返事になっていない。ビーもまたなにかに葛藤している様子なのである。とにかく街にもどろう、ここを離れようとするポールだが、そのときにビーはトイレで、なにかこう錐のようなもので子宮を強く突くようなことをしていたのだった。異常なだけではなく命にかかわる、ポールはビーをベッドにしばりつけ、泣きながらいろいろと訊ね、やがて膣の奥に異様なものがあるのを発見する・・・。


ちょっと書きすぎただろうか。しかし、この記事ではかなり細かいぶぶんに触れたいので、記事一本として成立するためにこんなことになってしまった。ひとことでいえば本作はアブダクションものということになるのだろうか。ビーやアニーは光に導かれるように森のなかに無意識に出向き、「彼ら」が体のなかに侵入してしまったというのである。強い光の照射や、それっぽい場面になると電気が落ちたりすることなどから、かなりはやい段階で「これはひょっとして宇宙人オチじゃないか」と推測できる内容ではあった。それはそれでいいのだが、この宇宙人らしきものが、ほとんど姿を見せず、けっきょく具体的にはどういうことだったのかというのがほとんど不明なのである。ネットで調べてみてもそういう評価がほとんどであり、じっさい僕も、いっしょにみた相方も、「・・・これでおわり?!」となったことは事実であった。けれども、役者の力量というべきなのか、そこに至るまで描写や感情的な堆積はよくしたものであり、またなにより、最初から感じられる「微量の不安感」が、たんなる定式的な方法の呼ぶものではなく、相方を話し合った結果いくつかの暗号のようなものがあるようにもおもわれたので、こうして記事にしている次第である。


最終的に問題なのは、「彼ら」というのがなんなのかということである。くりかえすように、ふつうに見ると宇宙人のようなのだが、そうだとしても彼らがなにを目的にしてこんなことをしているのかが全然わからないのである。流れとしては、光で女性を導き、交わり、なにか異様なものが身体に棲みつく。それは引っこ抜いても取り去れるものではなく、身体すべてが時間をかけて侵されていく性質のもののようで、ビーもアニーも日に日にかさかさになって劣化していき、ポールやウィルがいなくなったあとも、彼らとの生活を復習するかのような、ちょうど忘れないように用意したメモのような行為を反復しながら、待ち合わせていたようにふたりして「彼ら」のところに戻っていく。要するにこの、夫たちのいる現実世界に戻っていた時間はなんなのかというはなしである。宇宙人がこういうことをする動機というのは基本的に人体実験だろう。しかし、なんだか知らないがあのへんなものをなかに入れて女性のからだになにが起こるのかを観察するだけなら、そしてどうせ彼女たちを手元に戻すのであるなら、返す必要はなかったはずである。とするなら、目的は彼女たちの身体に起こる現象ではなく、彼女が現実にもどることによって生じる夫との関係の変化が観察対象であったことになる。論理的にそうなる。観察するからには、どうなるかまだ彼らにもわからなかったのである。そして、今後こうしたことを効率的に行う予定があるから、「彼ら」は実験的にこれをやってみたのである。もちろん、これが「実験」ではなく、この時点でわたしたちには不明瞭な目的がすでに達成されている可能性もあるが、ひとまずはここではそういうことにしておこう。

最初に彼らがほんとうに宇宙人なのかどうか疑問におもえたのは、膣から引っこ抜いたモノがなにかこう、木の根っこのように見えたときである。ぬるぬるしてやわらかく、形状としては寄生虫とかのほうが近いのだが、端の一方が根のように枝分かれしていたのだ。ビーもアニーも症状が「進行」していたことからして、植えつけられたなにかは彼女たちの体内で成長している。もしその「モノ」に根のようなものがあるとすれば、成長の発端である中心部にあるはずである。ところが、引っこ抜いたときにはまずその根のぶぶんが顔を出していた。したがってこれは根のようではあるが根ではない。

このとき、いったんビーは縛られたまま放置されるのだが、その次の場面でなぜかふつうにベッドから出てきている。ポールがその少し前に片方の手のいましめを解いているので、それで脱出したと見るのがふつうだろうが、場面がかわるところで思わせぶりにその寄生虫的な「モノ」が動く描写があるので、あるいはこいつがロープを切ったのかもしれない。だとするなら、このモノには多少の意志がある、あるいはなにものかによってコントロールされているものである。そうすると、このモノの出てきた向きはたいして重要ではないのかもしれない。ビーのなかで複数繁殖し、かってに動いている可能性だってあるのだ。じっさい、ポールは特にこれを引きちぎったという感じではなかったにもかかわらず、彼女の侵蝕がやむことはなかったのである。


この印象に加えて、物語冒頭では妙に「緑」ということばや色が頻出する。幼いビーが潜水艦ごっこでおぼれかけたという風呂場は緑の浴室と呼ばれており(ちなみにポールは水が苦手なのだが、溺死する)、そんなビーやポールはやたらと緑の服を着ているのが目につく。

もうひとつ目につくのは、生き物についてのビーの対応の変化である。父親がしとめたという大きな熊の毛皮を見ているとき、ビーは小さいとき素手でカエルを殺したことがある、というようなはなしをする。しかし変化後、覚えていないということもあるだろうが、カエルをつかまえてふざけるポールにビーは不快そうな顔をする。また妻の変化に参ってしまい、アリをいじめていたポールを妻が咎めるという妙な場面もある。そしてビーは、釣りの餌にするミミズについて妙な親近感をもってこれを針につけている。生き物が、たとえば魚を食べるというような状況で、その生命の自然として接する限りでは問題はないが、わるふざけのようなしかたでは、ビーはこれを好まないようになっていくのである。

こういうようなことをふまえて、「彼ら」というのは宇宙人というよりは、あの森に住む、なにかこう、ロード・オブ・ザ・リングに出てきた森の番人、エント的なものではないのかと、そのように我々は想像したわけである。もちろん、これではあの、いかにもUFO的な照射とかはぜんぜん説明できないわけだが、かわりに暗号としかおもえないこれらの描写のつじつまも合うようにおもえるわけである。

仮にそうだとして、彼らはビーたちを一時的に放置することでなにをしたかったのだろう。ビーは内面に「ほんらいのじぶん」と「コントロールされているじぶん」をかなりぎりぎりのところで拮抗させているようで、どこまでが本音でどこまでが操られているのかさっぱりわからないようになっている。そして、邪魔になったポールは始末される、いずれ排除されるとして、彼を守るために隠さなくてはならない、という動機で、彼にいかりを結んで湖に沈め、結果殺してしまう。細部は不明だがどうもアニーとウィルにおいても同様のやりとりがあったようである。ここから推論できることとして、排除する云々というのは、できるかどうかはともかくとしても、「彼ら」からすれば脅しなのである。おそらく、ポールやウィルは妻たちの手によって守られ、隠されることによって死ななければならなかったのである。というのは、彼らが愛し合っていたからである。彼らが自然の番人であるなら、自然の理を超える行動に出ることはない。そしてポールとビーの愛情関係は自然の理であり、彼らは「愛情関係の延長で」崩壊してもらわなければならなかったのである。とりあえず彼女たちが泳がされた理由としてはいまはそれしか思いつかない。


