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進撃の巨人

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進撃の巨人(1) (少年マガジンKC)/講談社
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進撃の巨人を13巻まで読んだ。

ヒット作というのは、よっぽどのことがないかぎり、やはりそれなりにおもしろいからよく読まれるわけであって、ジャンプ系のバトルものや冒険ものがあたりまえに好きな僕としては、ワンピース等の「教養」としての漫画読書をほぼ済ませてしまっているので、巨人だけは最後までとっておこうと考えてた。が、ここ数カ月がなかなか過酷で、ふつうにおもしろい、現実とは異なった世界観で成立する漫画をどうしても読みたくなり、ついに手を出してしまった。

いまや新刊の売り上げにかんしていえばワンピースに比肩するほどの作品になっており、発売日ともなれば大勢の中学生が店を押し寄せて各自1冊ずつ買っていくような、ほとんど唯一の漫画である。中学生の集団のうち何人かが買っていくという作品は珍しくないだろうが、全員が1冊ずつ買っていくというのはなかなかたいへんなことである。つまり、たとえば友達から貸してもらうとかして、たんに先を知りたい、消費したい、という欲求のみに動かされているわけではなく、各自どうしてもじぶんのものとして所有したいと感じさせるということである。その意味では作風は異なってもやはりワンピースとも近いものがあり、ひとことでいえば、作者や、あるいは読者が、その漫画世界の世界地図を描ける、あるいは描いてみようとおもわせる、そういう作品なのである。すばらしく個性的な作風に仕上がっていても、そうやって地理的に、まるでじぶんがその世界に立って方向を見定めているかのように地図を描ける、ないし描きたいとおもわせる作品というのは少ないものである。

その原因としては、たぶん作者のなかでもう作品が出来上がっていて、あとは書くだけという、モーツァルト状態になっていることがあるだろう。あるだろうというか、想像にすぎないけど、何巻で終わるとかいうはなしもどこかで見かけたし、たぶんまちがってないだろう。ワンピースもおそらくそうなのだ。


これほどの人気作でもあることだし、作品の批評にかんしては嫌というほどネット上に出回っているだろうから、とりあえずまだ最新刊にも到達していないので、いまはあまり深く考えないようにしているが、ひとつには、ハンター×ハンターのような、世界や人間の現実がもたらす残酷さが際立って描かれているというようなイメージだったものが、おもったより希望も多くて、ストレスが全然ないということがある。もちろん状況としては絶望的なんだけど、巨人が宇宙人のような圧倒的に隔絶した他者なのかとおもいきやそうでもなく、残酷さはむしろ自分たちの内側にあるというふうに展開していき、なかなか単純にはなしを済ませないところは見事だなーと。

それから、よくいわれることだろうがやっぱり絵は気になるところで、たぶん一度読んだだけではよくわからないぶぶんがかなりあるし、作品が仕掛けてくるショックとか泣き所が、そのせいでうまく伝わらなかったりもする。要するに、人物の区別がまだついてない段階では、たとえば味方のだれかが裏切ったとき、「え・・・どのひと!?」となるところがあって、初見ではスムーズにそれが伝わってこないのである。しかしそれをいわゆる「画力」というふうには片づけたくない気もする。というか、このひとの絵を見ていると画力とはなんだろうという気分にもなってくる。たぶん、あんまりさらさらした絵だとこんなに世界の荒廃感はなかっただろうし、どことなく砂っぽくて、映画の指輪物語でいうガンダルフの爪の汚さと、それでいて不潔に感じないような感覚に似た空気は、この絵でなければ表現できなかったことだろう。というか、エレンやミカサの人間観のようなものが、むしろこういう人間の書き分けに深くかかわっているし、ということは、この作者独特の書き分けの作法が、彼らの人間観を支えているような気もするのだが、まあいまはあんまり深読みしないことにしよう。


最近は人気作はどれも同じようなことをしているが、本作も作者以外の作家が描いたスピンオフ作品がたくさん出ていて、ふつうに本編の外伝あつかいの漫画もいくつか出ている。それはそれで読むのが楽しみで、こういうところが流行りものの強みだが(コンビニでも書店でも、どこにいっても本に限らないグッズが充実しているのである)、帯などで作者じしんが自虐的に認めるようにどれも絵が上手いひとのものが多く、とりあえず僕はありがちな4コマ漫画だが『寸劇の巨人』を購入した。正直言ってこれを読んでやっと決定的にキャラクターの認識が分節されたというぶぶんがあって、ちょっとじぶんにがっかりもした。なんでもないギャグ作品のようだが、よくキャラクターが読み込まれていて飽きないし、愛を感じる。


現状16巻まで出ているけど、そこまでいってしまうとまたしばらく新刊が出るまでお預けになるので、どうしようかなというところ。アニメも見てみようかなあ。




寸劇の巨人(1) (講談社コミックス)/講談社
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寸劇の巨人(2)<完> (講談社コミックス)/講談社
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今週の刃牙道/第60話

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第60話/青龍刀






武蔵の強烈な叩きつけで気絶した烈海王だったが、武蔵の気まぐれっぽい投げで再び目を覚ました。しかし接近した素手のたたかいも武蔵は卓越しており、くりだす拳のことごとくを読まれてキャッチされる。そして、次の投げで烈は左肘を痛めてしまったのだった。

武蔵は例のごとくなんのかんのと文句をつけつつ、武器の山のなかからとりあえず振っても壊れない刀を見つけ出して、いよいよ斬ろうかというところになっている。そこで烈が見せた構えは、バキのものなのであった。


本部など熟練のものたちを含めて、烈がバキの構えをとっていると、観客はざわついている。バキじしんも改めてじぶんの構えを点検している。重心はつま先、半身を切って急所を隠し、顎を左肩でカバー、利き手は発射に備えて緩くにぎり、前に出た左手は攻防兼ねて柔軟に動くことになる。それがこの構え。とはいえ、バキとしても以上のような特徴をまず抽出してから「この構え」を作り出したわけではない。経験が、自然とこうした構えをとらせるようになったのだ。それを烈が行う。それが意味することはなにか。たとえば、いわゆる空手の「左自然体」にしたところで、両手で顔面ガードをして、利き手側を後ろにする、というところ以外の厳密な条件があるわけではない。ボクシングみたいにかたくガードをするひともいれば、ほとんど手をあげていないひともいる。一流の選手であってもそのあたりは一貫していない。そこにはそのひとの個人の歴史や性格、また得意な領域などが働いているのだ。バキの構えはバキじしんがじぶんに似合うように誂えた彼専用の構えであって、普遍化できるものではない。その意味で、バキは烈を心配している。付け焼刃をするようなひとではないとわかっているけど、ではなにが狙いなのかと。

烈がバキの構えを選んだのはたまたまなのか、それとも義足になって以来研究でもしてきたのか、そのあたりはよくわからない。たぶん、いまの状況と重なって自然にとってしまった構えがバキによく似ており、そこから意識的にバキ個人の構えを真似てみたというところだろう。中国武術を捨て去る気はないが、この構えはいい、と。なんの変化もないように見えてもやはりいままで通りとはいかない右の義足と、痛めた左肘、これを考慮したとき、この構えは最善らしい。

武蔵の目が徐々に燃え上がり、例の悪魔的闘気を発するようになる。烈によれば、これは「斬る」と決めた武蔵なのだという。しかし、それを前にしても、よく動けるという予感が揺るがない。追い詰められた烈がまず最初に「刃牙道」に到達した、というところだろうか。


武蔵が片手でもった刀を振りかぶり、ついに烈に切りかかる。斬った、ように見えるが、切れていないらしい。眉間から顎まで、ふかぶかと食い込んでいるように見えるが、独歩のとき同様、切れてはいないのだ。あのときの武蔵の説明によれば、圧しただけでは切れないということである。押して、さらに引かねばならないと。

しかしその現場を見るのは光成以外の全員がはじめてだろう。ほとんどのひとは状況がわからないにちがいない。斬…れてない、のか?あれ・・・、というような感じか。


烈はその体勢を保ったまま、全身に血管を浮かせて怒る。やっぱり怒ってる烈がいちばんこのひとらしいよね。なぜ引かないのかと、じぶんを侮辱する気かと、そりゃもうすごい怒りようである。そういうひとだよ烈海王は。刀を当てたまますごい口をあけて怒鳴るから、唇切れちゃってるよ痛そう。

刀を当てるだけでは切れないというのは、主婦も含めて、ちょっとでも刃物をいじったことがあれば常識なのかもしれないが、そこですぐに「なぜ引かぬ」と出てくるところに烈のリアル志向を感じる。ボクシングのチャンピオンとたたかって、相手がテレフォンパンチしか打ってこないのを見て、ぼこぼこくらいながらも「なぜ腰を入れぬ」というようなことでしょう。

武蔵は烈のそういうところを買っているのだ。武士(もののふ)だ、と讃え、その状態から武蔵は刀を強く引くのだった。




つづく。




刀が引かれるのに会わせて烈が前回りに回転している。そして、バキに感謝を述べているのだった。


今週だけではわからないことばかりだが、ひとつはっきりしたことは、もしこの回転が消力の実現だとしたなら、烈のものは以前推測したような「消力っぽいもの」ではなく、ホンモノだったということだ。

郭と稽古していたときに不思議だったのは、脱力の稽古をしているにもかかわらず、烈が汗をびっしょりかいていたことである。ごく単純化していってしまえば、消力の要諦とは、相手の押してくる力に逆らわず、流されるままに揺蕩うことだろう。刀を前にした緊張と脱力が同居するというようなことがない限り、汗とは無縁のようにおもえる。では烈があのときなにをしていたかというと、たとえば正面から10のちからの衝突があったとしたとき、それが触れると同時に10の力で同じ方向に移動していると、そういうようなことだったんではないかと、推測したのである。そうであれば、彼は刀の力によって運ばれているわけではなく、それだけの運動をしていることになるのだから、汗をかいていても不思議はないと。もともと、脱力をして完全に抵抗を除いたとしても、重力があって、体重があるぶんの抵抗は除くことができない。だから、少なくとも体重ぶんのもたらす抵抗は、脱力以外のなんらかの方法で消さないことには、完全にダメージゼロの消力はなせない。いわれてみればそれもそうで、ほんとうにすべてのちからを抜ききっただけで消力がなせるというなら、それほど難しくもないかもしれない。それ以外の複合的な技術だからこそ、完成は難しかったわけである。郭のばあいは、見るからに軽いので、ほんのちょっとの運動で体重ぶんの抵抗は消せるかもしれないが、たとえば真上からくる攻撃にジャンプで対応しても意味はないわけで、その微妙な角度や方向を読み、脱力しつつ体重ぶんの抵抗を除くところに、消力の極意はあったにちがいないのである。

というわけで、そのときは、烈の消力は「運ばれている」ものではなく、ひとことでいってその方向に「動いている」だけなんではないかと、推測したわけである。が、それでは、今回のようなことにはならない。武蔵の殺意はホンモノのようだった。直前に、「あれ、このひとほんとに斬る気ないみたいだぞ」と気づいたという線は考えにくい。もし烈が、同じ方向に動く、というしかたで「消力っぽいもの」を実現していたのだとすると、ここまで刀が食い込むまで動かないということはありえない。刀のちからで回転するつもりだったからこそ、あんなに食い込んでもまだ烈は不動だったのである。というわけで、烈はほんとうに、郭が100年で到達したところに数日で届いてしまったらしい。克己どころではすまない、とんでもない天才だったわけである。


ともかく、烈の考えとしては、とりあえずはこの武蔵の斬撃を消力で回避するというところだったんだろうが、最後のバキの感謝はここにかかっているのか、それとも次にくるかもしれない、たとえば胴回し回転蹴りのような打撃についてかかっているのか、どちらだろう。もし消力そのものについていっているのだとすれば、この構えでなければそれがなせなかったということになる。いま見たように、真の消力は、たんにちからを抜ききるだけでなく、微調整の必要なものである。そうしたとき、バランスのとれた柔軟な構えは必然かもしれず、たしかにバキの構えは有効かもしれない。でも、郭との稽古ではそんなことはせずに烈はそれを達成していた。となると、このあと続くなんらかの動作について、烈はいっているのかもしれない。


いずれにしても、この状況で、そこまで特別とはおもえないバキの構えをとったくらいでそんなに事態が好転するとは考えにくい。本編のタイトルがいまだに由来の不明な「刃牙道」ということもあり、なにか深い展開がきそうな予感もする。前回考えたように、バキのスタイルというのは、おおげさな言い方になるが、「オリジナルを追い求めないことで編み出されたオリジナル」である。それは、彼が強さの探究を、父を目指すことで行ってきたことにかかわっている。父親の勇次郎は地上最強の生物であり、世界のありとあらゆる武芸を治め、そういう描写はないが、おそらく世界のありとあらゆる知性についても広範にカバーする超人である。身もふたもないいいかたをしてしまえば、そういう設定なのだ。独歩も、本部も、ジャックも、郭海皇も、もちろんバキも、すべての世界の人類は、彼の存在のもとでは、「彼より弱い存在」として相対化される。わたしたちにできることはすべて勇次郎にもできるし、わたしたちの知っていることはすべて勇次郎も知っている。つまり、わたしたちが現代人がすがりつく「個性」という、唯一無二性を保証するオリジナリティを否定し、「お前にできることはおれにもできる」と告げてまわって、その存在が交換可能なものだということをつきつける絶望的な存在なのである。勇次郎にとって世界とは「既知」である。これを逆の面から示す好例としては、バキが親子喧嘩で見せた虎王がある。たいしてダメージを与えたともおもえないこの技は、そのとき「今宵最大のプレゼント」と呼ばれていた(はず。うろ覚え)。なぜあの技がそんなたいそうなものなのかというと、虎王というのが『餓狼伝』という、別の漫画の秘技だからである。別の世界に存在していた技が、その秘技性のうちに、勇次郎にとっての「未知」を宿して彼の身体に具現化されたのである。最大トーナメントでは異色の、反則ぎりぎりにもおもえたジャックの噛み付きも、郭が100年かけて修得した消力も、勇次郎にとってみれば既知であり、あるいは知識として知らなくても、あっさり実現可能なものだった。しかし虎王は、その由来からして「未知」なのであり、だからこそプレゼントたりえたのだ。

そんな勇次郎に接近する、そして勝利するにはどうすればいいのか。バキの強さはそうした問いからはじまっている。本来であれば、まさしく虎王のように、勇次郎にとっての「未知」をとにかくそろえればよいところが、そんなものはどうもないらしいということはバキも読者もよく知っている。となれば、まずとりえる方法としては、とにかく父が知識を積み立てたその同じ道を急いでたどって追いつくほかない。ひとことでいえば、じぶんも「未知」の場所を減らして、世界を既知でぬりつぶしていくほかないと。だが、この方法では追いつくことはできても追い抜くことはできない。そこでバキが編み出したのが想像力と、それに基礎付けられた解釈力であった。それをもっともわかりやすく示すのはゴキブリを師匠と呼ぶエピソードである。いったい、誰がゴキブリを参考にして超スピードのタックルを編み出そうとするだろうか。そして、科学的根拠もなしに、誰がゴキブリの体内の様子から脱力、そして液状化がスピードを作り出すという解釈をするだろうか。そこがバキが勇次郎に近づける唯一の道だった。要するに、勇次郎にとってさえ、ゴキブリのことなんかどうでもいいのである。しかしそうしたところから、バキは、想像力と解釈力で、花山のいう「強くなる理由」を見つけてくる。いわゆる「知らない」という意味での未知とはまた異なったしかたで、バキは、じぶんにしか発見しえない出来事を解釈で引き出し、強くなっていったのである。


はなしが離れてしまったが、いいたいことはつまり、バキというのはオリジナルにこだわらないことで強くなっていったということだ。たとえば空手や中国拳法がどれだけの深みをもち、またバキの解釈力をもってすればその引き出しは無限であるとしても、そこに足場を定めているうちは、勇次郎には勝つことができない。ゴキブリとは異なって、空手や中国拳法のことは勇次郎も知っているからである。そう考えると、バキの場合は解釈力より「目のつけどころ」がよかったのかもしれない。中国拳法を深く解釈することは誰にもあるだろうが、ゴキブリを格闘技的目線で深く考察するひとなんてバキ以外絶対いないから。

バキはそうして、足場を決めないことで、勇次郎とはまたちがうしかたで世界の未知を埋めていった。その結果編み出されたのがあの闘法であり、そして、長くなったが、それを象徴するものがあの構えとなっているはずなのである。表象という意味では、あの構えはそうした意味を含んでいる。バキの構えをとるということは、足場を定めないことで、逆に引き出しを無限にするということなのである。直前に烈が「中国拳法を捨てたわけではない」と言い訳をするのも、二重の意味があるのだろう。しかし、そうすることではじめて、おそらく消力も生きてくるのかもしれない。もしバキ的な鍛錬法が「刃牙道」だとすれば、それは「なにものでもない」道を選ぶということである。そしてバキの場合は、その結果あの構えになった。烈にもそれが有効かというとわからないが、少なくとも象徴的意味合いでは、そこに刃牙道性は流れているはずである。中国拳法のままでも可能だったはずの消力やつづくなんらかの攻撃を、なぜバキの構えで行わなければならないのかというのは次回を見なければ不明だが、烈は今回の件でなにかを悟ったのかもしれない。






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今週の闇金ウシジマくん/第373話

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第373話/ヤクザくん⑳






ヤクザくんももう20話か。20話を超えると数字を丸で囲んだ記号がなくなるので、「ヤクザくん893」などと表記するようにしているのだけど、ここに入ってくると長くなってきたなという感じがしてくる。


久々の加納の描写である。新居でお嫁さんといちゃいちゃしながら布団を叩いている。丑嶋社長のもとで長く働いて潔癖症がうつったのか、加納が豪快に布団を叩いているのを嫁がとがめる。うるさいと隣の家に注意されたことがあるらしい。加納は、文句があるなら俺が聞いてやると隣にいっておけというのだが、嫁はそういうのはダメだという。おもったよりしっかりした奥さんだな。加納としては、威圧感でこれまで生活してきたようなものだし、大切な嫁さんが注意されたということもあって、ごく自然にそう反応したんだろうが、まあ、トラブルなしでうまくこういうところで暮らそうとしたら、ふつうのひとはそういうふうに処理しようとはしない。カタギになった以上そういうのはもうダメだよと、奥さんはやんわり伝えているのである。加納も奥さんのいうことは聞きそうだし、いい夫婦になりそうだ。


夕食のカレーの火を加納に任せて、奥さんは産婦人科に向かう。そこに、駐車場にとまった車から、入れ違いに加納の家に接近する男がある。マサルなわけだが、よく見ると獏木たち若いものが着ている「doku butu」の服を身につけている。前回からかな、気づかなかった。遠目にはかっこいいけど、よく見ると日本語がローマ字で書いてあって、かなり微妙ですよね。

マサルはふつうにピンポンして名乗る。会話がドア越しにぽんぽん進んで、しかも加納の表情が描かれていないので、わからないが、たぶんかなり不審におもっているっぽい。まずなんで住所を知っているのかということだが、たぶんそういう質問についてはぜんぶこたえを用意してあるのだろう、マサルは社長から聞いたとよどみなく応える。用件は社長の代理で渡しそびれたものをもってきたと。中身はなんだ、なぜ社長本人がこない、郵送でもいいだろうと、状況のおかしな点について続けざまに加納は質問を浴びせかけるが、中身は知らない、郵送できない現金とかじゃないのか、社長は急用だと、そのどれにも一応納得のいくこたえが用意されている。加納は丑嶋からじっさい現金をもらっていることもあり、そういうこともありうるかも、と、一瞬信じてしまったのかもしれない。魚眼レンズののぞき窓からも確認はしているだろう。ドアの前にはマサルしかいない。ということで、加納はついにドアを開ける。しかしすぐに、ドア横から伸びる階段をあがってくる家守と最上に気がつく。家守は軽口をたたきつつ、入れ違いで出かけた嫁のことをそれとなく口にする。

家守なんかはどっからどうみてもヤクザだし、まずい状況だということは一目瞭然だが、加納はマサルにだまされたと気づきつつも、汗をかいたりはしていないし、ビビッたりはしていないようだ。まあ、肝のすわりかたはカウカウ仕込というところか。


とりあえずつかまらないことが重要なので、加納はすぐドアを閉めようとするのだが、マサルにドアをつかまれて阻まれる。加納さん、もっと鍛えなきゃ駄目っすよと。たしかに加納は丑嶋や柄崎に比べると体格でどうこうというタイプではなかったし、マサルはサラリーマンくんあたりからずいぶん鍛えこんであるような描写が増えてきていた。たぶん自覚ないだろうけど、そんなところも社長フォロワーのしるしなんですよね。


そのころ、猪背組の占有物件とやらに身をひそめている丑嶋。丑嶋に加えて、熊倉の指示で滑皮もそこにいることになったのだった。そこの留守番みたいなことをしているっぽいやつらがふたりに弁当を届けている。ふたりともそっぽを向いて全然会話はなく、留守番のふたりも空気みたいなあつかいである。滑皮にはそうとうビビッるようだし、けっこう下っ端か準構成員といったところなのかも。

滑皮はいろいろ思案しているが、今回丑嶋の心理描写はない。熊倉のはなしではこの件は本部にはなしがいくことになっている。滑皮としては組長である鳩山がどういっているのか、つまりこれからこのはなしがどう展開していくのかが非常に気になるところだ。内心、躊躇なく鳶田のあたまを撃ったハブたちの復讐心を甘く見ていたことを認めつつ、じぶんの立場としても徹底的に報復しないと面子が立たないと考えている。目の前で子分が死にかけたのであるから、とことんやるしかない。丑嶋に預けている銃でハブをやる気満々なのである。


ところが鳩山たちにははなしはいっていない。いつか描写された雀荘みたいなところで猪背や鳩山はのんびり麻雀しているのだ。この場面は、単行本ではなぜかゴルフをしている場面と差し替えられていた。あるいは取材をしたその筋のひとから「ヤクザは麻雀なんてしない」とかなんとかクレームが入ったのかとおもったが、今回また描かれているので、麻雀じたいが問題だったのではないことになる。あるいは、今回こうして鳩山と猪背がのんびりなにかの遊びに興じている場面を描くにあたってとりあえず麻雀以外適当なものが考えられず、つまりここで麻雀をつかうために、単行本ではべつのものにしたということなのかもしれない。前のあの場面は熊倉と連絡がとれない、と猪背がいうだけの場面だったし、のんびりしている雰囲気とか、あるいは鳩山がそこで一緒に遊んでいたりとかする必要はなかったから、ゴルフでじゅうぶんだったのだ。

で、ふたりはこれから銀座にいくとかいってるし、明らかにどこかの組とこれから揉めようとしている幹部のようには見えないわけで、話は通っていないことが推察されるのである。

そしてじっさい熊倉は報告していない。前回、テーブルのうえに金があり、また熊倉がいちいちおもわせぶりに頭の傷を叩いて滑皮の質問に対して一拍おいてから回答するものだから、ハブと結託しているのではないかと考えたが、どうもちがうようだ。ちょっとよくわからないが、要するにじぶんのところでとりあえずはなしを止めて、どうにかコントロールしてじぶんがいちばん得をするようにもっていきたいと、そういうことのようである。

計画というほど綿密なものではないが、とにかく、熊倉の予定としては、まずじぶんがハブにカマシを入れてみる。脅かしてみるくらいのことだろうか。それでハブが落とし前をもってくればそれはそれでいい。金ヅルの丑嶋を保持しつつ、熊倉は丸儲けである。もしハブが開き直って、それでも強気の態度を崩さないようなら、その時点で喧嘩にしても遅くはない。しかし、この遅くはないというのは、その時点で本部に連絡を入れて戦争をはじめればよい、というような意味ではない。相手がどうしても喧嘩をしたいようなら、有り金全部さらった丑嶋の身柄をわたしてしまえばよいと。ここまで追い詰められたハブが金なしの丑嶋の命だけで納得するものかとか、カマシ入れて云々というのほあすでに滑皮がやってその覚悟の結果いまの状況であり、通用するわけがないとか、いろいろとんちんかんな感じもするが、まあとりあえず熊倉の計画としてはそうである。


コピー機のようなものに腰掛けている丑嶋のもとには、従業員から連絡がきている。柄崎と高田はうまく家守たちから逃れ、戌亥の手を借りてホテルに身を隠しているらしい。いちばん心配だった小百合は、事務所についてから連絡に気づいたということで、あわてて現金や名簿などの大事なものを抱えて逃げたということだ。タクシーに乗ってるっぽいが、心配だなあ。名簿とかはそれでいいとしても、小百合じしんの隠れ場所はあるんだろうか。柄崎ならあるいは家守を張り倒して逃げるくらいのことはできそうだけど、小百合にはそれはできないわけだし。


加納宅に奥さんが帰ってくる。まずカレーが全然煮えていないことに気づくが、すぐに様子がおかしいと察する。柄崎が贈った木馬に浴びせかかるように、部屋には血が広がっていたのだ。




つづく。




このカットでは部屋にまだひとがいるのか、血の広がる中心あたりに誰かが倒れているのか等のことは不明だ。そのひとつ前のページ、駐車場の絵を、最初にマサルが車をおりたときのコマと比べてみると、家守たちの車は、なんか選挙演説の車みたいな看板がついたやつのふたつ隣にあり、奥さんが帰宅した時点での描写でもそのあたりにはまだ車がある。もし部屋に加納が倒れていたら、さすがに奥さんも叫びそうな気がするから、部屋にはもう誰もいないのかもしれないが、駐車場にはまだ彼らはいるっぽい。この位置関係だと加納の家から車まではけっこうあるが、階段の踊り場から外を見るようにしてタイミングをはかり、殴って気絶させた加納を三人で運び、いま車のなかにいるというところかもしれない。まあ「キレたらなにするかわからない」と愛沢に言わせしめた加納がついに覚醒し、無双した可能性も否定はできないが。しかし、おもえば加納はべつに喧嘩が強いわけでも、威圧感がもとからあるわけでもなく、「キレたらなにするかわからない」という不気味さがこれまでのアウトロー性を保護していたぶぶんがあるわけで、だとしたら彼のばあい落ち着いたらもうほんとにふつうのひとになってしまう。冒頭の描写を見ても、たぶんもういまの加納では家守たちには対抗できないだろう。


丑嶋の緊急連絡は加納には届いていなかった。マサルは、そもそも緊急連絡用のグループの存在さえ知らないので、そのことを知るすべはないが、前回柄崎が予定の行動をとらなかったことから、たぶん丑嶋が連絡したのだろうと推測していた。だとしたなら、丑嶋が加納に連絡をとっていても不思議はないわけで、マサルはここにすでに加納がいない可能性も考えたはずである。加納を襲う計画じたいは、最上が目撃した情報をもとに家守がやろうと言い出したことだろうとおもわれるから、マサルはなにも口出しをしていないだろうが、訪ねても加納がいなくて家守がもっと不機嫌になる可能性もじゅうぶんあったのである。これ以上カウカウ襲撃が失敗したら、次に危ないのはマサルだったんじゃないかとすらおもわれるが、マサルにはそうしたおびえはなさそうだ。やっぱり、なにかを悟っちゃったのかもしれない。


滑皮と丑嶋には相変わらず会話がない。そして、滑皮にとってハブの件は完全に「じぶんの問題」に移行しているようであり、そのぶぶんだけをとってみれば、とりあえずやはり丑嶋にとってはかなり好都合な展開になっている。くりかえしてきたように、すべての件が片付いたあと、つまり滑皮がハブを葬ったあと、彼が丑嶋に対してどう出るかは読めないわけだが、少なくとも現状、鳶田がけがをし、じぶんの面子がつぶされたような状況について、丑嶋に対してどうしてくれるんだ、とはなっていない。というか、熊倉もそうだけど、もう問題がひとりあるきをして、丑嶋のことなんかもう誰も考えていないような状況になっている。丑嶋としては、まあ勝手にやってください、という感じで部外者を決め込んで、すっとはけていくような状況が好ましいだろうから、やはりこの展開は都合がよいだろう。問題は熊倉である。前回のおもわせぶりな描写から、僕同様、熊倉とハブがつながっているんじゃないかと推測したひとは多かったとおもうが、それはなかったようだ。じゃあ、あの金はなんだったんだろう。先週のスピリッツはもう捨ててしまったのでわからないが、700万くらいあったような記憶がある。以前に熊倉が滑皮に用意するようにいったのは400万だったが、その金は関係しているのだろうか。400万とはいったけど、滑皮は700万わたしたかもしれないし、そのあたりはなんとも言いがたい。いずれにしても熊倉は、この件をどのように利用するかを思案するなかに、札束を浮かべていたはずである。滑皮の用意した400万を含めて、あれは要するに鳩山に積むために出していた金だったのかもしれない。それはつまり、ご機嫌をとって、じぶんのつぶれた面子を立て直すための金である。ハブを個人の裁量で処理するなり、丑嶋を身包み剥いで金を奪うなり、いずれにしても、それは熊倉にとって現状のマイナスの状態をゼロ、よければプラスにするための材料なのであって、それはつまり結局のところ金に換算される事柄なのである。傷口をたたき、なにかを天秤にかけているかのようなあの表情は、今回の件をどう利用できるか考えているしぐさであって、要するにテーブルにある手元の金だけでは足りないと、そんなふうに思案していたのではないだろうか。


しかし熊倉の作戦は上手くいくだろうか。以前までのハブでも、熊倉のカマシとやらに屈したとは到底おもえないが、説得次第では金なしの丑嶋で満足する程度のものではあったかもしれない。しかし事態は悪化している。ハブは丑嶋とそのケツモチに再びしてやられているのである。子分ふたりは重傷を負っているはずで、滑皮の予測どおり、これからはもうなりふりかまわず、捨て身で襲ってくるにちがいないのだ。それを熊倉は全然わかっていない。びっくりするほどわかっていない。

熊倉の前提としては、まず丑嶋は保持したい。というのは、不景気な業界では唯一安定した(熊倉にとっての)財布だからである。別に丑嶋をかわいがっているとか、ヤクザの仁義にそってとか、そういうのではない。ハブの件も、じぶんが上手く片付けたら丑嶋から金をせびりやすくなるくらいに考えていることだろう。今回ハブがついに攻撃を仕掛けてきたが、そこで熊倉は待てよ、となる。もう少しこの件をうまくつかえないかと。本部に伝えれば、大事になってなんらかの方向に事態は解決するが、特にじぶんにはなんの得もない。面子がつぶれて、信頼を失っているいま、ハブの件を解決すれば、かなり高得点なんじゃないか。もしハブが手におえなくても、そのときは丑嶋をわたしてしまおうと。しかし丑嶋の金は必要だから、金以外、丑嶋のからだだけわたせばたぶん大丈夫だろと、そんな浅い考えなわけである。そのいっぽうで、じっさいにハブと遭遇した滑皮は、これでいよいよハブも本気出してくるだろうし、じぶんもきちんと報復しないと面子が立たないと真剣に考えている。この温度差はいったいなんだろう。


まあ熊倉の場合は後遺症というのがあるので、なんとでも説明はついてしまうわけだが、その思考法にはやはりなにか重大な差があるように感じられる。


ひとつには、典型的ヤクザくんの思考法といってよいだろうが、事物を金で交換することですべての歪みは解消する、というようなことだろうか。現実にそういう面があるからこそそのように思考するわけだが、前回ブランド・イメージとしてたとえた熊倉のイメージは、金を積んでもすっかり回復するというものではないだろう。というのは、そもそもそういう思考法がこの業界には馴染まないのである。極端ないいかたをしてしまえば、ヤクザでなくても失敗は誰にもある。面子を回復するというのは、つまり失敗をとりかえすということと同義である。しかし、ヤクザ社会ではそんなふうにはとらえられない。わけのわからない金融屋に殴られたけど、だったらそんな素人になめられないようなヤクザを今度から目指そう、という思考法はありえない。その時点で彼らには死活問題であり、また報復をしたところで、後遺症も含めて熊倉がげんにいま信頼を失っているように、かんぜんに面子が回復するとも限らない。どうしてこういうことになるかというと、面子というのが、要するに体面のことだからである。世間的な関係性においての、他人から見た自分の姿のことを、面子と呼ぶのである。たとえば「失敗は誰にもあるから、次からがんばろう」というのは、個人の努力やプライドに関わる志向性の問題であり、当然のことながら会社人としてそれは通用しない。わたしたちはその心性に心当たりがあるから、そうした失敗したものにそのような慰めをかけることはあるが、同時に私人であることを超えて関係性のなかの公人であるとき、好むと好まざるとにかかわらず、これは通らない。公人についてはその瞬間にしか用事がないからである。次からがんばって改善するかどうかはそのひと個人の問題であり、なんらかの用件でそれに接するひとからすれば無関係なのだ。わたしたちが(狭い意味での)公人であるとき、その個々人の事情はなんの関係ももたないのである。ヤクザくんは、いってみればわたしたちが個人的な領域として生きる私人としての領域まで公人として生きなければならない存在なのである。それは、ヤクザくんが無法者の集団であり、現実的に「転職」も難しく、いわば「それ以外の生き方が難しい人々」であることと無関係ではないだろう。これは民主主義や立憲主義の基本的な方針でもあるが、わたしたちは満腔の「私」を縮めて部分的に「公」に預けることで、様々な価値観の併存する社会を成立させている。わたしたちにとって「面子」がかかわるのは当然のことながら「公」のぶぶんであり、たとえば家で寝転がって漫画を読んでいるときのその姿に「体面」を求めるものなどいないわけである。ところが、ヤクザくんには私的領域が少ないか、もしくは全然ない。生活のすべてのふるまいが面子にかかわるものであり、どう見えるか、どうとらえられるかにこだわって設計されているのだ。