そして、もうひとつ気になるのは「子宮」である。変化の起こる前、物語のかなり最初の段階で、ポールが子宮にかんするジョークをいったとき、ポールがちょっとびっくりするくらいビーは気分を沈めてしまう。新婚ほやほやで、いまはまだ子どもとかそんなことは考えたくない、という理由だったわけだが、この段階でこういう場面があるというのはいかにも暗示的である。また、寝室には中身が空洞になっているカモの置物があり、そのなかには幼いビーが記したとおもわれるカモのことば、じぶんはニセモノのカモだから勘違いしないで、というようなことが書かれた紙が入っている。「中身が空洞のニセモノ」というのは、まさしくその後のビーのことなのである。こうした点について、ふつうの批評の文脈であれば、子を宿すなりして子宮を意識したときの身体の疎外感、というようなはなしになるかもしれない。僕は男なので生涯その感覚を味わうことはないが、妊娠が(不如意であるという点で)他者を身体に入れるということであるのはまちがいないだろう。妊娠した女性はその感覚に多かれ少なかれ対応していかなければならない。いずれにせよ、少なくともビーは、ふたりのあいだに他者が介入することは現段階では望んでいない。だから、そもそも子宮について考えることを望んでいない。そのようにして、ただのジョークにすぎなかった「子宮」ということばのつかいかたに過敏に反応してしまったのである。ところが、変化を経て、ビーの子宮および皮膚の内側には文字通りの他者が侵入することになった。なにかとがったもので陰部を突くビーの動作は、変化前のビーの行動と見ていいだろう(その流れでいえば、そうした変化への嫌悪感からセックスを拒み、そのための芝居の準備までしていたことも、「彼ら」によるコントロールというよりは一瞬正気に戻ったビーの理性がさせたものと見てもいいかもしれない)


ビーとアニーへの侵入がほぼ同時になされていたことを考えると、「彼ら」というのは「来訪者」である可能性が高い。ウィルもアニーも地元の人間なのである、もし「彼ら」が森の者だとしたら、もっと以前にそういうことが起こっていたにちがいないのである。しかし以上のような細部が、なにかこう、「地元の呪い」のようなものも感じさせるのである。ウィルもアニーも地元の人間なわけだから、けっこう前から面識があったはずである、ことによると結婚して数年たつという状況かもしれない。しかし子どもはいない。あるいはアニーにおいてもまだ身体の疎外感を受け入れる準備ができていなかったのかもしれない。そして、両家とも両親の気配がまるでない。こうした条件が整ったときだけ、おそらく彼らは動くのである。というのは、くりかえすように彼らにはどうしても自主的に破滅してもらわなければならないからである。「愛情のみ」によってすべての行動を規定されているようなふたりでなければ、夫を守るために湖に沈めるというようなことは起こらないのだ。そして疎外感である。なにが目的か知らないが、あの異様なものを子宮に入れるにあたっては、むしろ妊娠経験者のほうが都合がよさそうな気もする。しかし事実は反対となっている。とすればそうでないほうが都合がよい事情があったことになる。それはなにか。

妊娠の結果、他者をおなかのなかに宿し、それを受け容れるということは、つまりそれと共存するということである。共存するということは、その他者とともに「わたし」じしんも、わたしの意識を離れることなく、全体が「妊娠」という状況によって疎外されることなく、自存していくということである。子宮を意識しつつ、他者を宿しつつ、「わたし」を見失わないような妊娠経験者は、当然じぶんの名前や夫の名前を忘れたりはしないのである。そして、そうなってもらわなくては、彼らとしても困るわけである。互いに冷静に対応されて、では街の病院にいこう、なんてことになってはいけないのだ。


くりかえすように「彼ら」の目的はやはり不明である。しかしもしこれがまだ「実験」段階だとするなら、目的が不明瞭でもしかたがない。たとえば森の番人たちが、自然を破壊する人間たちに怒り、乗っ取ってやろうと考えたとして、まずこんな不器用な方法をとってみたのかもしれない。もしこれが最初の試みだとしたら、手順が拙くても不思議はないのだ。そして、なにゆえカップルの自然崩壊を望むのかというのも、「まだ実験段階だから」というのはけっこう強い理由ではないかとおもう。彼らとしても人間がどう出るかよくわからないのである。だから、近親者が見当たらず(ということは行方不明になっても騒ぎがそれほど広がらず)、愛情のみに生きている(ということは愛情によって滅びる)いきのいい若者が必要だったのである。


というところである。われながらよくこんな根拠のないてきとうなことをぺらぺらとかけたなという感じだが、最初に書いたとおりこれはぜんぶ思いつきの妄想なので、あんまり真剣に受け止めないでください・・・。




『うちの妻ってどうでしょう?』福満しげゆき

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うちの妻ってどうでしょう?(7) (アクションコミックス)/双葉社
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福満しげゆき先生の『うちの妻ってどうでしょう?』が7巻で完結となった。

といっても、ずっと追ってきたというわけではない。だいたいはじめて読んだ福満作品が『就職難!!ゾンビ取りガール』で、これが2年前のことなのだ。



ゾンビ取りガール1巻感想

ゾンビ取りガール2巻感想



ゾンビ取りガールはもちろん最高の漫画だが、その後『中2の男子と第6感』という、変わったテイストの漫画も発売され、結果的に福満作品を読み続けていくことにはなった。『うちの妻』は『僕の小規模な生活』同様、公平にみて代表作といってもいい雰囲気であったし、「妻」らしき人物もかわいいしということでいつか読もうとずっと考えてはいたのである。で、今回の新刊で完結となっていると知り、1巻から読み始めたのだ。のんびり読んでいこうとおもっていたが予想以上におもしろく、あっという間に6巻まで到達し、読み終わるのがあまりにもさびしくて7巻を寝かせていたほどである。