私の領域で犯された失敗は、回復可能だろう。つまり、仕事上のミスであっても、次でとりかえすとか、じぶんなりに言い訳をするとか、わたしたちはそれに個人的に解決をつけることができる。しかしそれが公の領域でも通用するかというとそうもいかないだろう。というのは、公の定義からしてそれを決めるのは私ではないからである。

以上を踏まえて考えると、ヤクザくんの面子はどのように回復していくだろうか。公の領域でも、その失敗を取り消す手続きをすることはできる。たとえばここでは上に金を積んだり、丑嶋を殺したりといったことで、マイナスを帳消しにするようなプラスを行えばよいのである。しかし問題なのは面子というものを立てるのは他人だということである。やっても、なんの効果もないかもしれない。これがふつうの個人であれば、わたしたちはもともと「私人」であり、「公人」は二次的な存在でしかないのだから、立て直しは可能のはずだ。しかしヤクザくんではそうもいかない。私とは面子のことであるからだ。

長くなってきたので駆け足になるが、そのようにして、ヤクザくんでは公と私が裏表で連関しあっている。いま問題としているのは熊倉の「面子」のあつかいなわけだが、滑皮との温度差にあらわれているのは、その理解だろう。熊倉の浅く見える考えは、たいていの面子を金と交換することで保ってきた思考習慣が生きているためだろう。しかし、金を積むことで面子をプラスにすることができても、減ったものを増やすことは難しい。

そして、ヤクザくんでは公と私が等しいので、面子を金と交換するということは、私を量に換算することが可能だと宣言するに等しいのである。たとえばこれから熊倉が100万で死ぬようなことがあったとしても、100万で売られた盛田と熊倉が等価であるということにはならない。というか、ふたりを比べる共通の度量衡は存在しないのである。ところが公の領域では、個人の事情を勘案しないぶん、交換は可能である。げんにわたしたちは毎日の労働を量に換算することでお鳥目をかせいでいるわけなのだから。


文字数の限度を超えそうなので考察はまた今度続けることにするが、滑皮の後輩の個性に目を向けるスタイルが熊倉の等価交換の考えと馴染まないという可能性は、だから高いように見えるのである。というのは、私を金で交換できるということは、「あなたでなくてもいい」ということにほかならないのであり、そうした態度が後輩からの憧憬の目線を生むとは到底おもえないからである。






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『認知の母にキッスされ』ねじめ正一

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■『認知の母にキッスされ』ねじめ正一 中央公論新社






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「おふくろ米寿、おれ六十四。今日も明日も、介護の日々。そして、母の認知症の妄想は加速していく……。「母の大脳、応答せよ! 」」Amazon商品説明より




ちょっと前に読んだ『おふくろ八十六、おれ還暦』の実質的な続編にあたる。『長嶋少年』から数えるとねじめ正一は成人してから三冊目になる。


本書の帯によれば、この時点でねじめ正一は64歳、母のみどりさんが米寿ということで88歳。とすると、最初の本は若干計算がおかしいことになるが、それはまあ、31歳の僕が「人間も30過ぎるといろいろあきらめがついてくるよね」とかいうふうにいうみたいなもので、厳密なものではなかったのだろう。つまり、本書はそれのだいたい2年後のおはなしである。ちなみに長嶋少年は単行本の出版が2012年3月で、本書の初版が2014年の暮れである。自分で書いた書評を読み返してみると、『おふくろ八十六・・・』は「いまから5年くらい前に『婦人公論』に寄稿されていた」と書かれてあるので(要出典)、2010年ということになるだろうか。ねじめ正一は1948年6月生まれであるから、2008年に還暦を迎え、2010年にたしかに62歳ということになり、そのときにみどりさんは86歳ということになる。2011年にあった東日本大震災についても記述があり、それは『おふくろ』から1年後ということになるが、その時点でみどりさんの認知症は発症している。

こんないやらしいようなことを細々と書いてなにを知りたいのかというと、ねじめ正一はなにをおもって『長嶋少年』を書いたのだろうということである。まあ、書いて寝かせておくということは文筆業ではふつうにあるだろうから、あんまりこんなことをいってもしかたないのだが、ごく当たり前に考えて、長嶋少年が2010年から2011年くらいに書かれたものだとすれば、背後にはすでに半身マヒから認知症を患っていったみどりさんがいたはずなのである。


『おふくろ』は、当然のことながら本書よりも前に書かれたものだし、みどりさんも発症していない。おそらく、長嶋少年も、最初の段階では書いていなかったとおもわれる。そのときの文体は、書評にも書いたが、ベテラン作家の手すさびという感じがないでもなかった。話題にされる宝塚とか氷川きよしは、いってみれば人生のオプションであった。最初から母親のマヒや認知症を計算にいれて書いているわけではないので、雑誌への毎号の寄稿という体裁もあり、ねじめ正一個人の本質にかかわる、いわば背景にすぎなかった母親が、徐々に前面に出てきて生活に組み込まれていく過程が、非常にリアルに、生々しく伝わってくるものになっていた。しかし、ねじめ正一の人格か、はたまた作家としての文体などの性格によるものか、どこか恬淡とした雰囲気もあり、漂白されて適度に毒気のぬかれた読み物としても成立していたのだった。その点については、程度はともかくとして、本書も変わりない。きついしつらいのだろうけど、たとえばつらくて悲しいことがあったそのことじたいを、どのようにして文章に載せていこうか、どうやれば読み手に正確に伝わるだろうか、などというふうには、作家の技術は起動していない。たぶん、性格なんだろう。写実的というほど非情でもないが、なにかこう、「べつに大丈夫そうだな」という感じが残るのである。それは、認知症によるみどりさんの妄言などもかんけいしているだろう。アマゾンのレビューでどなたかが書かれていたことだが、表面的には支離滅裂でメッセージとしてはほとんど機能していないみどりさんのことばが、どこか詩的であり、本質をついているように見えるのである。そして、ねじめ正一はそのことを全然指摘しないし、ふつうに困っている。それでいて、どこまでが正確な書き写しなのかわからないが、みどりさんの発したことばのひとつひとつが丁寧に拾われて文章になっているところに、なにか作家の二面性が感じられるような気がしたのだ。現状を理解していない母親のめちゃくちゃなことばを、困ったものだという理解のままひとことももらさず書き取るなどということがあるだろうか。ひょっとして、ここに「書かれていないこと」が、『長嶋少年』に結実しているのではないかと。

が、それもなかばまでであり、どんなに不機嫌に理不尽な申し立てをするときでも必ず「正一!」と強く呼びかけていた母親が名前を呼ばなくなり、大好きだったミルク寒天の味も理解しなくなっているようだとわかったとき、ほとんどはじめてといってもいいとおもうが、率直な書き手の悲しみが文章からこぼれはじめる。誰もが経験し、肉親のものであるにせよ自分自身のものであるにせよ見つめなければならないことであっても、老いの現実がもたらす残酷さをおもわずにはいられない。わたしたちがそうした現実に「どうして」と問いを発することをやめられないのは、そこに不満が生じるからである。わたしたちは、乳児の時代に、母親の乳房から引き離された瞬間から、世の中というものが思い通りにならないものだということを思い知るその堆積で知を発達させてきたはずである。そうした現実を前にして、しかし「どうして」と問わずにいられないことがあるのは、人間の意識や感情というものが、本質的にこの世界と馴染まないものだからかもしれない。わたしたちは、どこかで折り合いをつけて生きていかなければならない。

しかし、そうはいっても、母親がじぶんを認識できなくなるという事態をどう認めればよいのだろう。というのは、母親というのはわたしたちと最初に通じ合った存在だからである。つまり、「わたしはいまこのひとに認識されている」ということを最初に認識させてくれる存在が、母親なのである。ねじめ正一の奥さんによれば、結局のところ男はみんなマザコンで、女性だと赤ちゃんの世話をしているような気分になってむしろいとしさが増すのだという。たしかに、それもそうかもしれない。しかし介護経験もない僕のような男がそうした事情をこれ以上探ってもしかたないので、あえて表面的に読み取っていくことにすると、母親がじぶんを認識しなくなるというのは、セルフイメージの根幹になっているもののひとつを失うということなのである。ラカンでは鏡像段階といって、わたしたちは、鏡にうつった姿や、あるいは影とかも含まれるかもしれない、外部になんらかのかたちで複製された人形とわたしじしんの身体意識の重なり合いを通じて、自意識を確立させる。つまり、わたしたちの脳や精神のなかで増幅するようにイメージが確立されていくのではなく、わたしの模造を契機にして、「わたし」というものは成立しているのだ。つまり、「わたし」というのはフィクションなのである。

意識や感情のもっとも原始的なかたちが完成するより前に、わたしたちはわたしたちを見つめるそれぞれの視線に異なった「わたし」があることに気づくかもしれない。たぶんその最初のものを与えるのが、母親なのだ。それはまさに呼びかけであり、呼びかけを通じて、わたしたちは意識の最低部を構築する。「わたし」というものが根こそぎフィクションだとして、身体の意識が鏡像段階で達成されるとすれば、「意識の意識」は呼びかけによって起動するのではないだろうか。そうでなければ、わたしたちはこれほど自然な老いという現象に「どうして」と問いかけたりしないだろう。自意識の成立ということじたいが、自然界の法則に馴染まないのである。


そして、「正一」という呼びかけを失ったとき、作家としての二面性も失われている、そのように僕には読めたのである。母親の呼びかけが開始したねじめ正一という意識、これが、作家の意識も同時に支えていたのである。『長嶋少年』には息子を無視するかなりひどい母親が登場する。これについては、長嶋少年を再読する機会でもあったら書くとして、ともかく、最初に書いたように、こう見るとあの母親はやはりみどりさんのマヒから認知症にかけての介護体験が書かせているものとおもわれるのである。じっさい、みどりさんには、ネグレクトとまでいかなくても、父親に夢中で、自分勝手なぶぶんがかなりあったようで、それが極端に増幅したものがあの母親ということはたぶんまちがいない。たぶん問題なのは、にもかかわらずそれは母親なのだということだろう。少年期から青年期の男子特有の母親を拒否するような感覚については、いろいろな考えがあるが、以上を踏まえたおもいつきとして、もっとも原始的なセルフイメージを母親に握られているという負い目のようなものがあるかもしれない。ねじめ正一だって、「正一」と呼ばれなくなってはじめて悲しくなったわけではない。だが、そこは作家として対応できるところだったのだ。


ねじめ家の介護の方法としては、病院にいくまでは弟夫婦が実質面倒を見ていて、ねじめ正一はそこを訪ねるというかたちだった。そこから病院に移り、そのときの治療が済んだとかで施設にうつることになり、そこで一気に認知症が進行し、呼びかけをしなくなったところで本書は終わっている。支離滅裂でも当初はあったコミュニケーションがすっかり失われてしまった悲しみは、僕が男だからだろうか、なかなか、耐え難いものがある。認知症をめぐるさまざまなひととの交流もあり、本書は一種の記録のようなものとしても意味があるかもしれない。





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今週の刃牙道/第61話

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第61話/擬態






刀を手にし、ついに攻撃を仕掛けた武蔵だったが、刃は烈の顔面に食い込んだところで止められた。独歩のとき同様、刀を押し込んだだけで引かなかったので、切れなかったのだ。しかしそのような格下あつかいに烈が納得するわけがなく、激昂し、侮辱するのかという烈に武蔵は武士の志を感じ、刀を引くのであった。

烈は例のバキの構えをとっている。原理的なレベルでいえば、バキの構えは「なにものでもない」構えであり、なにについても特化していない柔軟な立ち方である。その状態で動き出した刀にしたがうように、烈のからだが前転する。

烈は刀が顔面に食い込んでも動かず、そこで武蔵が刀を止めたことに激怒していた。なんとなく止めそうな感じがして動かなかった、というふうには見えなかった。つまり、この動きはたしかに消力の原理で、刀に運ばれるままに行われているものなのである。この回転力は、武蔵の振りのちからなのである。

そうして、心中、烈はバキに感謝している。流れからして構えについてのものだとおもうが、構えのなにがそんなに烈を救うのかというのが前回の謎であった。

烈は回転して斬撃を無効にする。そこまではよい。そこからさらに回転を続けて、例の、バキが勇次郎とたたかった二回のどちらでも使用した胴廻し回転蹴りのような技を発生させたのである。烈のかかとが槌のようにして猛烈な勢いで武蔵の顔面に打ち込まれる。たいへんな一撃のはずだ。なぜなら、この回転力じたいは、並の刀ならばらばらになってしまう武蔵の振りが生んだものだからである。

克己、本部、郭、そしてバキそれぞれがこの技に驚愕し、讃える。本部は「羽毛が蹴った」と説明する。なるほど、そういう驚き方か。刀の振りに翻弄された羽がふわりと舞って顔面あたりにぶつかっても、痛いということはない。さて、バキがつかったときはどんな使い方をしていただろう。勇次郎のカカトに対応していたような気がするが・・・。あとで掘り返して過去の描写を見なければ。

羽に重量という矛盾、これが、バキの構えでなければ実現しなかったと、そういう感謝だったようだ。

武蔵のダメージは半端ではない。横たわり、ぴくぴくふるふるして、寝返りをうつのがやっとという感じ。こんなにダメージを受けているひとをバキ世界で久しぶりに見た。

観客はとどめをさせと烈にいう。もちろん烈もそのつもりである。傍目にはもう勝負ありなので、とどめを刺すまでもない。現代の格闘技の感覚でいえば一本とかKOに等しく、勝利を見込んで審判がそう宣言してしまうような状況である。しかし、あえて刺す。それが武蔵の武士道にも叶うはずだと、烈はそう考える。たしかに、実戦的な武士道という意味では、独歩がつねにそうであるように、勝負は最後までやってみないとわからない、したがって見込みの勝利などというものはありえない。ここで烈が帰宅してしまっても、独歩的な意味ではまだ勝負はついてないか、ついたとしてもあとでどうにでも覆すことの可能なものである。しかしどうだろう、いつか見たように、武蔵はむしろその逆をいく人間である。イメージ刀が象徴的だが、明らかにそうとわかる勝負については最後までやらないのが、どちらかといえば武蔵流である。その感覚は現代の競技的なものとは異なり、おそらく勝負をシナリオとしてみたときの見通しがわたしたちとはぜんぜんちがうのだ。つまり、武蔵が「敗れたり」とくちにしたなら、それが虚勢とかそれじたいで相手の動揺を誘うとかいった効果をねらったものでなければ、ことばのそのままの意味で、武蔵には相手の敗れる姿が見えているのである。


烈の一撃はたいしたものだった。しかしとどめをさそうとする烈を、本部は不安そうに見ている。なにかおかしいと感じ取っているのかもしれない。そしてそれは的中する。跳躍し、おそらく踏みつけでもしようとしている烈を、急に起き上がった武蔵が迎え撃ったのである。手には上体にたすきがけされていたひもが握られている。まずそれで首を絞め、一瞬のうちにてやあしまでぐるぐる巻きに縛ってしまったのだ。郭が事態を見抜く。武蔵のダメージはある程度のところまでは擬態だったのだ。




つづく。





烈が縄抜け自慢してるときのハマーみたいに小さくまとめられてしまった。たぶん最初にひっかけた首の結びも生きているので、動けないばかりかふつうに呼吸も難しい状況だろう。武蔵の逆転である。

武蔵のダメージは擬態だったようだが、とはいえ、さすがにあんな蹴りをまともに喰らってノーダメージということはないだろう。がくがくふるふるはほんものだったはずだ。が、だからといって反撃できないということはないというところだろうか。回復しつつ、そのままダメージを隠すことなくあらわし、相手を攻撃させて、カウンターで縛法と。そんな戦法については考えたこともなかったが、ふつうに向かい合っているふたりのいっぽうが紐をもって、さあ縛るぞと意気込んでも、かなり難しいかもしれない。相手が踏み込んできたところにひょいっと紐をだして膝なり首なり重要なところをひっかけてしまい、あれよあれよという間に結んでしまうというのが正しいところだろう。攻撃として縛法を用いるとしたら、カウンターがいちばんなのだ。だから武蔵は擬態、というより、ダメージを隠さなかったのだ。


ということで、今回は互いにカウンターの高等技術を見せ合う展開となった。烈は消力で武蔵の刀を無効にする。それだけならバキの構えをとることもなかった。しかし、ただ防御するだけではなく、そこから攻撃につなげようとしたとき、つまり回避の動作がそのまま攻撃になるような構えを考えた結果、バキの構えが出てきたのかもしれない。カウンターというのは、それじたい独立して、自律して機能する攻撃ではない。相手が攻撃してくるのにあわせて発動する、相対的な攻撃である。つまり、相手とともにつくりだすひとつの作品なのである。烈としては、げんにバキが同様の動きで蹴りを放っていたということが大きかったとおもうが、こう見るとたしかにバキの構えはカウンターにふさわしい。バキの構えにはさまざまな他者が宿っている。その意味では、バキじしんの核となるような技術や思想のようなものはそこにはない。勇次郎越えということを考えたとき、バキの行う闘争はどれも、勇次郎がすでに通過し、既知としてあつかうものをじぶんも知ろうとするというところに収束していったはずだ。バキにおいては、闘争というのは端的に学習だったのである。相手がどんな技をつかってこようと、ちからでねじふせる、空手で打ち倒す、というような、勇次郎を含めた他のファイターがもっている信念のようなものがバキにはなく、バキはそこから成長とじぶんにとっての未知を見つけ出すただそれだけのためにたたかってきたのである。そうしたスタイルが、構えにも宿っている。バキの構えの輪郭は、だから相手が存在してはじめて縁取りをはっきりとさせる。そのスタイルが「何でもない」ということが、その個々のたたかいにおける固有のありかたを導く基盤となっているのである。これは、たしかに相手の出方によって変化し、相手とともに創作することになるカウンターには向いている。