僕のようにゾンビ取りガールや中2男子のようなフィクションからこのひとに入ったひとがどれほどいるか知らないが、これ以前、つまり「うちの妻」や「僕の小規模な」は、かなりのぶぶん作者の体験にもとづいたエッセイ漫画という体裁になっている。というのはむしろ慎重な書き方で、明治時代の自然主義の作家たちが「あるがまま」を書くことはほんとうに可能なのかと挑戦し続けたようにして、漫画になっているという点でそれは体験そのものではない、という点を踏まえているだけのはなしであって、現実的ないいかたをすれば「うちの妻」はまぎれもないノンフィクションなのである。自然主義を持ち出したのはたまたまではなく、読み始めた当初はほんとう、こんなことまで漫画のネタにしてしまっていいのかというくらい私生活を掘り返して、愛らしい「妻」のある意味ではみっともない姿や、じしんの愚痴ぐちと粘着的な性格まで自虐的にさらすのは、これはまるで自然主義ではないかと強く感じたのである。ことばのもたらす感触の問題として、「私生活をネタにしている」どころの掘り返し方ではないのだ。たとえば僕は、本名はもちろん、顔も声もすべて隠して、匿名でこうしてあることないこと書いているわけだが(といっても私生活から離れているというわけではなく、仲のよい知人には教えているし、聴かれればブログの存在を教えるのに吝かではない。ただネット上に僕の本体を置きたくないというだけのことである)、その延長の感覚としては、部屋にカメラを設置して実況中継しているような感じだろうか。出来事すべてを描いているわけではないのだからそれはおおげさなわけだが、程度のちがいはあれ、日々ものを書いている感覚からすると、そのくらいのものにはおもえる。

その暴露される私生活にしても、なんというか、ひとがフェイスブックなどに若干の創作とともに公開するようなきらびやかなものでは決してなく、本人の自虐的な性格も関係して、「かっこいい」ものでは全然ない。表面的にいえば、ゾンビ取りガールに感動して福満しげゆきに入ったような人間からすれば、こうした「私生活」は衝撃的であってもいいはずである。それがそういう感覚が少しも起こらないというのは、あのようなフィクションからして、福満先生(とその生活スタイル)でなければ描けなかったようなものであった、ということなのだろう。僕は、ゾンビ取りガールのようなフィクションを読みながら、実は福満先生の性格や私生活、妻の愛らしさなどにも、たぶん無意識のどこかでとっくに気づいていたのである。そういう表現方法というものはだいたい肉体をけずるようにして確立されるものだ。フィクションであろうとノンフィクションであろうと、このひとのばあい、作品と生活が信じられないほど距離が近いので、なにかこう、筋肉的に具体化していくのである。たぶんずっとそういう描きかたをされてきたのだろう。もちろんどんな漫画だって、どんな仕事だって、相応の消耗はあるにはちがいないが、福満先生のばあいはもう一種の才能として、体温や呼吸や、身体の具体的なぶぶんが駆使されていくのである。おもえばあのゾンビを捕獲するさすまたみたいなやつとか、いやに具体的に、いろいろな状況を考慮しつつ設計されていたが、あれは要するにゾンビファン誰もがやってしまう「シミュレーション」の結果だったのだ。ゾンビファンというのは、住んでいる家はもちろん、どこかお出かけをしても、いまこの瞬間ゾンビパニックが起こったらどう行動するか、と考えることを至福としているのである。だからなんでもモノがあるショッピングモールは大好物で、そこでどうやってゾンビの群れを食い止めるか、どうやってたたかうかというのを常に考えているのである。たぶん、男の子だったら少年時代に経験しているかもしれない「秘密基地」的なものを築く感覚が、モールにたてこもるものと似ているのかもしれない。崩れた秩序の内側に小さな新しい秩序を構築する快感である。というわけで、あの器具を考案したのはまぎれもなく福満しげゆきだったのである、と書くと当たり前だが。


ゾンビ取りガールの記事で考えた独特の吹き出しの使い方だが、「うちの妻」を読みきってみて、これは妻とのコミュニケーションが生み出したものなんではないか、というふうにも考えた。ここでいう独特の吹き出し、というかセリフ表現というのは、さまざまにあるセリフの音量の段階がアナログであるということだ。ごく単純にいって、吹き出しのなかに書かれていることばは、その人物によってじっさい発声され、空気をふるわせているものである。漫画のことばの表現にはほかにもいろいろなものがあり、たとえば吹き出しがだんだん大きくなっていくように連続していくあの表現で心の中でおもっていることが書けるし、4コマ漫画とかで多用される表現では吹き出しを用いず手書きで、やや雑に、展開にはそれほどかかわらない独り言的なセリフが描かれたりする。コマの内側にはほかにも効果音とか神の声的なナレーションとか、いろいろな文字が躍っているが、ただそれらはどれも、その言葉が「どの段階」にあるものかほとんどの場合明確になっている。つまり、ふつうの吹き出しに書かれている文字はじっさいに発声されているし、手書きの雑な文字は発声されてはいても独り言に近く、そばにいるものにメッセージとしては届いていない、あるいは届いていなくても問題がないものとして書かれているのである。ところが、福満作品の文字はその差異がアナログで曖昧なのである。もちろん、指をさして、「このセリフは相手に届いているか?」という具合に点検していくことは可能だし、それで「段階」を決めていくことは難しくない。というか、たぶん読みつつ僕らはそれを無意識に行っている。で、ゾンビ取りガールの記事で考えたことだが、人間の会話というのは実際そうなのである。誰もが舞台のお芝居のようにはっきりと明瞭に発声するわけではないし、誰もが映画のように交代に行儀よくしゃべるわけでもない。現実ではドストエフスキーの小説みたいにひとりの人物の何時間にもおよぶ演説を微動だにせず、ひとことも聞き漏らさずにいるなんてことはありえないし、独り言として雑な発声で空気をふるわせたものをその場にいる全員がきちんと独り言としてあつかってくれるとは限らない。人間の会話、というか発声には「段階」などないのである。


そうした会話のリアリティみたいなものが、意識しているのかいないのか、非常に独特な絵柄とともにこの作家の個性になっている、というのが当時の感想だったのだが、これがおそらく妻とのやりとり、そして作家じしんの愚痴っぽい性格によるものだったのではないかと考えたわけである。愚痴というのは要するに「いってもしかたないこと」である。それを芸にしてしまうというのは才能というほかないとおもうが(皮肉ではありませんよ)、ともかく、いってもいわなくても同じこと、あるいは、多くのひとがいいたくても我慢していること、そういうのが、愚痴の本質なわけである。アカムトルムを討伐したばかりのハンターが、帰ってくるなり「おばあちゃんの住んでいる村の近くにクシャルダオラがあらわれたらしい、いま動けるハンターはあなたしかいない、どうか討伐に行ってくれ」ときれいな女の子に懇願されたら、(いま帰って来たばっかりなんだけどな・・・)と思いつつハンターは出かけていくだろう。この()内が愚痴にあたる。「いま帰って来たばかり」ということを口にしてもしなくても、ハンターはひとりしかいないのだから、じぶんが行くしかない。つまり、言ってもしかたがない。ひととして、このきれいな女の子の頼みは無視できない。かくして、じっさいの会話ではこの愚痴はあらわれてこない。漫画表現においてもこれはせいぜい、吹き出しがだんだん大きくなっていくあの表現で描かれるくらいである。ところが、愚痴を芸とする福満作品ではこれはまちがいなく発声される。「うちの妻」では「愚痴パート」と「妻パート」があって、愚痴パートでは作者が背中を向けて独り言を言い続ける、という方法がとられているが、そのようにしておそらく、「いってもしかたのないこと」(だけれども誰もが実は考えていること)が「段階」も曖昧なまま発声される、という方法が育まれていったのである。


そして「妻」である。表紙しか見ていなかったそれまでのイメージだと、この妻はあんまりしゃべらないんではないかというところだったが、方言丸出しでよく快活にしゃべる。この奥さんが非常に個性的な愛らしい人物で、家のなかということもあって、毎日毎日ちょっと微笑んでしまうようなことがひっきりなしに起きているようである(個人的にはこの「妻」が相方に似ているぶぶんがあって、そのあたりも引き込まれる要因となった)。福満先生もまた非常に個性的な人物であるのはもちろんだが、加えて「うちの妻」は漫画作品であり、先生の仕事の結果である。つまり、妻とのコミュニケーションそれじたいが口に糊する方法になっているわけで、自覚があるのかどうか、ふたりはちょっとうらやましくなるほどよく向き合い、殴りあったり無視したりしながら生活しているのである。キャラクター化されているとはいえ妻はじっさい魅力的な人物でもあり、妻が何をいったか、今度はなにをしたか、読者としては期待をせざるを得ない気持ちになっていき、作者としてもそのことは自覚しているようだった。自然と、福満先生はふつうの夫婦以上に妻を観察する日常を続けてきたはずである。ただでさえおもしろい人物であるのに、それが生計をたてる手段となれば、その観察はより真剣になっていったとしても不思議はない。後半、子どもがふたり生まれて、ふたりの関係はまた微妙に変わっていくのだが、はじめのうちはことばらしいことばを話さない子どもというのは、いま考えている会話の「段階」という意味では、むしろこれを解除する働きをすることだろう。子どものことばほど意味があるのかないのか考えてもしかたない言葉はない。そうでなくとも、夫婦ふたりのばあいでは、家のなかに相手しかいないわけである。それが独り言であれ、「愚痴」であれ、自然とすべてあて先を抱えたメッセージ、漫画表現でいえば「発声された言葉」になっていく。かくして、「段階」は漂白されていった。「うちの妻ってどうでしょう?」という漫画を描き、妻を観察してネタを探す先生にとっては、それが喧嘩の罵り文句であっても、独り言であっても、すべて発声され、漫画のうえに文字としてかたちになるべき言葉にちがいないのである。


ゾンビ取りガールはいまどうなっているのか知らないが、設定が非常にそっくりなドラマが放映されたことで、モリタイシをはじめとした大勢の漫画家を議論に巻き込むかたちで、おもにツイッター上で問題になっていた。そのことは涙まじりに完結7巻にも記されている。ゾンビ取りガールは、それまでになかった日常のなかのゾンビ漫画であり、革命的という激しい形容は似合わないが、ともかくこれまで見たことのなかった種類のゾンビ作品であったことはまちがいない。映画だと「ゾンビーノ」みたいなのもあるが、あれにしたって、人間が機械でそれを制御する方法を見つけたからそうしたゆるい展開が許されていたのであって、自然死の老人や病人がゾンビ化するということが必然的に呼び出したあの設定は、まぎれもなくオリジナルだった。それと、偶然にも、同じ設定のドラマが放映されるというのは、アイアムアヒーローなどの成功を横目で見ながら悔しがっていた先生からすれば、無念すぎる事態なのである。別に僕は先生をずっと追ってきたというファンではないので、同情などおこがましいはなしだし、マヌケな責任感みたいなものがあるわけでもないが、しかし僕があの漫画に感激したことはまちがいなく、「うちの妻」が好きな漫画のひとつとして新しく脳内に登録されたという事実は揺るがない。これからも福満作品は追っていくし、(新参のファンとして)記事にもしていきたい。とりあえず次は小規模な生活を読んでみようとおもいます。





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今週の刃牙道/第73話

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第73話/実力






今週はバキも本部も登場しないが、扉絵はどアップの本部とバキである。煽り文句は「大誤算・・・ 本部以蔵は強かったッッ!!」というものだ。前回もその前も出ていなかったおもうが、本部の強さがたまたまとか、一時的なものではないということを示すだろうか。本誌特典にバキのしおりがついてるのだけど、バキ、勇次郎、烈、花山、武蔵に並んで本部のやつまである。この面子に並んじゃうってすごいな。サイヤ人のなかに亀仙人が混ざっているような違和感。引き続き本部が最重要人物であるということにかわりはないらしい。まだ上手く納得できないが、そのうち、気づいたらいつのまにか板垣先生に説得されているのだろう。


武蔵が警視庁で剣道の全日本4連覇の三輪と対決したのだった。剣道の試合で行われる攻防は、動体視力をはるかに超える速度なのだという。ということはつまり、剣そのものを目でとらえてよけたりうけたりすることはできない。動きの起こりを読んだり、反復練習でパターンを学んだりして、からだがかってに動くようなレベルまで鍛錬を積まないと、反応できない。三輪はその剣道の最高位にある。彼からすれば武蔵は素人らしい。剣道、つまり竹刀のあつかいにかんしてはということである。オーラはたしかに半端ではない。どうやらほんとうに「宮本武蔵」らしい。けれども剣道は、2キロの鈍重な刀を振り回す世界ではない。可能な限り刀を軽量化することによって速度を手にした、進化系なのである。三輪は緊張しつつも自信があるようだ。しかしどうだろう、三輪や内海は武蔵に剣道のルールについて説明したのだろうか。今回のこの勝負は真剣勝負だったように記憶している。なぜ三輪は、武蔵が「剣道」をするものと思い込んでいるのだろう。たしかに、竹刀では軽すぎて、慣れるまでのしばらくのあいだ武蔵は上手くつかえず、三輪の独壇場となる可能性はかなり高い。しかしそれは、剣道の約束において竹刀を用いたときだけのはなしだろう。ただ、刀ではなく竹刀をつかってやろう、という点だけが同意事項であり、それ以外は特になにも決めていないんではないかとおもわれるのだ。だから、極端なはなし、それこそいきなり煙玉をつかったって、それがダメだという約束でもない限り、無効にはならないはずだ。