そして今回は武蔵もカウンターのような動きを見せることになった。あるいは紐に重しでもついていたり、そういう技術でもあるのならはなしは別だが、ごく当たり前に想像して、縛法は相手が向かってくるのを抱き込むようにしないと成立しないようにおもう。たんに捕まえたものを縛っておく技術としてならともかく、流動的なたたかいのなかで攻撃ないし防御として使おうとしたら、それしかないんじゃないか。しかしこれが烈のものと同様に相手との創作物かというと、なにかちがうような気もする。烈のカウンターは、武蔵の強烈な振りがなければ成立しない。しかし武蔵の捕縛は、烈の馬力がなくても可能だろう。このカウンターは、相手の個性を求めない、形而上学的な運動のみを取り出して制圧することの可能な、不思議な技なのである。その意味ではバキのようにたたかいを相手とともに共作していくようなものでもない。烈の回転蹴りは、武蔵の振りと同時に誕生するものだが、武蔵の縛法は烈の跳躍以前からくっきりとした技法としてすでに存在しているのである。こうした「上位者」の感覚が、あるいは武蔵のシナリオを見る眼力にもつながっていくかもしれない。経験の差か、あるいは独特の思想によるものか、わたしたちには見えにくいなんらかの武蔵独自の闘争観がそこにはあるようである。




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花組東京公演『カリスタの海に抱かれて/宝塚幻想曲』

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ミュージカル

『カリスタの海に抱かれて』
作/大石 静 演出/石田 昌也
人気脚本家・大石静氏が花組のために書き下ろしたオリジナルミュージカル。
舞台は地中海で最も美しいとされるカリスタ島。この島に生まれながら、数奇な運命に翻弄され、フランスで育ったシャルルは、カリスタ島を統治するフランス軍将校として、再び故郷に降り立つ。時はフランス革命前夜。シャルルには本国フランスの動乱に乗じて、故郷カリスタ島を独立させたいという密かな野望があった。島のレジスタンスの若者達と信頼をはぐくみ、野望は成就するかに見えたが、島の女アリシアの情熱的な愛がシャルルに向かったことで、歯車は狂い始める。
男が英雄になれなかったのは、一人の女を愛してしまったから…。愛と友情、そして故郷への想いの狭間で揺れ動く青年の葛藤をリリカルに描いたラブロマン。
なお、本公演は花組新トップコンビ明日海りお、花乃まりあの宝塚大劇場お披露目公演となります。


レヴューロマン
『宝塚幻想曲(タカラヅカ ファンタジア)』
作・演出/稲葉 太地

優美で繊細。情熱的で大胆。様々な魅力を持つ明日海りお率いる新生花組が織りなす幻想曲(ファンタジア)。宝塚歌劇百年の歴史が紡ぎだした伝統に日本古来の美をちりばめて、時にクラシカルに、時に現代的なビートで繰り広げるレヴューロマン。
なお、本公演は新たな演出を加え、台湾バージョンとして第二回宝塚歌劇団 台湾公演(2015年8月)でも上演いたします。





以上、公式サイトより









花組東京公演『カリスタの海に抱かれて/宝塚幻想曲』観劇。5月22日13時半開演。


明日海りおトップ就任から二作目。前作エリザベートで蘭乃はなが退団して、あらたに花乃まりあが娘役トップとなり、新生花組として仕切りなおしの公演というところになるだろうか。ちょうど数日前、今回のショーの演出を担当されている稲葉太地の『Mr.Swing』を見ていたせいもあって、蘭寿とむの時代とはずいぶん変わってしまったなあと感じざるを得なかった。華形ひかるがいないことには若干慣れつつあるが、ついこないだまでいた望海風斗や桜一花、それにセリフがなくてもつい目で探してしまう大河凛などが抜けて、ここからが明日海りおのリーダーシップの見せ所というところかもしれない。(明日海りおはそういうタイプのトップではないが・・・)


今回非常に残念なこととしては、美貌の華耀きらりの退団だ。花組の娘役は美人ばかり、それもいろんなタイプが充実しているというのはよくいわれることであるし僕自身そういう書き方をしてきたが、そういう印象の先端に立つような人物がこのひとだった。つまり、「花組の娘役ってほんと美人ばっかりだよね、××に、××に、××に・・・」という具合にあげていったとき最初に思いつくのがだいたい華耀きらりだった。個人的には、たぶんスポーツが好きとかそういうことだとおもうが、美しい筋肉の持ち主であることもまた好ましく(最近はそういう娘役も増えてきているが)、うたはともかくとしてもダンスのときなどはいきいきと楽しそうで、ショーではついつい目で追ってしまう娘役のひとりであった。それから、なにを着ても似合うというタイプでもあって、髪型も含めてどんないでたちで出てくるかということも毎回楽しみでもあった。これでまた「よく知っている花組」が失われるかとおもうとつらいが、まあそんな幼児的なことをいっていてもしかたないし、これからも花組は持続してみんな一生懸命やっていくのだから、応援していかなきゃなともおもう。


お芝居は『カリスタの海に抱かれて』。演出は石田昌也だが脚本が大石静となっていて、誰だろうと見てみると、もともとはテレビドラマ出身のひとで、宝塚では大空さんの三成のやつを書いたひとらしい。ストーリーとしては、宝塚では定番の設定であるフランス革命の裏側、同時代の地中海の小島を舞台としており、ナポレオンなんかも出てきて、当時の歴史に、というか地球の歴史にくわしくない僕としてはついていけるか途中で不安になったが、とりあえず人間の感情の動きを見るぶんには問題なかった。ただ、やはりナポレオンのフランス革命当時の位置がよくわからず、しかもなんか途中でウエストサイド物語のクインテットをおもわせるような、「革命」ということばをめぐるさまざまなことなるおもいが交差するうたの場面で、革命後のナポレオン政権を暗示する歌詞なんかも出てきて、当然そこには強い野心が感じられるし、演じられる柚香光がまた「強い野心をもった若者」という見た目なものだから、「敵」なのかとおもってひどく混乱してしまった。豪快な笑い声と「冗談がわかる」雰囲気は、おそらくこうしたことが要請したキャラ作りだったんだろう。


特に終盤の、明日海りお演じるシャルルが処刑されようとする場面で顕著だが、やや強引な展開もあり、「よくわからない」ぶぶんもけっこうあった。が、少なくともそこまではかなりこころを動かされながら観劇できたのは、花乃まりあの役柄と、明日海りおの表情が大きかったろう。明日海りおは、普段あんなぼんやりした人物であるのに、ことばに形容することの難しい複雑な感情を表情に出すことに長じている。そうおもったのはロミオとジュリエットのティボルトで、特にマーキューシオとの争いがもっとも深刻にヒートアップするところだった。それまでは、若者らしく、喧嘩を売るにしろ、怒ってみせるにしろ、ある程度「格好付け」のあったマーキューシオが、あるところから心底の怒りと憎しみをぶつけだし、泣き出さんばかりの勢いでくってかかるようになる。それを受けた直後のティボルトの表情であった。ティボルトにはまだ若干の余裕があるが、それをじぶんで意識できない程度に彼もまた感情を爆発させる。彼のばあいはたぶん女の子を侍らせるタイプの男前で、ナルシシズムみたいなものが(明日海りお固有の表現も含めて)かなりあった。それがかろうじて残っており、ひくひくとひきつった笑みを口元に浮かべつつ、いわばキレているのである。ポメラニアン的な攻撃的雰囲気と母性をくすぐるような無鉄砲さをよく表出していた美弥るりかも含めて、個人的には月組ロミジュリ屈指の名場面だとおもっている。

花乃まりあは、正直いってよく知らない娘役だったので、別段期待するでも不安におもうでもなかったのだが、想像以上に万事そつなくこなすタイプであった。上体がかなり豊かで多少骨太なぶぶんもあり、華奢ということではないのだが、まあそこは見せ方で変わっていくところかもしれない。担当されたのはアリシアという島の娘で、芹香斗亜演じるロベルトの婚約者でもある。が、アリシアにはその気はなく、新任の司令官である、外部の空気をまとった明日海りおのシャルルに、好奇心的な憧れも含めて恋をする。やがてシャルルは彼女が親友ロベルトの婚約者だということを知り、彼女を拒むことになるのだが、本作最大の見せ場はこの後の展開をおもうとやはりこの場面だったのではないかとおもう。アリシアのなかではぽんぽんはなしが進み、美穂圭子のアニータに指摘されるようにまだ彼女は「子供」であり、夢や理想が次々と語られていくのだが、それを前にし、そして拒否を爆発させるまでの明日海りおの表情はすばらしかった。青白くへらっと現実を笑いでごまかすのもアルジェの男を思い出させ、くどいようだがあんなに普段ぼんやりしてるのに、こういう表情はどこで見つけてくるのかなあとなんだかへんに感心してしまった。


舞台となるカリスタはフランスに支配されていて、もう何世代も前から住人は奴隷のようなあつかいを受けている。それが、28年前、アルドという男の独立運動で変わり始める。政府はアルドを処刑するのだが、このとき、じぶんの命日に生まれた男がカリスタを救うと予言する。それが、のちにシャルルと改名するカルロと、ロベルトなのであった。ふたりは幼いころ誓いあったような親友でもあるのだが(春妃うららがかわいすぎて悶絶)、しかしカルロの父親は仲間を売って、実質的にはアルドを殺したも同然であるエンリコという男なのであった。そうして、エンリコが渡るのについてカルロもフランスに行くことになり、今回フランス側のカリスタ担当の司令官として戻ってきたという次第である。細かな感情のゆれはDVDなどでくりかえし見てみないとわからないが、そのころにはフランス革命がいままさにはじまろうとしているときで、カルロ改めシャルルはカリスタのような支配体制もじきなくなるという感覚がごくふつうにあるのだが、現地担当の貴族たちにはどうも通じない。そうしたところで、相変わらず憎しみを原動力にして攻撃をしかけるロベルトたちと再会、そして好奇心旺盛で小さな島での暮らしにうんざりしているアリシアに出会い、血を流さない革命と独立の手助けをする、という筋書きである。

作品の最大のテーマはやはり広い意味での「故郷」である。それは、生まれた場所ということを示すとともに、じしんの存在の足がかりになる、自己同一性を保証する本質的物事ということでもあった。「本質」というのは、ひとことでいえば、どのような状況にあっても変化することのないしるしのことだ。そういう事情で、ちょうど「影をなくした男」を書いたシャミッソーのように、シャルルは「故郷」をもたない。カリスタでは、父がそんな歴史に残る裏切りものであるからいじめられるし、フランスにいったらいったで移民なわけである。居場所がない、つまり、じぶんの本質について語るときにいつでも空中で無作為の話題から開始しなければならない、そんな状況で自己規定をせざるを得ないシャルルがじぶんにとっての唯一の「故郷」を求める、たんじゅんにいってそういうおはなしである。結論からいってしまえば、シャルルにとっての故郷とはアリシアである。げんにそのようにシャルルがじぶんでいうのである。また、ナポレオンが、その直前にそれを示唆するようなこともいう。ふつう、故郷というのは「見つける」ものではない。もしそれがたんじゅんに「生まれた場所」ということであるなら、生まれている以上それも必ずある。さまざまな事情で故郷を失う、あるいはほんらい故郷であるべきものをそれと認識できないということはよくあるので、それを「取り戻す」ということならわかる。しかし、げんにカリスタを取り戻したあとでも、彼はそこに満足はしない。「女の胸は広くて深い」というナポレオンのセリフはそれを指している。そして、シャルルじしんが、明確に「見つけた」ということばでアリシアを故郷として認めるのである。ひとつには、これ以後展開されるであろうシャミッソー的旅の人生が、「新生シャルル」とアリシアの物語だということがある。これまでの人生については、とりあえずカリスタに置いていき、シャルルは新天地で新たな人生を歩もうとするわけであるから、彼の人生はそこで仕切りなおしされている。だから、新しい足場、新しい自己同一の方法としての故郷が必要になる、というのは順序が逆で、たぶんアリシアとともに生きるということが、ロベルトの手前ということやアリシアの好奇心などを含めて、カリスタでは実質的に不可能であるということが、シャルルを転生させたのかもしれない。だから、シャルルは火あぶり直前のところまで追い詰められるが、あれは原理の次元では実行されて、シャルルはあそこで死んでいるのである。したがって、シャルルが故郷を「見つけた」のも自然なことで、彼はこれまでの不安定な足場の人生を再構築するのではなく、根元から新しい人生を発見したのである。そういう意味では、なんだか宝塚らしくないというか、なかなか不思議なおはなしだ。ひとことでいってしまえば、カリスタのひとびとやロベルトの立場は?ということになるのである。

そうした違和感が、終盤の急展開でむしろ脚本が要請するしかたで出現している。何度ルサンクを読んでもよくわからないので、このことについてもやはりDVDでくりかえし見て、役者の解釈が入り乱れた空気で把握するほかないが、アリシアの件も含めてまた裏切られたと感じ、シャルルを殺す気満々に見えるロベルトが、特に段階的理解もなく、いきなり改心してシャルルを助けるのである。ググッてみたけどそう感じるひとは多いようで、僕の読解力の問題ではなさそうだ。現実的には尺の問題があったっぽいというのが多くのひとの見解である。ほぼ唯一といっていい改心の描写として、ロベルト以上にシャルルを殺()る気満々だった瀬戸かずやの名演セルジオが、そこの場面でロベルトに殴られたあとの状態であらわれる。いずれにしてもロベルトがどの段階で改心したのかは不明だが、もともと殺す気はなかったのか、あるいは作戦を立てるうちにセルジオと揉めるなりなんなりして気づいたかして、殺さない、どころか助ける作戦に変更になったようなのだ。


このロベルトの人物像だが、最初の場面の短い間隔で「借りを返す」というセリフが二回も出てくる。そして、中盤、シャルルを殺そうとささやくセルジオには、裏切られたんだから裏切り返そう、今度はお前が裏切る番だ、みたいなことをいわれる。この思考法は、彼らについてまわる「復讐」というキーワードを生むものである。それは、やられたぶんだけやりかえさないと、という等価交換の思考法だ。そこのさらに底のぶぶんには、じぶんたちが虐げられているというルサンチマンがあるだろう。やられたままでいるということは、トレードがフェアではないということである。それは、じぶんたちの虐げられている立場を認めることになるのではないかと、そういうおそれが、たぶん彼らのなかにはあり、それが、憎しみを原動力にして「復讐」を呼び起こす。これは例のクインテット的な場面で端的に彼らの立場として描かれてもいる。つまり、革命とは復讐のことだと。

けっきょくシャルルの「裏切り」など最初から存在しないわけだが、図式的にいえば、「アリシア以後」のシャルルはアリシアを基点にしてこれから生きていくが、「アリシア以前」を浮遊霊にせずきちんと成仏させるために、シャルルは「ロベルトの故郷」を取り戻さねばならなかった。同じ日に生まれ、誓い合ったなかである、彼らの役割は一心同体といってもいいだろう。リーダーはふたりもいらない、カリスタはロベルトに任せるというのは、そういうことである。このとき、シャルルが新生シャルルとなると同時に、ロベルトもまた転生している。それが、アニータを前にした覚悟の表明につながっている。これまでずっと「予言」にしばられ、不安だったのは、要するにそばにシャルルがいなかったからなのだ。しかし、ここでシャルルが成仏することで、ロベルトはシャルルと融合し、また「シャルルとロベルトの故郷」も取り戻すことで、予言されたリーダーとして完成する。それが最後のあの旗の場面である。つまり、じつはロベルトたちはシャルルに取り残されてはいないのである。彼らの知っている「アリシア以前」のシャルルは、ロベルトと融合してそこに残っているのだ。だから、カリスタのあるべきリーダーが誕生するためには、シャルルには転生してどこかにいってもらわなければならなかったのである。もしあそこでほんとうにシャルルが死んでしまったなら、転生は果たされず、故郷探しは中断して「アリシア以前」のシャルルはもう誰にもつかむことのできない世界に行ってしまっていた。以上、図式的すぎていやになるが、ロベルトの改心ないし転向は、そうした事情の要請したものだったのである。カリスタが真に独立し、予言通りの完全なリーダーを得るためには、シャルルとロベルトに分離していた人格が合体しなければならず、そのためにロベルトはどうしてもシャルルを生かし、アリシアを手放さなければならなかったのである。等価交換の思考法に基づいた卑屈な復讐心が原動力になっているうちは、これは達成できなかった。できることならそれがまちがっている、というかそれでは目的が達成できないということにロベルトが気づく決定的な場面がほしかった。