じっさい武蔵はオーラを失っているらしい。ほんらい刀を装備して発揮される闘気のようなものが、竹刀をもたされてそがれているというところだろうか。しかしそれで喜ぶのはやはりなにかちがう気がする。くりかえすように前もってルールの説明をして、約束をして試合をするのならそれでもいいのだが・・・。ものすごくあたまのいい物理学者がいて、ある哲学者がそれをどうしても認められず、文芸誌か思想誌か、そのへんのじぶんの土俵の雑誌で対談を組んで論破してやろうと目論んだとする。文芸系の雑誌なので、思弁的で抽象的な議論が当然行われるとなぜか哲学者は思い込んでいて、「この世界が巨大な雀卓のうえに広がっているものだと仮定しよう」という感じで議論をはじめたところ、「そんなことは科学的にありえない」とかなんとかいって物理学者がそれのありえなさを科学的に証明してしまった、みたいなちぐはぐな印象を受けるのである。ってたとえが下手すぎるか。


結果は前回描かれた通りだ。てくてくと無防備に接近する武蔵に逆に三輪は戸惑い、もたもたしているうちに武蔵はそれを振りかぶってしまい、あわてて三輪は竹刀を横にしてガードしたが、武蔵のひとふりは三輪の竹刀を砕くとともにあたまを叩き、さらにそこから折れ曲がって鞭のように背中までしたたかに打ってしまったのである。三輪はあたまや背中を痛がりながら悶絶、あたまから地面に落ちて気絶してしまった。

武蔵はいちおう竹刀を「よく出来ている」とほめてはいる。つまり、竹刀の存在意義というか、それが模擬刀であり、技術面の鍛錬のためにつくられたものであるということを理解しているのだ。さすがにそれを日本刀や青龍刀に並ぶような武器とはとらえていないだろう。それならほめることはない。空手の稽古でも、全体の半分くらいは、基本稽古や移動稽古など、ひとことでいえば素振りの稽古に時間が費やされる。突きにかんしていえば、けっきょくはものを押す動作なので、上腕三頭筋や大胸筋がつかわれることになるが、素振りではこの筋肉は稼動しない。なにか重量のあるものにぶつけて、抵抗を経験しないと、威力などの実践的なぶぶんでは伸びることはない。けれども、素振りじたいにはもちろんそれ固有の意味があるわけである。動作そのものを身体に刷り込むとか、そこから連動する運足とか、そういう文字通り基本的なことを、抵抗ぬきに身につけるのがそうした稽古なのだ。そうした意味合いで、刀が軽くても非現実的ということにはならない。武蔵もおそらくその意味で「よく出来ている」といっているのだろうとおもわれる。こんなに軽い模擬刀があったら、稽古の前半でつかってもいいくらいおもっていても不思議はない。そして、そこに「これではな・・・」と付け加えるのは、おそらくそれが稽古のオプションではなく、全面的なものになってしまっている点について気づいたからだろう。要するに、三輪がどれだけ竹刀で研鑽を積んでも、相手の竹刀ごと頭を砕いて鞭のように折ってしまうような武蔵の振りに到達することは決してないのである。剣道は競技なので、それでいいのだが、前回書いたように武蔵は競技がそれとして成立する以前の世界の住人なのである。


武蔵はこれで内海との取引が終了したものと見做す。帰っていいなと。しかし内海にはまだカードがあるようだ。なんだかわざとらしく、達人・渋川剛気が道場にやってきたのである。内海が呼んでいたようだ。

達人は武蔵のほうを全然見ないが、武蔵はなぜか渋川の立ち居振る舞いに衝撃を受けている。久々に良い姿を見た、と。




つづく。




良い姿とはなんだろう。白川静によれば、「姿」とは本質的には女性の「すがた」のことをいうようである。「次」という字が、ひとがくちを開いて嘆く形を示しており、特に女が嘆くすがたをこう書くのだと。女の嘆く姿はしなに富む。そうして「姿」は女の行為として示されると。(平凡社『常用字解』より)

たしかに「姿態」などというときはたいてい前に「なまめかしい」というふうにつくが、「雄姿」のような使い方もある。慣用的には、「女の姿」という直接的意味合いはかなり薄れてはいるだろう。しかし、おそらくここでは「女の」というところが重要なのではない。女が示し出すような「なまめかしさ」、これが「姿」の本質なのである。

姿態のなまめかしさというのはどういう状態のことをいうのか、難しい問題だが、ひとことでいえば一義的ではないことを指すかもしれない。「なまめく」を辞書で引くと、未熟のように見せかけて実は心用意がある、というようなことになっている。まず、そもそも、白川静にしてからがまるで自明のように書いている「嘆く女のあだっぽさ」というものがどのように発生するものかというと、おそらく、屈服したり懇願したりするしぐさを通して必然的に示される「弱さ」のようなものが、じつは生物としては矛盾であり、解釈の複雑なものなのである。みずからの「弱さ」そのものを結果的に「強さ」に変えてしまうものというと、とりあえず子犬とか、あと赤ん坊とかが思い浮かぶ。赤ん坊は、あまりにも弱々しく、あまりにもかわいらしいので、周囲にいる多くの「強い」大人を瞬時に味方につけることができる。それらはたぶん、彼らの生きるすべのようなものなのだろう。しかし、「嘆く女」はそうではない。彼女たちは選択してそのしぐさをとっている。それが、多義的であるという点で「あだっぽい」のである。弱くふるまう女の「弱さ」そのものに愛らしさを感じても、ひとは「なまめかしい」「あだっぽい」とは感じない。「弱さ」に何層もの意味が感じられるからこそ「なまめかしい」。『300』や『シンシティ』の続編に登場した、最近映画界では熱い存在であるエヴァ・グリーンがよくそういう役を演じているが、「なまめかしい」というのはああいうありようのことをいうのである。エヴァ・グリーンが純粋無垢な、処女のような存在だとは、じつは騙されている男じしんもおもってはいない。あるいは、おもってはいてもじぶんで気づいてはいない。男たちは「(どこかで)わかっていて」だまされるのである。





武蔵がどういうつもりでそういったのかはまだわからないが、とりあえず「姿」にはそういう含みがある。そして、以上のようにむやみにすすめた考えは、けっこう正しいのではないかともおもえてくる。達人のふるまいは、「歩く→右足を前に出す」「殴る→右拳を突き出す」というように算数的な、直線的なものではないのである。じっさい、道場に入ってきた短い動作だけ見ても、達人のふるまいは興味深い。彼もまた動画で武蔵を見て以来、気になって気になってしかたがなかったうちのひとりなのであり、なにかじぶんのこれまでの積み重ねを否定されたような気分にもなっていたのだった。内海からどこまで聞いているのかわからないが、そうでなくても達人には例の「究極の護身」がある。あまりに相手が強大だと、身体がみずからを守ろうとして達人に幻覚を見せ、道に迷わせ、どうにかしてたどりつかせないようにしてしまうのである。達人は道場にいるのが武蔵だと、絶対に気づいていたはずだ。仮に気づいていなくても、あんな異様な風貌の男が倒れた剣道着の男のそばに立っていたら、瞬時にいろいろおもいをめぐらすのが自然だろう。しかしそうしたことは全然おもてに出さない。「なんにも気づいていないふりをして、実はすべてを理解している」のである。これすなわち「なまめかしい姿態」である。

愚地独歩も登場人物のなかでは実戦派であり、数々のある意味卑怯な手をつかうが、それが「方法」にとどまっているぶぶんがあるにはある。目的と行動がくっきりとした太線で結ばれているような、達人に比べればまだ直線的な卑怯さなのである。しかしおそらく渋川剛気ではそうしたふるまいはもはや身体化されている。それを武蔵は感じ取ったのではないだろうか。


しかし、もしそうだとしたら、達人の身体に宿っている「複雑さ」はすでに「なまめかしさ」として読まれてしまっていることになる。たしかに、そうした多義性を姿勢に宿した武術家の歩みは、素人にも伝わるような美しさをもっているものかもしれない。それを美しいと感じたからといって、素人にそれをさばけるわけではないのだ。しかし武蔵はその美しさを明らかに「評価」している。美しさにものさしをあてがって程度をはかっているのだ。これは素人が達人のものものしい、あるいは軽い動きを見て圧倒されるのとはわけがちがう。まあ、武蔵は読み誤りもけっこうあるし、達人とは相性がよさそうな気がするので、案外いい勝負になるかもしれないが。





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『戦争画とニッポン』会田誠/椹木野衣

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■『戦争画とニッポン』会田誠/椹木野衣 講談社






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「日本絵画史から抜け落ちた「戦争画」とは何か。会田誠と椹木野衣が真摯に考え、語り尽くした熱い記録。今、見るべき戦争画とは」Amazon商品説明より




美術には不案内なもので、マグリットのことは知っていてもとりわけ日本の美術家となると右も左もわからないということになるが、以前ミヅマアートギャラリーの三潴末雄の本を読んだときに触れられていた何人かの画家のうち何人かを記憶していて、しばらくのあいだツイッターをやっていないかとかブログをやっていないかとか調べていた。導き手がいないので、そういう方法しかないのである。会田誠はそのときにフォローした人物だった。フォローしたからどうということはないが、無縁の世界の人物がひとりでもタイムラインにいれば、よくわからないこともある意味ノイズとして意識にのぼりやすくなる(可能性がある)のである。そもそもあの三潴末雄の本が、もっと批評のことばが、ひとびとに作品を開くものとして、また作品と並存できるようなしっかりしたものとしてなければならない、という考えのもとに書かれていたので、「気になる作家」というとそれはまあ記されていた全員ということになるが、とりあえずあっさりネット上でつかまったのが会田誠だったというだけのことである。本書においても会田誠の戦争画がいくつかカラーで掲載されているし、ミヅマの本にも白黒で載っていたように記憶している、が、ということは触れてもいないも同然であるので、要するに位置としては、くわしいひとからすすめられたある作家、というところだ。あの本では村上隆と表裏をなす日本を代表する現代美術家ということだったはずだが、いわれてみるとこの字面には見覚えがあった。最近幻冬舎から文庫が出たし、どちらもフォローしていながら僕は知らなかったのだが、もとAV女優で『アラサーちゃん』で一世を風靡した峰なゆかとツイッター上で誤解からひと悶着あったらしく、アラサーちゃんの最新刊巻末で対談したりしている。こう見るといま会田誠熱みたいなものが世間には起こりかけているのかもしれない、などと感じるものだが、こういうことはよくあるので、たぶん僕自身が会田誠をあるぶぶんで気にして生活するようになったので、結果として目に付くようになったというだけの可能性もある。筋トレをしっかりやるようになったら雑誌とかの筋トレ特集がやたらと目に付くようになり、なんか筋トレが流行っているような気分になるのと同様である。いや、筋トレはじっさい流行ってるか・・・。






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三潴末雄の批評を読んだ印象ではなにかひねくれたような、世界をある意味では駆動する毒素とか、本書でいうところだと戦争画から会田誠が感じ取っていたという「暗い叙情」とか、そういうようなものがあった。ビデオ作品なんかもあるようで、ふざけてるのかなんなのか、疲れてるときとかにみると不快にしかおもえないようなたぐいの、いってみれば意味不明な作品もあり、ひとを食ったような、なんていうのかな、高橋源一郎的なぶぶんがあるようだったのである。しかし意外というと失礼だが、ツイッターにしても、批評家の椹木野衣との対談形式である本書にしても、まず聡明さの感じられる知的な人物であって、しかもそこに教養主義的なものがいっさい感じられないのが非常にうれしい(あるいは、対談は当然「ことば」で行われるので、当の「ことば」をつかって美術にかかわる批評家への遠慮があったのかもしれないが)。いっぽうでは言葉選びに独特なものもあり、中毒性がある。もちろん、第一線で活躍する美術家と批評家の対談であるから、用語も含めて、テレビを見るようにすんなり理解できるというふうにはいかなかったが、それでも身体に基づいた日常のことばで会話をしているという感覚があって、初学者の僕にはそこがありがたかった。最近では東京都現代美術館に出品した作品が、1件のクレームにより撤去されかけた、というような件もあり、ツイッター上ではなかなかの騒ぎになっていたが(この件は無事解決したようです)、そういうのも、傍目には、つまり僕レベルに物事をよく知らないものからすれば、会田誠が無責任に「そういうやつ」に見えたとしても不思議はないわけで、じっさい作家自身にもたしかにそういうぶぶんはあるようである。しかしただ奇を衒ったひねくれものというものでも無論なく、だいたい美術というのはそう単純でもないのである。