ロベルト役の芹香斗亜だが、まあずいぶん立派になってきたものである。もともとかわいらしいタイプの男役で、そういうタイプが同期に多くて、僕はわりとこの93期が好きなのだけど、しかしこの学年になってくるとそればかりでは不足である。まあそれは誰より演じているご本人のほうがよくわかっていることで、雪組の彩風咲奈もそうだけど、メイクなど通してそこでずいぶんもがいている。今回の芹香斗亜にかんしては男役の声がしっかりできてきたなという印象だった。それにともなってのことか、うたもだいぶうまくなっており、もともと好きな曲ということもあり、ショーのロケット手前の銀橋、What a wonderful worldでぐっときてしまった。


ショーは名作ミスタースウィングの稲葉先生だったので、かなり期待していた。まあショーでは毎度のことだが、部分的に意味不明なところがあり、全体の流れという点で見ても把握できているとはいいがたいが、総じていいショーだったんではないかとおもう。どういうコンセプトかわからないが、楽器では和太鼓が中心になって組み立てられており、冒頭はかなり違和感があったが、後半になってくるとふつうにかっこよく聞こえてくる。個人的には、これは芝居もそうだけど、桜咲彩花のあつかいが若干微妙になってきているのが気になるが、いっぽうで菜那くららがうたで活躍する場面が増えてきてもいた(ほんとに93期大好きだなこのオッサン)。初姫さあやから芽吹幸奈に連なる弦楽器的美声ポジションになってくれるとうれしいです。

今回は瀬戸かずやの単独階段降りや芹香斗亜の二番手確定などもあり、新生花組なのだなという印象。ひょっとしてシャルルの転生はそういう意味もこめられていたのだろうか。なんかだらだら長くなってしまったが、総合的にいってみんな素敵でした。無事に千秋楽をむかえられますように。




『ぼくらの民主主義なんだぜ』高橋源一郎

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■『ぼくらの民主主義なんだぜ』高橋源一郎 朝日新書






ぼくらの民主主義なんだぜ (朝日新書)/朝日新聞出版
 
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「大きい声より小さな声に耳をすませる。震災と原発、特定秘密保護法、若者の就活、ヘイトスピーチ、従軍慰安婦、表現の自由などを取りあげながら、壊れた日本を作り直す、絶望しないための48か条。著者の前人未到の傑作」Amazon商品説明より



震災直後の2011年4月からスタートした朝日新聞の論壇時評での連載4年分をまとめたもの。中サイズのブログ記事くらいのものが48本収録されている。

連載開始のタイミングからして、当然はなしの中心は震災と原発になる。そして、そのことによって露わになったとされているこの国の構造的瑕疵、現政権による憲法改正をはじめとしたさまざまな施策、韓国や中国との関係の悪化とヘイトスピーチ、そしてイスラム国などといった気分の暗くなる話題ばかりが並ぶことになる。震災が起きたことがそれほど国を変えたとはおもわない、と主張するひとであっても、たった4年のあいだによくまあこんなにいろいろなことが起こったものだという感想を抱くことだけは免れないのではないだろうか。

わたしたちはこうした事柄を前にして、どういう態度でいるべきなのか。4年もたっていながら、僕は未だにそれがわからない。たぶん、ほとんどのひとはそうなんではないかともおもっている。考えても暗い気分になるだけだし、できればこういうことは「なかったこと」として生きていきたい、という願望がどこかにあったとしても、それを否定することはできない、そんなような気分なのである。そのようにして、整然と考えをかためることのできない理由はおそらくふたつある。ひとつには、状況が素人には「よくわからない」こと、そしてもうひとつは、下手なことを口走ってネット上の「強い言葉」による呪いをかけられたくないということだ。


実際の新聞ではどのような体裁で掲載されているものかわからないが、時評ということであるし、その時期特有の出来事を、特に「論壇」と冠する程度には分析的に取り上げていくのが本稿なわけだが、では小説家・高橋源一郎はどうやってこの時代に接していったのだろう。最初の感想としては、このひとが信じられないくらいたくさんの本を読むひとだということは知っていたけど、ここまで網羅的に週刊誌から聞いたこともないような季刊の雑誌まで含めて、すみからすみまで目を通しているとは想像もつかなかった。小説家というのが普段どういうスケジュールで生活しているものか、特に村上春樹のように小説一本で食べていける純文学作家がほぼいないという現状ではずっとわからなかったが、シンプルに、たくさん読んでたくさん書いているのである。それが、小説家の仕事なのだ。

そして、そうした網羅的読書がもたらす効果といってもよいものか、あるいは小説家的感受性のあらわれとでもいえばいいか、この暗い話題について高橋源一郎がどう応えるかというと、延々とうなっているのである。もちろん、部分的に作者の強い感情の起伏が感じられることもあるし、態度が一貫していないということでもない。ひとことでいえば、原発はないほうがいいし、戦争してるより平和なほうがいい。しかし、そういう当たり前のことが、なぜか通らない。そのような、ひとことで要約したり、ある結果の原因をひとつのところに求めたりすることのできない、きわめて複雑に入り組んでいろいろな結果を生み出しているこの時代について、高橋源一郎が示しているのは、とにかくいろいろなひとの考えを読み、それに寄り添っていっしょに考え、うなり続けていくというものなのである。

やはり文章にかんしては日本屈指の達人なので、とにかく読みやすい文章で書かれていて、すぐ全部読めてしまうが、通して読み終えた感想としては、意外なことに、この国も捨てたものではないかもしれない、ということだった。ずいぶん上から目線の言い方になってしまうが、つまり、案外絶望ばかりというわけではないのかもしれない、ということだ。話題そのものは気分が暗くなり、場合によっては胃が痛くなってくるようなことで、実際それを絶望的なもの、暗い気分になるものとしてあつかいながらも、高橋源一郎はそれにあきらめずに取り組んでいく多くの、ほんとうに多くのひとたちの活動に触れていく。具体的な行動に出る若者から、懐古的に諭す戦争経験者、新しい理論でどうにか世界を説明していこうとする思弁的な学者まで、たぶん多くのひとが想像している以上に、世界は知的に健全なのである。そして、おそらく高橋源一郎においては、こうしてさまざまなひとのありように触れ、紹介し、じしんの考えを深めていくしぐさを開示することそれじたいが、小説家の仕事でもあるのだ。


記事の寄せ集めということもあり、ぜんたいとして大きく輪郭の明瞭な結論があるわけではない。というのは、そもそもそういう結論を安易に求めてしまうことが、わたしたちに事態を単純におもわせているからだろう。複雑なものは、複雑なまま理解しなくてはならない。世界が単純であれば、結論はたやすく導かれるのであり、そうした結論を認めないものは、そのごく単純な論理の過程が見えないバカモノである。たぶんそういう思考法がいま当たり前になりつつあるのだ。



「人々が攻撃的になるのは、視野を狭くしているからだ。世界を、広く、深く、複雑なものとして見ることを忘れないようにしたい。いま、強く、そう思う」207から208







動物記/河出書房新社
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今週の刃牙道/第62話

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第62話/ザンッ






武蔵の攻撃を消力で無効にすると同時に、バキが秘伝の回転蹴りをカウンターで武蔵の顔面ど真ん中に決めた烈海王。蹴りじたいはすさまじい一撃であって、武蔵はたまらずダウン、しばらく起き上がれない状態になった。たぶん、ダウンそのものにうそはなかったろう。が、最後まで起き上がれないというわけではなかったろうし、たぶん武蔵ではダメージがどの程度かというのは、生きているかぎりたいした問題ではないのだ。もぞもぞ死にかけのようにはいずる武蔵に烈がとどめの踏みつけをしようと跳躍する。が、それは武蔵の擬態だった。飛んでくる烈を、身につけていていつの間にかはずしていたひもでむかえるようにして首をしばりつけ、あっという間に全身ぐるぐるに結んでしまったのだ。本部が予言したように、武蔵は武芸百般、あらゆることに長ける。ふつう、現代で武芸百般と名乗るひとがいたらたいていどれもあやしいタイプだが、武蔵のばあいはすべて一流なのだろう。


観客の評価は、だまし討ちなんてきたない、というものと、一瞬で結んだすげえ、のふたつに分かれている。だましうちということについては克己をはじめとした手だれのものたちも揺れているようだが、傍目にはいわれてみるとだましうちだなというところで、べつにダメージじたいはほんものだったろうし、武蔵としてもタイミングをはかりつつ勢いよく起き上がったというところのようだから、微妙によくわからない。

「ひもで結ぶ」という、行為としては地味なものだが、烈は全然動けないようだ。僕だったら、骨がかたいからふつうに肩とかはずれてるかもしれない。手も足もふだんならないような位置に固定されていて、ちからも入れにくそうだし、まさしく技術という感じ。

克己は武蔵の不意打ちにドン引きしている。本部の評価は、武の次元がちがいすぎているというものだ。攻撃を受け、大ダメージを受けたそのことじたいも、即興で縛法に向けたシナリオのいちぶにしてしまう、そういう意味では、たしかにレベルがちがうともいえるかもしれない。結局のところ武蔵においてはsじぶんがどのような状態であっても、仮にダメージを受けて立てないような状態になっても、どうにかできる策があって、即興でも柔軟に対応してしまうのだ。「じぶんの状態」についての経験値がちがうというところだろうか。だまし討ちくらい、猪狩だって独歩だって、あるいは死刑囚の面々だって、みんな似たようなことはしている。しかし、武蔵ではだまし討ちがメインにはない。「汚いことも平気でする」から強いのではない。「汚いことがそう見えないほど内面化されているから強い」のである。ごく当たり前の、それこそ左ジャブをくりだすような日常として、それがあるのだ。


光成はこの結果を、烈に油断によるものと診断する。試合は始まり、そしてまだ終わっていない。したがって「不意打ち」というものは存在し得ない。ジャックは興奮してサングラスをはずしちゃったけど、渋川剛気は口を結んで厳しい表情をしている。達人もどっちかというとそちら側だもんね。


郭はちからなく「結束了(おわりだ)」と延べる。すごくがっかりしているみたいだ。倒されるでも斬られて死ぬでもなく、元気なまま動きを封じられてしまったのだ。武に生きるものにとってはあってはならない結末、敗北以下の敗北だという。なるほど・・・。


そんなじぶんの状況にがまんならなかったのだろうか、烈はじぶんを斬れと武蔵にいう。心境としては自殺に近いかもしれない。あってはならない結末をむかえてしまったじぶんを許せない、せめて武の試合の結末をむかえるものとして、斬られてこのたたかいを終えたいと、そんなところだろう。

しかし武蔵は烈に思い上がるなという。烈にはもう斬られる自由さえない。振り下ろされた斬撃の前に踊りだすことさえできないのだ。それを聞いて烈は「る・・・」「つ・・・」と静かに泣いてしまう。このひとはほんとうに感情が豊かだよなぁ・・・。


武蔵がたたかいを振り返る。いったいどれくらい打たれたのか。たぶんさっきの蹴りで鼻が折れている。打って打たれて、かわしてしばった仲である。武蔵はしゃべりながら、武器の山に突き刺したたぶん國虎を手にもどし、烈の背後に立つ。激戦を繰り広げたよしみとして、武蔵は剣を振る。斬ったのは烈を斬ろうとしたあの青龍刀である。縛法にうつるときに地面にさしたままになっていたそれを、武蔵が刀できれに斬る。刀を刀で斬っちゃったよ。武蔵がすごいのか國虎がすごいのかどっちだ。

武蔵は「斬って進ぜよう」という。國虎を手にとり、包丁がわりの青龍刀を壊したのは、そうしたよしみで全力で斬ってやろうということだろうか。


武蔵が刀を落す。最初の衝撃はひもと、烈の髪の毛にやってきた。ひもが切れて自由になった烈は、髪がほどけた状態で振り向く。烈は武蔵に斬られてしまうのか?!





つづく。





烈は斬られてしまうのだろうか。

烈には斬られる自由さえない。それが、郭のいう、「敗北以上の敗北」ということの意味だ。もう烈には、なにかを選択することができない。武蔵の考えひとつで、このまま放置されることもじゅうぶんありえるわけである。板垣作品に通してある強さの定義として、「わがままを押し通すちから」ということがある。餓狼伝では作中最強者の松尾象山がいっていたことだが、バキでは烈がそれをくちにしていた。烈はいま行動の選択肢を、つまり「意志」を奪われている。「意志」という語に、板垣先生なら「わがまま」というルビをふるかもしれない。もはや彼はなんらかの意志を押し通そうと行動に出ることすらできないのである。

そういう意味では、もう勝負はついている。烈対武蔵になってからひっかかっていることではあるが、現代格闘技がごく当たり前とする、審判やルールの判断を経由した「勝利の見込み」は、もうついているわけである。これ以上ないほど。格闘の究極の目的地が相手の完全な再起不能状態だとしたら、いわゆるKOはともかくとしても、あわせ一本とか、判定勝ちとかはほとんど意味をもたない。それは、「これはもう、勝ち(いっぽうの戦闘不能)同然である」と、審判やルールが判断することで、最後までやらなくてもよいようになっているのが近代格闘技なわけである。それも当たり前で、いちいち勝負のたびにかたほうが死んだり再起不能になっていたりしたら技術として普遍化できないし、ということは資本主義社会で生き残っていけないのである。直前に烈は、まさしくその「勝利の見込み」が見えている、這いつくばる武蔵に、むしろ武蔵に対する礼儀としてとどめをさそうとした。それもまた烈のプライドを傷つけることだろう。ここでもし斬られないと、形状としては同様に「勝負あり」の状況でとどめをさそうとしたじぶんの立つ瀬がないのである。

武蔵は「勝負あり」の状況を逆に利用して、油断を誘い、縛法へと持ち込んだ。ということは、烈がとどめをさしにいかなかったら、あるいは縛法は失敗していたかもしれない。まあ、そうなったらなったで、武蔵にはいくらでも方法がありそうだが、とりあえずいまのかたちにはなっていなかった。とするなら、武蔵のいまの状況は、「勝負あり」を認めず、とどめをさしに行くという一種のマナーがあったればこそ成立しているものである。筋としても、武蔵はこの烈を斬り、とどめをささないといけないことになるのである。

しかし通してある武蔵の達観が、そうはさせないような気もする。前回コメントで、お釈迦様とその掌で遊ぶ悟空という比喩をいただいたがまさにそれで、この関係はおそらく対等ではない。対等ではないからこそ、「よしみ」などという表現が出てくる。対等に、同様のルール、同様の思想で勝負をしているなら、よしみもなにも、武蔵はひとことも発せずとどめをさせばよい。しかしそうはしない。対等ではないからだ。わかりやすくいってしまえば、烈はほんとうによく健闘したし、じぶんもたくさん技をもらったのだから、じぶんとしても武の、つまり「最後までやる」格闘のレベルまでおりてとどめをさすにやぶさかではないと、そういっているのである。

ただ、気になるのは一度振り下ろした刀がひもや髪だけを切っているということだ。漫画表現ではよくあることで、このあと烈がゆっくりと真っ二つにならないとはかぎらないが、もしこの振りで切れていないとすると、武蔵は二度刀を振ることになる。そんなことに意味があるだろうか。でも、たとえばもし正面の皮膚だけを切るとしても、やはり二度振ることになるし、もしかしたらこの振りで烈は真っ二つになっているのかもしれない。


ただ、烈戦以前の武蔵をおもえば、斬らない可能性はかなり高い。イメージ刀に象徴されるように、武蔵は烈や、あるいは独歩が考えるような「武」の、要するに「最後までやる」方式をとってこなかった。「相手の動きが読める」というような予知能力的なものとは明らかに異なるその視界については未だ明らかではないが、それでもやはり武蔵にはわたしたちには見えていない一種の展開が見えている。だから、最後までやることはない。次回どうなるかで、武蔵の武術観が少し見えてくるかもしれない。





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雪組東京特別公演『アル・カポネ』

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ミュージカル

『アル・カポネ —スカーフェイスに秘められた真実—』
作・演出/原田 諒

禁酒法時代のニューヨーク、そしてシカゴを舞台に、貧しいイタリア移民から闇の一大帝国を築き上げ、歴史にその名を刻んだ伝説のギャング、アル・カポネ——。
アメリカが最も華やかだった、狂乱の20年代を生き抜いた多彩な人物たちの人生模様を背景に、愛と野望に生きた「人間」アル・カポネの鮮烈な生き様とダンディズムを、彼を追う捜査官エリオット・ネスとの奇妙な友情を絡めてドラマティックに描くミュージカル・ピカレスク。









以上公式サイト より。




雪組東京特別公演『アル・カポネ ―スカーフェイスに秘められた真実―』を観劇。赤坂ACTシアターにて。5月29日13時開演。






久々の赤坂。最後に観劇したのはたしかカラマーゾフの兄弟だったはず。彩吹さんがまだいたわけだし、もうずいぶん前になるなぁ。帰りにはTBSのショップにいって相方の好きなぐでたまのグッズをごっそり買って、なんとなくお出かけ気分を味わった。