そしてそれは戦争画についてもいえることである。いま戦争画についての本が出されるというのは、もちろん時代的雰囲気を考慮してのことだ。そういえば今月の美術手帖でも戦争画特集をやっていた。とりあえず僕が生きてきた30年間で、これほど戦争について多くのひとが話題にしたことなんていちどもなかったとおもう。しかし、もちろん対談するふたりにはそれぞれの考えがあるとはおもうが、とりあえず戦争画にかんする話題では「戦争」ということばの含むものから転じてひとこと「平和」とか、あるいは「地政学」とか「国防」とか、そういう向きにはならない。というのは、すすんでであれしぶしぶであれ、国からの要請で「聖戦」を記録してきた戦争画が示すものは、そんなたんじゅんな物語ではないからである。かといって戦争画が芸術作品のいちジャンルであり、背景を無視してそれじたいの魅力を見出すことが、可能か不可能かといえば可能である、というようなはなしでもない。あとがきにおける本書作成の感想では、ふたりともべつべつのことを書いていながら、じぶんだったらどうなるか、いまの時代だったらどうなるか、という点では一致している。じっさいに作品をつくる側である会田誠からすれば、仮にいまから戦争が起こったとして、そして要請があったとして、果たして描くだろうか、という想像が起こるのは当然のことだし、椹木野衣では、戦争の勝ち負けによって、どうあれ戦争画の価値はかわってしまう、いま行っていることがどういう意味をもつのかというのは、「今」の時点ではわからない、というふうに述べている。帝国陸軍の勇姿を描くといっても、描き方はひとそれぞれで、人柄や背景にあったかもしれない政治的スタンスなどが見えるのも興味深いが、それよりもいまわたしたちが戦争画を見るのは、そこに会田誠のいう「ねじれ」があるからだろう。戦争の時代はたしかにひどかったし、もう二度とくりかえしてはならないことはまちがいないとしても、それを描いた戦争画にはたしかに「暗い叙情」がある。加えていえば、おそらく当時の描き手からして、国の意向を完全にコピーした写生マシンになっていたわけではなく、そこにもまた多少なりともねじれがあったはずである。鑑賞にあたって背景への深い理解を必要とするという点で、あるいは通常の美術作品以上に導入の難しい領域ではあるのかもしれないが、そのとき絵描きたちはどういう気持ちでいたのか、そして現在の絵描きたちは同じ状況になったらどういう行動に出るのか、そういうことを考えるうえでは、決して無視のできる世界ではないのである。


薄いわりに本体2000円という価格設定なのは、カラーの図版が非常に充実しているためだろう。大きい作品だとページをまたぐことになるので、ハードカバーの画集を見るようにはいかないが、色もきれいだし、それでもじゅうぶんな価値があるとおもう。そして、初学者の僕として大きな特色としてあげたいのが、巻末に掲載されている、対談者ふたりによる作品解説である。対談にあまりとりあげられなかった作家についても触れられているし、作り手と、ある意味ではプロの鑑賞者である批評家の両方からそれぞれの絵についての短いが含蓄に富む解説が読めるわけである。批評家はもちろん批評的にそれを読むし、美術家は同業者らしい見方を当然することになるから、それぞれ全然ちがった感想になっていて、僕にとってはたいへん勉強になった。特に会田誠は、こんなに一流の画家であるのに、衒学的だったり上から目線だったりすることがまるでなく、身体に基づいた血の通った感想という感じがして、なにかホッとする。ちょっと調べただけでも行っていることが奇抜すぎて面食らうが、このひとの展覧会はいつか行ってみたいなと感じた。





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今週の刃牙道/第74話

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第74話/友人(ダチ)





剣術の進化系である剣道を、技術体系の外側、真剣勝負の現場から獲得したふつうではありえないふりで圧倒する宮本武蔵。しかし武蔵を警視庁に招いた内海警視総監が用意したのは剣道だけではなかった。わざとらしく達人・渋川剛気がなにも知らない生娘のような無防備さで道場にやってきたのである。それを見た武蔵は内心「良い姿」と達人をほめる。真ん中に一本通っているというのだ。打撃格闘技では頭頂からまっすぐ線がおりているイメージをすることでからだを回転させることを学ぶが、あれのことだろうか。組み技はどうなのだろう。むしろからだをたわませているようなイメージがあるが、しかし現実のかたちはどうあれ、どのような方向からの攻撃にも対処できるように、バランスよく体重を配するのは基本なのだろう。わざわざ今回、こんなふうに「久々にみた」というからには、これほどの芯の密度はバキや独歩、烈にはなかったということだ。彼らはほとんどのばあい打撃を用いる。そう考えると、空手を学ぶものが必ず学ぶアレとはまた別なのかもしれない。

前回、姿という漢字の原義から、ここにあだっぽさ、なまめかしさというものを読み取った。それは、女性のばあい色気につながるものかとおもうが、本質的には意志の多義性を指していると考えられた。要するに女性のばあい、なんにもわからないようなふりをしながら、実は目的意識ははっきりしており、その二重性にこそ色気は宿るのである。わかりやすいのでふたたびエヴァ・グリーンのイメージを引くが、彼女にだまされる男たちは、なにもエヴァ・グリーンが本心を隠して演じだした「生娘っぽさ」それじたいに魅了されて、それを「なまめかしい」と感じるのではない。彼らは意識のどこかで、その裏に彼女の魔性を感じ取っている。わかっていてだまされるのである。

そしてげんに、達人のふるまいは本質的な意味でなまめかしい「姿」であった。というのは、道場にいるのが武蔵であることを絶対に気づいているはずなのに、なにも知らないふりをしてにかにか笑いながらやってきたのである。そして、ここでおもしろいのは、武蔵が「姿」に見ているものが背中に一本通る線だということである。これは拳ダコみたいなもので、鍛錬の結果いやでも自然と身についてしまう立ち方といっていいだろう。つまり武蔵は達人の「魔性」をたしかに感じ取っているのである。


しばらく雑談したあと、そろそろいいかな、という具合に内海が武蔵を紹介する。はやく示したくてしかたがないという雰囲気である。どうやら内海が光成的人物であることはまちがいないらしい。光成ばっかりずるい、じぶんのところにも三輪や達人、なんならオリバのような強者の知り合いはいる、それと立ち合わせたい、みたいな動機で、光成邸に出かけたのかもしれない。

武蔵であると示されて、弛緩した老人の顔つきで達人が武蔵をはじめて見る。そして、あの武蔵さんと、やっと思い出したというふうに笑顔で応えてみせる。このあたりのセリフはさすがに動画の件とかを踏まえているとはおもわれる。もしそれがなくて「あの宮本武蔵さんですか、はじめまして」といっているとしたら、弛緩した表情は冗談ではないことになってしまう・・・。


そして内海は、日本どころか人類史に名を残す宮本武蔵と、達人中の達人渋川剛気、どちらが強いのでしょうねと、露骨なことをいいはじめる。いい加減飽き飽きかもしれないが、客観的評価を聞かされて武蔵は視線をあげる。これは、いままでだったら相手にイメージで攻撃を仕掛けているようなところだが、どうもそういうことはないっぽい。まだ達人は猫をかぶって本性を隠している。イメージを受け取るのを拒否しているのかもしれない。

応えて達人は、なにをいっとるのかねと、老人的リアクションでそんなはなしにはとうていならない、みたいなことをいう。じぶんたちからすれば宮本武蔵は神そのもの、強さ比べなんてとんでもない、会えるだけで光栄だと。無防備に歩み寄った達人は握手を求める。武蔵は握手を知らないので、内海が西洋式のあいさつだと説明する。たしか握手は、相手がなにも武器をもっていないこと、つまり敵意がないことを示す形式的な儀礼が原型だったはず。しかし達人にとってはそうではない。三輪といっしょにいたメガネの男は、この時点で達人の意図に気づいたっぽい。