演目は実在の人物であるアル・カポネを宝塚流にアレンジしたミュージカルで、主演は雪組2番手の望海風斗である。望海風斗は花組から雪組に異動してこれで2作目、僕個人はこのひとの主演作を見るのはこれがはじめてである。花組時代から馴染み深く、壮さんが退団されてからも引き続き雪組を追うのは、僕が個人的に好きなトップの早霧せいなと、このひとがいるからというのが大きい。なんとなく、「うちの子」みたいな感じがしてしまって(とむさんの時代を通して見てきて花組っ子としてすくすく成長した相方など、ときどき花組のことをまちがえて「うちの組」といってしまうくらいである)、なにか放っておけないのである。

というのは気分的な、情緒的な問題であって、実際のところ望海風斗は宝塚屈指のうたいてであり、耳目をひく華にあふれたすばらしいスターである。

カポネの奥さん役、実質ヒロインには大湖せしる。このひとは男役出身で、若い娘役には難しい力強さと色気を兼ね備えた稀有の美貌であり、美しすぎていつも直視できなくなってしまうほどである。そして、すみれコードとはまた異なるかもしれないが、ふつうの娘役ではできないような演出、たとえばこの前のルパンでいうと事故的に胸がもまれてしまうというようなことが、半分はジョークとしてもけっこう自然にできてしまうポジションというか空気もある。あまりこういう言い方は好ましくないかもしれないが、ごく標準的の男性目線としてみれば、ふつうの娘役が「架空の存在」であるのに比して、なんというか実体的であり、たぶんこのひとの舞台上の姿を目で追ってしまわない男性というのはいないのではないかとさえおもわれる娘役である。もちろんそれは宝塚の文脈に沿ったものではあるのだけど、現状そういうタイプの娘役は見たところいないわけで、貴重だよと毎度感じている。




演出は原田諒先生。毎回「聞いたことあるけどなに書いたひとだっけ」となって調べて「ああ、このひとか」となっている気がするが、僕らが観劇したものでいうと「華やかなりし日々」を担当されていたひとだった。ウィキペディアによれば1981年生まれで僕のふたつうえであり、ふつうに大劇場作品を提出している作家としてはかなりの若手だろう。華やかなりし日々も禁酒法の時代じゃなかったっけ。

原田先生の作品を(ウィキペディアで)振り返ってみると、最近では彩凪翔のゲーテのやつとか柚香光のツルゲーネフのやつとかをやっていて、まあどちらも見ていないのだけど、ふとおもったのは、たしかこのふたつって、ヒロインがそれぞれ今回の大湖せしると、同期の華耀きらりなのだ。ふたりともたいへんに美しい娘役ではるけど、もういわゆるトップ路線とかではないし、比較的年上の役が多くなってくる学年になっている。見てないので深入りはしないが、たぶんそうしたところに原田先生の脚本の原風景が見えているかもしれない。知らず女性的なものの母性に守られるかたちで成立する村上春樹的な男性のナルシシズムのことである。無意識なのか意識的に仕掛けているのかはわからないが、そのあたりから批評を展開しているひととかいないかな。考えてみれば1920年代から30年代にかけてのアメリカというのはスコット・フィッツジェラルドの時代であり、狂騒と、その反動の虚無と、幼いナルシシズムの時代であり、それは村上春樹の原型でもある。もしかして、そのあたりの文学体験が原田先生の作風を決定しているのかもしれない。村上春樹のたとえばノルウェイの森など、僕はヒットした時期に読んだわけではないが、現に十代のころに読んでいるわけで、手にとらせる時代的要請があったのかもしれず、だとしたらほぼ同世代の先生が愛読していたとしても不思議ではない。




さて、アル・カポネである。その類の研究書などを読んでいるわけではないので、ふつうのイメージの知識しかないわけだが、僕のカポネのイメージというと当たり前に『アンタッチャブル』のロバート・デ・ニーロである。望海風斗は花組時代のオーシャンズ11でベネディクトという悪党を演じたとき、イタリア・マフィアのしぐさなどを学ぶためにアル・パチーノやアンディ・ガルシアの映画をよく見たと語っていて、そこにデニーロの名前はなかったのだが、しかしベネディクトのときに見られた、なんというのかあれは、くちをへの字にして若干しゃくれつつ目を細めて引きつったような笑い方をするのはおそらくデニーロを研究した結果だろうとおもわれる。たしかその後の役がバサラの佐助で、これがニヒルな笑いを常に口元にたたえているような人物で、あのへんな笑い方癖になっちゃわないかな・・・などと心配したものだが、この笑い方はエリザベートのルキーニでも多いに生かされており、僕の見立て通りであるなら、ついに当のデニーロのはまり役であるカポネでその笑いを解放することになったわけである。

とはいったものの、デニーロの演じ出したあのカポネと、原田先生の構想したカポネは完全な別人である。カポネをめぐる逸話についてはぜんぜんくわしくないので、『アンタッチャブル』のどのあたりまでが真実だったのか、カポネが食糧難の民衆を救ったというはなしはプログラムの先生のはなしでは実際にあったようだが、そのあたりもどこまでがほんとうなのか、実体は模糊として不明瞭である。おそらくこうしたアレンジや想像をともなう創作においては、いくつかのまちがいない事実だけを保ちつつ、矛盾しない程度にどこまで飛躍できるか、ということが重要なのかもしれない。なんといっても本作ではカポネと彼を追い詰めた(と一般的にはされている)エリオット・ネスが親友になっちゃうんだから、たいへんな飛躍である。おそらくは、ふたりが「親友ではなかった」という証明がない以上、そうした解釈も可能である、というスタンスで、そこから宝塚流にアレンジしていった結果がこの脚本なのではないかと客観的には推測されるのである。

ただその推測にも理があるとおもわれるのは、極悪人でありながら、そのパンを配るというはなしもそうだし、いろいろ人間的なエピソードも満載だからだ。たとえばこの時代を彩るスウィングジャズが、不況下でも正常に演奏を続けていけたのは、カポネがジャズを愛好していたからということがあり、まだチャーリー・パーカーがあらわれる前の、即興演奏革命がはじまる前のジャズにおけるなにかふわふわ浮ついた、肉体と乖離したような感覚は、カポネの趣味なしでは成立しなかったらしいのである。デニーロの造形にしても、現代のインテリヤクザのようなしたたかさよりも、ネスに挑発されて怒り出し、いい年こいて殴りかかろうとするところなど、悪の帝王と呼ばれるようなイメージとは真逆の泥臭さが意識して練りこまれていた。副題にもある通り、本作の主題となっているのは「スカーフェイス(疵面)」と呼ばれたそのイメージの下にあった、カポネの真実の姿ということであった。その片鱗が各所でうかがえることはたしかであり、だとしたらこんな展開もあったかもと、おそらくそのように先生は創作していったはずである。




以上を踏まえて、原田諒とじっさいに演じられる望海風斗においてのカポネの造形は、イメージとのたたかいということになる。冒頭、キュートな永久輝せあ演じる脚本家が書いている映画のようなものは実際カポネの存命中からいくつかあったということで、「アル・カポネって要するにこういうやつ」というイメージが、当時もそしてデニーロを経験した現在も強くあるわけである。それが「スカーフェイス」というあだ名に象徴されていく。したがって、ここで望海風斗に課せられたことは、デニーロの酷薄な笑いを浮かべつつ、そうではないカポネを自然に引き出していくということだったのである。作中でもカポネはじっさいこのイメージとたたかう。パンを配っても、ひとびとは信用しないのである。カポネと友達になっちゃうネスにしても同様である。ただ、彼のばあいは過去にカポネに命を救われたという経験が、ある種のトラウマのように胸の奥底にくすぶっている。ネスを演じるのは月城かなと、どこか壮さんに似ている美しく凛々しい青年、じゃなかった男役で、このトラウマ的経験を抑圧するしぐさをよくあらわしていた。トラウマというのは、わたしたちの言語で語ることができず、にもかかわらずわたしたちの中心部にあってその人格を規定するような「ドーナツの穴」のことである。トラウマについて、わたしたちは「こういうトラウマがあるんだ」と語ることができない。というかそもそも、その「語る」という行為が、トラウマを迂回することで編み上げられていったものである、というのが内田樹のフロイト解釈である。ネスの造形はかなりのぶぶんアンタッチャブルのケビン・コスナーに近い。精悍な見た目もそうだし、融通のきかない正義感っぷりもまた似ている。ギャングたちは個々の人格問わず罰しなければならない存在であり、そこに慈悲や遠慮などあってはならない。しかし、げんに彼は若いころのカポネに救われるという経験をしてしまっている。乱暴な推測だが、ネスはこの経験を思い出さないようにしようとした結果、いまの正義漢になっているのだ。ギャングというのが絶対的悪だと信じているからカポネのことをなるべく思い出さないようにしているのではなくて、ここでは逆なのだ。なぜ彼がその経験を思い出さないようにしているのか、たぶん、ふつうに命の危険があったからということもあるかもしれないが、もともとギャング=絶対悪のような考え方それじたいは、捜査官になったあとほど強烈ではなくとも、それなりにあったのだろう。が、それまでの考え方を根底から変えてしまうような事件を命の危機ととも経験してしまった。彼の無意識は、そんなことがあるわけがないとその経験を否定し、トラウマとして処理する。そしてそれをたしかめるために、彼はよりいっそう強くギャングの悪に信頼をおくことになる。その過程じたいに、本作の主題である「イメージとのたたかい」ということがあるだろう。ギャング=絶対悪というのは、ひとことでいえばイメージである。だから、当然、ネスにおいてイメージを砕くという作業は、トラウマを解消することにつながっていく。トラウマを解消するということは、それを言葉にするということだ。しかし定義上それを語る言葉をネスじしんはもたない。「それはたぶんこういうことなんじゃないか」と物語を提案する分析医の登場を待たなくてはならない。その立ち位置が、たぶんカポネじしんなのだ。


カポネと再会したとき、まさか捜査官ですと名乗るわけにもいかないから、ネスはマイクという偽名と架空の人格で自己紹介することになる。このあたりもいかにも分析という感じで、患者と医者は基本的に「物語」を構築することでトラウマの穴を埋めていく。そのことにより、ネスのトラウマ的経験はじぶんのものではなく、ある物語の登場人物のものになる。そして、重要なのは、カポネのほうでも、このマイクという人格に感情移入するというところである。このとき、マイクという人物はふたりに共有された物語になる。だから、ネスの正体がわかったあともカポネはマイクの存在じたいがうそであったと認めないのだ。なぜなら、マイクは、ネスの架空の人格であるとともに、カポネの「あったかもしれない」カタギの人格でもあるからだ。

そうして、「物語」について、ここではむしろ患者どうしで「対話」することで、ふたりのトラウマは解消していく。ここにきてトラウマという用語はむしろ逆だったかなという気分になってきたが、「ドーナツの穴」くらいの意味で受け止めてもらえるとうれしい。これは、主題であるイメージの下の真実ということともつながっていく。ここでいう「カポネの真実」というのは、要するにネスをはじめとした大衆にとってのトラウマである。大衆の構築するイメージは、「カポネの真実」を迂回するように編み上げられていった。だから「スカーフェイス」を語ることばのなかには、「カポネの真実」を語ることばが存在しないのである。もっと分析的にいえば、大衆にとっては「悪」が必要であるという面があって、「アル・カポネには悪党であってもらわなければならない」という心理が働いていた可能性もある。だから大衆は、「カポネは善人である」という、やはりトラウマを、みずから用意するのである。




なんか予想しない方向にはなしが転がってしまった。だいもんをはじめとした出演者はすばらしいのだが、脚本が若干・・・というはなしは、各所で目にしていた。たしかに、ここまで考察しておいてアレだが、とりわけふつうに大好きな映画である『アンタッチャブル』がカポネの聖典である個人的事情もあって、なかなか、微妙な感想が出るばかりであったことは否定できない。が、望海風斗や月城かなとが表出しているものはまぎれもない本物で、だとするならなにか見落としがあるのではないかと推測してこんなところまで転がっていった次第である。

大湖せしるはくどいようだがすごい美人で、最初のほうのダンスなんかもう衝撃的な美しさで唖然としてしまったが、それが、子供を宿して年をとっていくにつれやはり母性を帯びてくる。妙だったのは、そのカポネの奥さんであるメアリーが、ギャングとしての夫を否定するわけではないけども、危ない目にはあってほしくないと正直に告げる場面で、これがなんかよくわからないままに流れるのである。そして、最終的にはカポネはメアリーと子供をおいて捕まってしまうのだが、母と子をおいて去ってしまうことはこの数年前のメアリーの願いに反するもののはずであるのに、そこについての指摘があまりないのである。やはりここには、男性にかわってリスクのある面を背負う母性と、意識的無意識的問わずそれを背に凛々しく立つナルシシズムの均衡がみられるようにおもわれる。そしてそれは、宝塚においてはある面では自然かもしれないとも考えられる。スカーフェイスのイメージのはなしともつながるが、宝塚歌劇のフランス的な非現実の華美さと、そこはかとなく感じられる如何物くささは、イメージの領域なのである。ラスト・タイクーン冒頭の、かっこいいスーツを着て足を組んで座っているだけの蘭寿とむの説得力はどんな物語にも勝る宝塚的表現だろう。そして、複雑な物語を介さず、一目でさまざまなことを伝えるイメージは、ほんのちょっとした想定外の事故で「真実」が流れ出てしまうものでもある。そうしたイメージの確立に、それを支える母性とナルシシズムは不可欠なのである。






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『動物記』高橋源一郎

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■『動物記』高橋源一郎 河出書房新社





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「「ことば」を奪われたものたちが、いま、立ち上がる。本日未明、政府は「開戦」を宣言しました。著者が「動物」たちへ贈る最後の書、刊行! 」Amazon内容説明より



このあいだの民主主義の新書の書評を書いたときに出ていることを知ってすぐ購入した。最近は文芸誌にもあまり目を通さなくなってしまって、こういう本が出そうな気配に気づけなかったりする。というか、高橋源一郎がふつうに、露骨に震災・原発関係ではない小説を書いていることじたいを知らなかった。


内容は短編小説で、いちばん古いもので2006年、最近のもので2013年夏のものまで、すべて文藝に掲載されたもの、動物に関係する作品ばかりを集めた作品集である。高橋源一郎は非常に自覚的な作家でもあるし、その新書のように小説以外の発言もけっこう多い。2011年以前のものは当然としても、だから震災と「あんまり関係がない」ところの小説が出るのはなかなか意外なことだし、うれしくもあった。もちろん無関係ということではなく、ことばとしても文中には登場するし、影のような不穏な気配を感じられないこともないのだが、でも冷静に考えると高橋源一郎というのはデビュー当時からずっとそんな感じだし、やっぱり「あんまり関係がない」くらいで読んでもそんなにまちがってはいないだろう。そして、現実を直視しなければならないとかそういう問題とはまた別に、息苦しさも当然わたしたちにはあるはずであり、すらすら読めてかつおもしろい高橋源一郎がまた読めるというのはうれしいことである。まあ、シリアスな話題でもこのひとのものはみんなすらすら読めちゃうけど。


内容としてはいつもどおりといっていいだろう。むかしからこのひとの小説はアニメや漫画のキャラクターがよく登場するが、どのキャラクターも必然性がまったくない。そのキャラクターを使用しなければならなかった理由というのがまったくないのである。だから厳密な設定というものも必要とせず、ほんとうに、ただその名前と、おおまかな性格や、ロボット系のキャラなら性能が引き継がれているだけで、ほぼ「記号」なのである。本作においてはその「キャラクター」が、パンダやアリクイや柴犬などの動物になっているといえばいいだろうか。ただ、それが「動物」である意味はおそらくある。高橋源一郎の小説からメッセージを抽出するということはそうとう野暮だろうけど、ここにあるのはつまり、言語というものの不全性と、そのことを自覚せず全能にふるまう人間たちの傲慢、というところなのだ。


高橋源一郎が登場人物にキャラクターをつかうのはどういう理由があったのだろうか。いろいろいわれているだろうが、その関連で思い返してみたとき、ふと、高橋源一郎の小説には名前のある登場人物が、少なくとも印象に残るかたちではほとんど出てきていないということに気づいた。漫画のキャラクターでなくても、デビュー作からほとんどふざけたような名前(「石野真子ちゃん」とか「ヘーゲルの大論理学」とか)ばかりだったし、頻繁にでてくる語り手というのがひとりいるけれど、それは「タカハシさん」なのであった。あとは「夏目漱石」とか「二葉亭四迷」とか「森鴎外」とか「金子光晴」とか。たとえば島田荘司には「御手洗潔」や「吉敷竹史」というキャラクターがいて、それぞれしっかりキャラクターの「履歴書」のようなものがあって、設定されている。高橋源一郎とは同時代といってもよく、当初の作風には近いところもあった村上春樹も、最近はふつうに名前が割り振られ、各自各様の人物設定がある。たしかに村上春樹も、『羊をめぐる冒険』くらいまでは名前が記号であるかのような描写は多かった。小説においては名前は顔つきに等しく、美少女キャラに「鬼塚」とか「鮫島」みたいな強そうな名前は、なんらかの意図でもないかぎりつけないだろう。初期の村上春樹がどういう意図だったか、たぶんいろんな論評が出ているだろうからいずれ見てみるとして、当初は主人公の名前がないことも多く、デビューからしばらくたって発表された『ノルウェイの森』では明確に「直子」とか「緑」みたいな人物が登場しつつも、語り手のワタナベはカタカナのままでしかもそう呼ばれるところを見逃してしまうとだいぶ名前がわからない、というふうな状況だった。この「直子」だけは、多くの論者が語るように重要な名前らしく、初期のころから見られるが、それ以外はやはりあだ名のような名前が多かったようにおもう。シャツに書いてある数字で呼ばれる双子なんかも登場する。おもうにこういう独特の、ポストモダン風の雰囲気が薄れてきたのは、『羊をめぐる冒険』ではまだ名前のなかった耳のきれいな女の子が、『ダンス、ダンス、ダンス』ではっきり「キキ」という名前を手に入れたときではないかとおもう。

とはいえ、その名前の記号的あつかいにかんしていえば、やはり高橋源一郎と村上春樹でも異なっていて、決定的なのは「鼠」である。鼠には、明らかに鼠固有の表情があり、それがふつうの名前と異なっているところは少なくとも表面的には見出すことはできない。たぶん、『風の歌を聴け』のじてんでは、高橋源一郎に近い動機が村上春樹にもあったのかもしれないが、作品を重ねるにつれてそれがなくなっていったのだ。

特にいま過去の高橋・村上作品を読み返してみたというわけではないので、あまり深入りはしないが、しかし高橋作品には「鼠」や「キキ」のような人物は登場しない。批評的な意味でいえば、鼠は語り手の影であり、厳密にそれらの作品が連作で、「鼠」がすべて同一人物であるということを保証するものではない、という言い方は可能だし、「鼠的」な人物というか影はその他の作品にも登場するから、やはりこれを記号とみなすことは可能かもしれない。しかし高橋作品に登場するたとえば「サザエさん」は、そうした議論さえ呼ぶことがない。別々の作品に「サザエさん」という女性がそれぞれ登場しても、それは互いになんの関係もないし、というかもはや日曜日の18時半にやっているあのアニメとの関係さえまったくないのである。

そういうふうに見てみると、高橋源一郎の小説は日本語的ともいえるかもしれない。日本語は言語学では膠着語と呼ばれて、くわしいことはよく知らないが、外来語などを取り込みやすい性格をもっているということである。それだけに、意味のよくわからない外来語をそれっぽく使いこなす、みたいなことが可能なわけだが、高橋作品のキャラクターは膠着語における外来語のようなぶぶんがあるようにおもえるのである。膠着語における外来語の濫用は、それじたいでは問題もあり、たとえばそれが原語とは異なった意味で流通してしまうというようなこともじゅうぶんありえるし、また意味が空洞であるぶん、それを自在に、また新鮮につかいこなすものに権威を与える、なんていうぶぶんもある(あんまり聞いたことのないビジネス用語をつかいこなす上司にビビった経験はないだろうか)。柳父章はこれをカセット効果と呼んだ。柳父章は特別な問題意識という意味でこれを取り上げてはいなかったように記憶しているが、カセットというのは宝石箱を意味しているということである。

高橋源一郎の「キャラクター」にカセット効果があるかというと、ここまで書いておいてあれだが、よくわからない。しかし、わざわざみんなの知っているキャラクターを持ち出しておいてその設定を全然守らないというのは、ただたんに意味の空洞な記号を名前のぶぶんに放り込む以上に、キャラクターを漂白させるようにもおもえる。


今回も、「動物」が用いられている、という点では意味が汲みだせても、個々の動物種に意味があるかというと、やはり空洞のようにおもえる。しかし、その空洞であることじたいが、公平性も感じさせる。通して状況のよくわからない『文章教室』では、ある年寄りの短い文章をくりかえし引用しつつ、どんな動物にも通用する文章、1時間しか生きないユスリカにも意味が通る文章というものを探究する。この年寄りというのはたぶん武者小路実篤だとおもうのだけど(ちがうかな)、究極に悟りきったこのことばを通して、言葉がいかに人間にとって都合よく設計されているか、また人類がいかにそのことに無自覚で傲慢に過ごしているかということが、冗談とも本気ともつかぬ妙なテンションでくりかえされていく。カセット効果は、そこに意味を、また権威を見出さないかぎりは、意味が空洞なままなので、公平性がある。なにものでもない動物がなにものでもないままに活躍する物語が記されることは、この理屈にとっては正しいのである。


高橋源一郎について深く考えすぎると妙なところにはまってしまうのでこのくらいでやめておくが、ともかく久々に軽く読める感じの作品集ではあったので、初めて読むひとにもおすすめできるかもしれない。もし長編がいいということでしたら、デビュー作の『さようなら、ギャングたち』が最高です。





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今週の闇金ウシジマくん/第374話

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第374話/ヤクザくん21









ハブや井森、獏木は滑皮たちの抵抗によって丑嶋拉致に失敗し、家守たちのほうでも、社長からの連絡で身を隠されたために柄崎たちを見つけられないでいた。家守はまだハブがどうなったのかを知らない。手ぶらで帰るのもかっこうがつかない、などと考えていたところに、最上が、辞めた社員である加納が、どうも大金をもってるっぽい、という情報をもたらしたのである。家守はマサルをうまくつかい、加納を拉致することに成功したようだ。



産婦人科から帰ってきた奥さん(麻里)は部屋が血まみれになっているのを見る。前回、駐車場にまだ車があったことから、ひょっとして彼らはまだすぐそばにいるんじゃないか、というか下手すると失敗したんじゃないか、とまで考えたが、部屋には誰もいない。背景画を使いまわしていたか、あるいはじっさい嫁が帰宅した直後にはまだ彼らがいたということだろう。

加納は例の拷問倉庫に連れ込まれ、しばられている。ミイラ男みたいにガムテでぐるぐる巻きになっているようにも見えたが、なんだこれ、服の柄か。

部屋に誰もいないので、麻里は当然心配して加納にメール(LINE?)で連絡をとる。それに、たぶん家守が、昔の債務者とトラブっただけだと応える。じぶんが捕まってしまうから通報はするなと。つじつまはあっているので、心配ではあるだろうが、麻里は信じただろう。

家守のはなしでは、部屋ではそれなりにもめたらしい。要するに加納がなかなか金を出さなくて、殴られて出血したようだ。しかし鼻や歯が折れたりしないかぎりあの量の出血はなかなかない。しかもなんか、ドボドボっていうより、一撃で血が飛散したって感じだったよな。ふつうに、なにか鈍器であたまをぶっ叩いたんだろうか。見たところ加納にケガはないが・・・。



家守が加納の頬にタバコを押し付ける。加納は目隠しをされているので、次になにが起こるのかわからないという恐怖もある。つづけて同じ箇所に氷をあてても、加納は同じく「あつう!!!」と反応する。家守は、目隠しをされていたらそのように勘違いするということを知っていてやっている。まあ年も年だし、そういう拷問をこれまで限りなくやってきたんだろう。

タバコをあてているときの家守は「ニタァ・・・」とサディスティックな笑みを浮かべ、氷をあてているときには呼吸をあらげている。氷が熱いわけはない。皮膚の感覚までコントロールして、ひとひとりの命の手綱を握っている感覚にひどく興奮しているのである。これは、いつか見たように、井森よりも家守に強くをあらわれているハブ的要素である。もしどちらかがハブを裏切るようなことがあるとすれば、家守だろう。



拷問は続く。目的は柄崎と高田の居所だ。読者としては一瞬妙な感じにおもわれるが、彼らはまだ丑嶋拉致失敗を知らないし、現時点でのミッションは柄崎と高田の拉致なのだ。

が、加納は「知るかよ・・・」と落ち着いた対応だ。じっさいに知らないだろうし、知っていてもそちらの事情なんて知ったことかと、そういうことだろう。マサルがそれを見て若干動揺している。いちおう、何年かいっしょに仕事した仲なわけだし、もしこのまま死ぬのだとしても、苦しい拷問は受けさせたくないというような感情が微量にでもあるのだろう。

漢字の「土」の字に組み合わされた鉄骨ごと巻かれている加納が押し倒され、顔にタオルがかけられる。家守はそのうえにどぼどぼ水をぶっかけ始めた。ウィキなどで調べてみると、たとえば殴ってじっさいにダメージを与えるのに比べて、水責めというのは溺死の感覚をたやすくあたえる方法であるということだ。顔を水槽につっこむだけだと息をとめて抵抗もできるが、たとえば逆さにして鼻や口にどばどばを水を流し込まれると不可避的に窒息状態になり、死の恐怖を覚えるのである。しかも傷も残らない。もっともシンプルかつ効果的で、むごい拷問といえるかもしれない。



家守はまだ嫁についての危害については言及していないが、ちょくちょく名前を出すことでそれを加納に思い出させている。加納はもうカウカウの人間ではないことだし、柄崎たちの場所をいえば家族全員助けてやると。



そこに電話がきたので、家守は最上と拷問をかわる。ハブからだ。家守が現在の状況を正確に伝える。ハブは、どこか遠くに逃げたようだが、車をおりてひとりでいる(立ちションしたあとがある)。丑嶋拉致は猪背組の邪魔が入って失敗した、獏木が向こうのひとりをやったが、こちらも井森がやられたと。ということは、車にひかれた井森は少なくともしばらく戦闘不能状態だが、獏木はいちおう立って歩いているということだろうか。すごい血出てたような記憶があるけど・・・。

とにかくそういうわけで予定がかわった、加納をつかって丑嶋を誘い出せという指示である。どこにいるかはともかく、丑嶋はいま猪背に守られている。「場所を聞き出せ」ではなく「誘い出せ」ということなので、ハブもおもったより冷静でいるようだ。

というわけで拷問の目的がかわる。家守は電話で助けを求めるよう加納にいうのだった。



丑嶋のそばには滑皮が立っている。水責めはそうとうな効果のようだ。柄崎のように社長のためなら舌だって噛む、というわけではなかったものの、加納の胆力も相当「カタギ」離れしているはずである。そんな加納が、助けを請う。しかしじぶんのためではない。じぶんはどうやってもたぶん死ぬ、だから嫁と子供をどうか救ってくれと、そのように丑嶋にたのむのであった。

電話をかわった家守はこんな12時迎えに行くから自宅にひとりでこいという。しかし、丑嶋は行かないと即答である。それどころか、逆にヤクザを脅迫する。加納は殺されるかもしれない、しかしもしそうなったならば、お前もハブも全員殺すと。



電話を終えてもぐもぐふつうにお弁当を食べている丑嶋を滑皮が黙って見ている。滑皮も、この件について丑嶋をどう考えているかはまだよくわからない状態だった。が、若干感情移入しているようなところがあるようである。こんなときによく飯食ってられるなという、以前なら「神経を疑う」というような語調であったはずのものが、いまでは「なぜ平気で食ってられるのか?」というような純粋な問いの語調になっている。表情も気持ち穏やかである。

丑嶋はそれに「今食っとかないと、いつ食えるかわからないっすよ」と応える。これから、のんびりお弁当を食べていられないような展開がやってくるということだ。それを受けて、それもそうだなとでもおもったのか、滑皮も丑嶋の横に座って例の汚い食べ方でがっつくのであった。









つづく。








ほんとに「ラディッツ襲来時の悟空とピッコロ」状態になりはじめていて、正直わくわくがやまない。これはあれじゃないか・・・これこそが「wktk」というやつじゃないのか?!



滑皮の丑嶋に対する感情というのは、実はよくわかっていない。丑嶋にとって滑皮は「いやなやつ」にちがいないだろうが、それはウシジマくんではヤクザ全般にいえたことであり、そうしたヤクザ的腕力をもっとも間近で、直接じぶんに向けてくるのが滑皮である、ということだけのようにおもえる。丑嶋の滑皮の感情としては、いつか殺してやる、というものである。ヤクザくんではこのセリフが丑嶋の筋トレ描写とともにあらわれていた。ぱっと見では、滑皮がもたらしたストレスを、トレーニングで発散し、また若干損なわれたかもしれないアウトローとしての自尊心を、その下部構造であるところの「筋肉」を鍛えるという行為を通して回復している、というふうに見える。ただ、不思議なのは、そのとき行われていた種目ラットプルダウンという、引きの動作によって背中を鍛えるものだったということである。ごく素朴に考えて、なぜベンチプレスやスクワットではなく、ラットプルダウンなのだろうとおもわれたのである。そのときの描写にはなかったが、滑皮との会話によればベンチプレスもあるようなのである。ストレス解消の目的だったり、あるいは比喩的に、身体に違和感を与えるような異物を排出するような意味合いを施すようなものだとすれば、やはりここは「押し」の動作、あるいはもっと爆発的にスクワットやデッドリフトで最大重量を挙げるほうがよいのではないかとおもえたのである。

以上のようなことから、あそこで丑嶋がラットプルダウンを行っているのは、滑皮に腹が立ってしかたなく、帰って服も着替えぬままマシンに向かい、それを種目として選択した、という流れではなく、たんにルーティンなのではないかと推測したのだった。筋トレをするひとというのは、回復の期間を計算に入れつつスケジュールを立てる。胸を鍛え、筋肉を壊して、それが回復するときに適切な栄養と睡眠によって、その筋肉は以前より大きく、強くなる。したがって、筋肉痛が残っている状態で同じ箇所を鍛えるようなことはしない。そうならないように、順番に全身くまなく鍛えられるよう、スケジュールを立てるのである。なにしろ僕はラットプルダウンをやったことがないので異論もあるかとおもうが、とにかくそれがストレス解消を目的としたとき最初に思い浮かぶようなトレーニングでないとしたら、もう、「この日が背中の日だった」としかおもわれないのである。しかし、「筋トレを行う」ということじたいは「ストレス」と接続可能である。要するに丑嶋は、筋トレに向きあうことで、ストレスを解消し、若干損なわれたアウトローとしての自尊心を回復するということを、“日常的に”やってきたのである。そして、さらに深い構造のレベルでいえば、特に滑皮を「殺してやる」とおもいつつ「引き」の動作を行うというところは、やはり象徴的ではあるのである。滑皮が与える精神的・肉体的負荷、これを引き受けたうえで、丑嶋は筋トレにおいてこれを反復しているのだ。これが、どこかフロイトのタナトスに似ているのだった。タナトスは、エロスだけではどうしても説明できない人間的現象が見られたとき、そういうものがあるにちがいないと想定された「死への欲動」である。たとえばごく単純に考えて、快楽が、気持ちいいということがすべての行動の源泉になっているという想定は、すんなり理解できる。わたしたちは快楽のために生きているといわれれば、そうかもしれないとたぶんほとんどのひとが認めるだろう。しかしときにひとは、それでは説明できない行動をとる。フロイトは戦争から帰還した兵士が、「思い出したくない記憶」であるはずの戦争体験を夢のなかでくりかえし反復する、という症例においてこの問題にぶつかった。戦争のことを記憶障害的にすっかり忘れてしまうというのならわかる。しかしそうではない。となるとエロス以外のなんらかの欲動が底のほうに働いていることになる。そのようにしてタナトスが想定された(というのが僕の理解である)。それは、ひとことでいってしまえば「死ぬ練習」であった。快楽とは反対にある不快で恐怖をもたらす現象、こうしたものに次にまた遭遇したときにも対応できるよう克服を目指す、そういう心理的機能のことなのだ。これは、おもえば筋肉の超回復とも似ている。あまりに重いダンベルやバーベルをあげるとき、筋肉はそのことで破壊され、次にまた同じような負荷が訪れたときにも対応できるよう、強く回復しようと努めるのである。筋肉痛とは、いってみれば身体における、脳がタナトスを原動にしてもたらす「悪夢」なのかもしれない。

なんのはなしだったっけ。そう、丑嶋は、そうしたタナトス的な原理で滑皮の要求を飲み込んできた。これがタナトスであり、同時に筋トレであるということは、つまり丑嶋は身体的にも精神的にも「次に同じかそれ以上の要求がきても必ず乗り越えて(引き受けて)みせる」ということを無意識に決意しているのである。どれだけ理不尽でも、ヤクザが上位であるというシステムを丑嶋は受け入れてきた。「筋トレ」は、表面的にはアウトローとして「いかにも強そう」な見た目をつくる仕事の一環であるとともに、深層構造では丑嶋のヤクザ社会に対する諦念を示してもいるのである。見た目とは逆なのだ。



しかし、本編では丑嶋に対立するのはそのヤクザである。今後の展開次第ではわからくなるだろうが、いまのところは、丑嶋の滑皮への殺意は、滑皮個人の人格に向けられたものではなく、ヤクザ全般に向けた無意識のルサンチマン(うらみ)がもっとも身近なヤクザを対象にしてあらわれている、というほどに読んでもいいだろう。逆にいえば、「理不尽な要求」に耐えられる精神と肉体を丑嶋が彫琢し続けているというふるまいからして、その要求さえなければ、あるいは滑皮への殺意もおさまるかもしれない。