武蔵は戸惑いつつ達人の手をとる。そして、しばらくふたりは静止してしまう。手が離れないのだ。戦国時代には合気道のような技術はなかったのだろう、武蔵からすれば妖術のようなものらしい。

そこでやっと達人が本性を見せる。メガネをはずし、武蔵の体勢を崩す。離れない手を通して膝からちからを抜き、武蔵の体重それじたいを重さにして上から圧迫しているような感じだ。やはりメガネの男はいろいろ見抜いている。このメンバーのなかではいちばん、普段から稽古をつけられている者なのかもしれない。

板垣先生が渋川剛気のモデルである塩田剛三にインタビューした文章だったとおもうが、合気道というのは相手の動きそのものを制限する技術ということらしい。「関節技」ではないのである。痛みで相手を制御することは、それはある程度までならできるとしても、ほんとに殺そうとおもって向かってくるような、脳内麻薬全開のような相手には通用しない。腕を折ってもかかってくるものはかかってくる。だから、相手の神経に訴えかけるようにして、動けなくしなくてはならないと、そんなようなことだったように記憶している。これはまさにそういう技術だろう。


ついに武蔵が床にあおむけに倒れてしまう。手をつかんだままコントロールしつつ、達人はいう。烈のことだ。あれが合意のうえの真剣勝負だったこと、そしてその結果もまた合意のものであること、そういうことは理解してはいる。わかってはいるが、割り切れないものがある。烈海王は友人(ダチ)なのだ。そうして、動けない武蔵の顔面に拳が打ち込まれるのだった。




つづく。




烈が死んで読者が悲しむのは自然だが、バキやその他の面々がどう感じているのかは正直よくわからないぶぶんが多かった。というのは、彼らの関係性というものが、たたかい以外ほとんど描かれてこなかったからである。彼らはファイターなので、それでじゅうぶんともいえる。一般人が日々のコミュニケーションで積み立てる以上のものを、一発の突きの威力から彼らは受け取るのかもしれない。それをいえば、ただ描かれていないだけで、神心会本部あたりでちょっとくらいは手合わせをしたこともあるかもしれないし、冷静に考えればたとえば最大トーナメントが終わった直後とか、打ち上げくらいあっても別に不自然ということはない。達人がそういうのだから、烈は友人だったのだ。

しかしこのことばもニセモノである可能性もある。達人は武蔵に対してほかのものと同様の感情に加えて、なにかじぶんのやってきたことがまちがっていたかのようにも感じていたようだった。そこのところの意味はもう少したたかってくれればわかってくるとおもうが、ともあれ、たたかいたかったはずである。達人はああいう気性の持ち主なので、ふつうに強さ比べにのぞんではいくが、合気は基本的に護身術であり、相手が質量をもって存在し、さらに攻撃をしかけてくれないことには使用できない。歴戦の闘士で打撃をはじめとしたいろんな技がつかえる達人なので、じぶんからしかけることも不可能ではないが、合気の本質としてはそうなる。合気を合気として使用するためには、「強さ比べ」の文脈が馴染まないのである。それでもたたかいたい。じぶんのやってきたことはどこまでのものか確認したい。そうしたなかで、達人が烈を口実にした可能性もあるのだ。


武蔵は渋川の「魔性」を見抜いていた。バキや烈にも感じなかった「良い姿」をした人物である、あるいは実力者かもしれないと考えても不思議はない。じっさい、武蔵のばあいは、烈と同様、わざと攻撃を受けるようなところがある。現代は誰も武器らしい武器をもってはいないので、じぶんが一撃で即死するようなことはまずない。そうしたことを見越して、とりあえずなんでも経験してみよう、みたいなところが武蔵にはある。しかし、前回からの考察を引き継ぐと、姿のなまめかしさにひきつけられるものは、その隠された「魔性」について自覚がないわけではないのである。いや、自覚はないかもしれないが、あとあと振り返ってみると気づいていたくらいには目に入っているのである。くりかえすように、そうでなければ、わたしたちはそれを「なまめかしい」とは感じない。複雑な多義性と、背景の暗さ、こういうものがどこかで知覚されるからこそ、表面の生娘っぽさの底にある本性にひきつけられてしまうのである。

そう考えると、武蔵がバキや烈ではなく渋川の姿にわざわざ反応したのはそれが隠されたものだったからであり、あるいはそれは烈にも備わっていたものかもしれず、武蔵はまんまと達人の多義的な「姿」に魅了されてしまっていたのかもしれないのだ。とすると、武蔵は達人の背にある一本の線を感じ取りながら、むしろそのことによって幻惑され、達人の本質をとらえそこねてしまったのかもしれない。



もう少しはなしがすすんだらくわしく考察するが、第35話でちょっとだけ見たように、渋川剛気と宮本武蔵はそのたたかいかたにおいて似ているようでちがうらしい。たんじゅんにいえば、合気は相手をいちどとりこみ、そののちにはじき出すことで攻撃/護身とする。達人の到達した究極の護身が危うきに近寄れずというものだったのも興味深い。強者センサーが異常に発達してしまった達人は、その相手が危険だということを身体が知った途端、幻覚などが邪魔してそこに到達できなくなる。たいていのばあい達人はそれを無視して進むが、これもまた、他者を異物としてからだの外に排出するという渋川流柔術の基本にそったものである。武蔵が今回倒れる直前まで感じていた重量というのは、おそらく自分自身の体重である。達人はいちど握手を通して武蔵の身体を取り入れ、膝のちからを抜き差ってそのまま返したわけである。

相手と合一するという点では武蔵も同様のものがある。それはイメージの世界でたたかいができることからもわかる。それは、じぶんの動きで架空の相手を縁取り、観戦しているものにもその姿を見せてしまうというバキのリアルシャドーとは似て非なるものである。バキレベルの強者が霊感的にこうしたやりとりをするというのならまだわかる。しかし武蔵は、バキなどに比べれば素人に近い警官相手にさえ、これをやってのける。武蔵はこのとき相手と合一しているはずである。しかし武蔵は、これを外にはじき出さない。相手の脳をじぶんの脳のようにあつかう領域には、皮膚一枚はさんだ向こう側とこちら側という二元論で世界をとらえているうちは到達できない。おそらく渋川剛気はこうしたところをあの動画から感じ取ったとおもわれる。じぶんに害を加えるもの、異物を徹底的にはじき出すことを護身とし、強さの源としてきた達人が、相手をすべてとりこんでコントロールするかのような、それもおそらくじぶん以上高度さの技芸に接したのである。

武蔵が合気を覚えたらとんでもないことになる・・・というような空想もしたが、しかし達人の直観が正しければ、そういうことにはならないだろう。自我の輪郭が淡いような悟りのレベルにある武蔵からしたら、奇抜ではあっても合気もまた発展段階かもしれないのだ。






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