滑皮サイドからいうと、今回はなにか感情移入のような表情が見られた。もとを正せば、原因は丑嶋にある。が、現状滑皮はそういうしかたで責任を求めようとはしていない。加えて、加納を殺せば皆殺しだ、というどう見ても本気の丑嶋の表情を見て、じぶんのなかにもあるなんらかの感情との符合を見たのだろう。丑嶋は家守に呼び出されたわけだが、いかないという。それにはいろいろな理由があるだろう。まず現実問題として「行けない」ぶぶんがある。問題はどんどん大きくなっている。単独の責任でどうかなることではなくなってきている。そして、加納は家守がいうように男前である。しかし男前だからこそ、丑嶋は出て行くわけにはいかない。じぶんが出て行かなければ、現在のところまでの犠牲は加納だけになる。加納もそれをわかっている。それが丑嶋にも伝わったから、丑嶋は動かない。しかしカウカウを離れたからといって見捨てるということにもならないようだ。じぶんが行かなければ、加納は殺されるかもしれない。が、もしそうなったら、同様に家守たちも必ず殺すと、本気でいっているのである。これは、通してある「やられたぶんやりかえす」というヤクザ的原則に近いものはある。熊倉などは特にその傾向が強く、ヤクザでは全人格そのものといってもいい「面子」を金で交換しようとするそのしぐさが、ひとを個人の特性ではなく量的に把握しようとする思考習慣に結びついているのである。ただ、この交換の思考法がもたらすものは、ある人物について「あなたでなくてもかまわない」と告げるということだ。人物を量で把握するというのはそういうことだ。これは、「あなたでなければいけない」と鳶田や梶尾に暗に伝える滑皮とは馴染まない。さらにいえば、中年会社員くんで描かれたように、マサルさえも含んだ社長のスタッフ観とも馴染まない。彼らはいつでもその仲間に、その役割はあなたにしかできないと、その行動で伝えてきたのである。そうした考えと復讐のような交換の原理はどのように交わるか。明らかなこととしては、もはやカウカウの社員でさえない「加納の死」は、丑嶋になんの損害も与えないということである。ところが、もしそれが殺されたなら、「加納の役割は加納にしかできない」ということを示すために、復讐する役を買って出ようというのである。これは同じ交換でも、エゴイズムに駆動された自己利益のための行動ではなく、彼なりの「あるべき世界」がまずあって、それを正すためにとられる行動にほかならない。その世界の「正しさ」というものは、ふつうに考えて保留されるべきことで、ひとによって正しさは異なるかもしれない。ともかく重要なことは、もはや無関係である加納についてそのようにいうことができる丑嶋の姿を、滑皮が見たということである。滑皮は熊倉のことを「むかしはかっこよかった」という。つまりいまの熊倉はかっこよくないということだ。くりかえし書いてきたことだが、滑皮には熊倉みたいに全員が自己利益のために動いていては組織は滅びていくということを直覚している。だいたい、それでは後輩があこがれない。あったとしても家守のハブに対する感情のように、「上に立つもの」の心地よさを求めてとってかわろうとするだけである。誰かが「かっこいい兄貴」を演じて継承していかなくてはならないと、滑皮は理解しているのである。それが彼の本心とどの程度近いものかはわからないが、いずれにしても、「かっこいい兄貴」たろうとする滑皮は弟たちを見捨てないだろうし、「あるべき世界」を求めて自己利益なしでバランスを正そうとするだろう。おそらくそこで滑皮と丑嶋が通じ合う可能性があるのである。



ハブはなんとか警察に捕まらずに逃げたようだ。やはりふたりの重傷者を引きずって車に乗り込んだんだろうか。獏木は無事っぽいが、どんなやりとりがあったんだろう。見たところやはりハブには井森を心配しているようなそぶりはない。まあ1コマしかないのでなんともいいがたいが、ブレてはいないようである。あらゆる意味で丑嶋と対立するハブだが、やはり問題は熊倉である。このまま孤立無援が続いたら、ほんとうに滑皮と丑嶋が組んでたたかうことになるかもしれない。wktkである。




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今週の刃牙道/第63話

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第63話/死闘





青龍刀のひとふりを消力で無効にし、バキのかまえがもたらす回転蹴りで武蔵にダメージを与えた烈海王。そこにとどめをさそうと跳躍した烈を、今度は武蔵がひもでぐるぐる固める。お気に入りの刀である國虎をぶら下げた武蔵が背後に立ち、微動だにできない烈の大ピンチなのだった。


武蔵はやはり斬る気でいる。最初の振りは、烈を巻いていた紐と、髪の毛を結びを切るだけであった。わざわざふたふりにわける意味があるのかというのが前回の疑問だったが、なんのことはない、縛法で制圧はしたが、武蔵はふたたび烈にさっきの回避と攻撃をやってもらいたいのである。まわってみせろと、つまりさっきのように刀を無効にし、攻撃をしてこいと、そう誘っているのである。あんなふうにかんたんに烈を制圧しちゃうくらいである、やろうとおもえばいくらでも烈を倒す方法はあったのかもしれない。が、なめていたのか油断していたのか、とにかく、ところどころでふつうにダメージを受けてきたことはたしかであり、意外性も随所にあったはずだ。武蔵は烈への敬意の表現として、完全な一撃を放ち、同様の回転蹴りに挑戦しようとしているのである。

背中を向けたままではあるが、すぐに次の振りがくることを烈が察知、正中線を抜けるような武蔵の気を霊感的に感じ取って、おそろしい一撃を迎える。要するに、さっきの一撃は包丁代わりにすぎない青龍刀によるものだったし、またおそらく、途中で止めたこともあって、武蔵の探究してきた「そうまでしなくてもひとは斬れるのに」といいたくなるような、刀を破壊してしまうような人外の攻撃ではなかったのだ。剣術についてはわからないが、振り下ろす瞬間武蔵のからだがういてしまっている。が、振り下ろしたときは大股で踏ん張っている。僕が高校の体育の時間、半分くらいサボりながらも学んだ剣道では、とにかく左の小指の握りが最重要というはなしであった。が、武蔵はいつもトップポジションでは人差し指にひっかけているだけでほとんど握っていない。そういう方法もあるようなのだが、こうすることでなにが起こるかというと、素手の打撃格闘技と同じことかもしれない。空手でも、打ち込む瞬間まで拳は強く握らない。人差し指はどうしてもきれいに畳むのが難しくなるので、経験的にはこの指だけ最初から握っているひとが多かったような覚えがある。で、当たる瞬間に小指から強く握り締めて親指でかため、ねじこむ。武蔵にも、たぶんどうようの発想がある。刀の重さと腕の振りで加速しつつ、相手に触れる瞬間からからだを抜ける瞬間にかけてもっとも強く握りこむことで、手の中でもさらに加速されるのではないだろうか。そういう考え方でいって、たぶん、特に真上から振り下ろすようなときは、体重ももっとものっている状態にするものなのかもしれない。刀が相手のからだを通り抜ける最後の瞬間に着地して、体重をのせるのである。


だいぶてきとうなことを書いてしまったが、ともあれ見るからにおそろしい斬撃である。こういう絵を見ると、板垣先生はやっぱりすごいとおもってしまうなあ。細かく見なくても、それぞれがどういう動きをしてどういう結果が生まれてくるのか、複雑なまま入ってくる。


烈も武蔵が本気の攻撃を放ってくることを予感している。そして、こここそが消力の本番だという。たしかに、さっきも刀の攻撃を無効化したし、それは常人には不可能な技なわけだが、しかし完全な攻撃ではなかった。ここの、この攻撃を回避することが、消力をもって防御とする今日のこのたたかいの本番だと、そういうわけである。

回転はとりあえずできた。そして義足による蹴りも放たれた。しかしそれを、どういう角度で放ったものか、武蔵は切り落としてしまう。義足の先端が宙を飛ぶ。まあこのやりとりの形状じたいは二度目だし、武蔵もあたまのなかでシミュレーションくらいはしていたかもしれない。


烈はいったん武蔵から退いて距離をとり、武蔵は刀をしまった。烈は呆然としている。バキとともに試合を見ている郭は、消力の敗北宣言をする、と同時にピクル戦で克己のありえない成長を目撃して驚いていたときみたいにまたメガネ(サングラス?)が割れている。あのときもよくわからなかったけど、これはどういう理屈で、またどういう描写の意図で割れているんだろう・・・。

が、烈の認識はちがう。呆然としているのは義足が切れてしまったからだ。烈は試合の三日前の対峙で、折れない義足にしてくると(光成を通して間接的に)武蔵に約束したのである。たしかに、折れはしなかった。義足が切れるという状況を想定していなかったのだ。それを、烈は気にしているのである。

話している烈の正中線から血が噴き出る。すごい出血量なので、どこまで切れているのかよくわからないくらいだ。とりあえず、おでこのすぐ上くらいから胸くらいまでは切れているようだ。深さはどのくらいだろう。さすがにおでこの切れ始めのところの深さをそのまま垂直に落としたら脳までいっちゃってるだろうから、表面1センチちょっとというところかもしれない。烈は消力が成功したと考える。武蔵も、唐竹割りにする気満々で、しかもそれが実際できたという手ごたえだったようだ。が、そうはなっていない。真っ二つに割れるよりは浅手なわけである。だから成功だと。

消力による羽化は成功したが、半分くらいは切られてしまったわけである。烈はもういちど斬ってくれと、両拳を地面について奇妙な構えをしつつ、すさまじい表情でいうのだった。




つづく。




いやあ、すごい展開だ。


切られはしたが、烈的には消力は成功だ。が、攻撃はかわされた。というか、攻撃に使用した足は切り落とされてしまった。これがじっさいの、ほんものの足であったなら、たんに片足が使えないということ以上にダメージは甚大で、さすがに戦闘不能になっていたかもしれない。そこが烈は気に入らない。もしじぶんが次の一太刀を回避し、攻撃をなして武蔵を倒すのだとしても、そこには一点の曇りもあってはならない。これは烈が武蔵を相手にすると決めたときからずっといっていることである。たんに生存する、あるいは武蔵を倒すということなら、まだ方法は考えられたはずである。しかし烈は、刀をもった武蔵と、互いに武器ありのルールで、しかも準備万端でたたかわなければ、仮に勝っても意味がないと、そう考えたのである。烈らしいといえば烈らしいし、これまでの彼の言動を知っているものなら、本部のように「そういうひと」というしかないわけだが、武蔵との関係も含めて、今回全体から感じられたことは、なにか両者が似たものどうしになりつつあり、ふたりで大きな芸術作品でも作ろうとしているかのような雰囲気だった。


もっとも興味深いのはやはり消力についての烈と郭の認識の違いである。まず最初の時点で、漫画的表現というか、あるいはじっさいに速い太刀で切られたらそうなるのか、それは不明だが、ぱっと見切れていない。たぶんバキとかほかの連中も、消力が成功したとはしないまでも、「・・・どうなった?!」というような認識だったのではないかとおもわれる。なにしろ、あとで切った義足はすでに飛んでいるので、皮膚的な時間感覚としても、「切れた」とは直覚できない状況ではあったのだ。

しかし郭は、まだ血が噴出す前から、消力敗北宣言をしていた。バキの意外そうな表情や、郭が烈の出血後も変わらず険しい顔つきであることからして、この敗北宣言が烈の出血にかかっていることは明白である。つまり、郭は切れたととらえたが、おもったより切れていなかった、という状況ではなく、郭はじっさいに出血した烈の傷のあの深さをもってして、敗北としているのだ。烈は致命傷を負ったわけではなさそうだし、武蔵は切る気満々でしかも手ごたえまで感じていたようだが、それをある程度無効にしたという点で消力の効果はあったわけだが、郭的にはそれではだめなわけである。烈の敗北ではないにしても、消力はこれで武蔵の剣に負けてしまっているのだ。

けれども烈はそうとらえていない。高らかに心中で「成功」と宣言しているのだ。真っ二つにしようと実行され、「消力を実行しなければ真っ二つになっていた」という状況でそれを防いだわけだから、効果はあったのである。ふたりの消力についての温度差は、それを技術の領域の高みを目指す、自己実現の表現としてあつかっているか、それとも、なんらかの別の目的に向けてとられたひとつの方法としてとらえているか、というちがいからきているのではないかとおもう。郭海皇の言動には、中国拳法のキャラはほとんど全員といっていいとおもうが、ナショナリズムが感じられる。中国4000年が、そして中国拳法そのものである自分自身が到達した領域、それが消力なのであって、完全無欠の奥義なわけである。郭には、まず中国拳法という主体があって、4000年という響きがもたらす説得力に裏付けられた信仰心のようなものがある。だから、4000年の奥義が真に達成されたなら、相手が宮本武蔵であっても負ける道理がないと、そういう自負心があるわけである。もちろん烈にもそういうぶぶんはある。というか、これまでは誰より烈がそういう人物だった。が、ここで消力は、烈にとってある意味道具のような、危機的局面を打開するためのひとつの方法になっている。ひとつの、というか、現状そこにすがるしかないのだが、しかしこのことで消力の完全無欠性が損なわれたとか、中国拳法の絶対性が揺らいだとか、そんなふうには考えていない。

そして、けっこうな出血でありながら、これを浅手と呼び、信仰心に近い心情で向き合う中国拳法の秘技がなかばまで通用しなかった事態に直面しながらこれを肯定する姿勢は、どこか武蔵のものに似ているのである。武蔵も、いかにも実戦派というか、多少のケガについてはほとんど気にしないようなぶぶんがある。武蔵の時代は文字通り一撃必殺だったろうから、これはむしろちょっと不思議ではある。そういう分析を以前した記憶があるが、刀を介している以上、ふつうに考えて勝負のあとは無傷で立っているか戦闘不能になっているかどちらかしかない。そうおもえたのだが、見ての通り武蔵はからだのかなりのぶぶんに古傷がある。そう単純なことでもないのかもしれない。

ともかく、現実として、武蔵はけっこうあっさり攻撃を受けてケガをするし、そして同時に、それをぜんぜん気に留めない。このくらいのことはごく日常で、立てないくらいの大怪我をしてからが勝負である、くらいのことは考えていそうなのだ。それは現代格闘技の、審判やルールが勝利の見込みを定めるさらにずっと先の次元である。幼年期のバキが花山とたたかって、互いに大怪我を負って認め合ったところにあらわれた勇次郎が、はじまったばかりというところか、みたいなことをいっていたことが思い出される。

つまり、技としては、点数をつけれるような状況での型としては失敗であっても、それを実践したという点でいって、烈はこの消力を成功だと、つまりこれでじゅうぶんだと見做しているわけである。そうした状況は、やはり武蔵的な、多少のケガはノーカウントの感覚がなければ成立しないようにおもわれるのだ。


そうして、おそらく烈は武蔵の武術観に近づきつつあり、また武蔵もそれを感じ取っている。おもしろいのは「今一度一太刀を」という点をふたりで確認しあっているところだ。烈としては、攻撃に失敗したにもかかわらず義足を切られてしまった、ほんとうならここで足が切られていたはずなのだ、だからいまのナシ、もう一回、というところだろう。そして武蔵としては当然、唐竹割りに失敗しているので、もう一回いまの回転に挑戦したいというところなわけである。目的は異なる。にもかかわらず、やろうとしていることは共通なわけである。烈は、失敗したら死ぬという条件で消力と攻撃を完遂したい、武蔵は、幾度か失敗しているあの回転をどうにか超えたいと、互いに太刀と回転を出し合うことを求めているのだ。おそるべきことに、利害が一致しているのである。最終的に求めるものは異なっても、互いに「その瞬間」を求めていることにちがいはないのだ。そこに、なにか大きな達成というか、類稀な経験を求めるような種類の動機が感じられる。郭においての動機は、じっさいにたたかってはいないわけだが、じぶんの中国拳法が宮本武蔵にも通じる、というところを証明したかったわけである。だが烈はもうそういう領域にはいない。中国拳法どころか、もはや「私」というものもそこにはないかもしれない。そういう、じぶんという存在を根こそぎつかってもなしえない何事かを、似たものどうしの共作で完成させようとするかのような、なにか超越的な意識のようなものが感じられるのである。





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NHK100分de名著 オイディプス王

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NHKの100分de名著は、取り扱う作品や番組を任せる講師のチョイスにセンスが感じられて、見たことはないんだけど、書店員としてテキストを販売しつつ、気になる番組だった。今回は、読んだばかり(というほど最近でもないけど)で、それ以前からもずっとフロイトなどを通して重要な作品として考えてきた『オイディプス王』であって、講師も島田雅彦という、よくわからない、逆にいえばどういう内容になるのか楽しみな組み合わせでもあったので、ついにテキストを買ってみた次第である(番組は見ていない)


折りしも宝塚歌劇団では夏に『オイディプス王』のバウホール公演が決まっていた。バウホールというのは、組をいれかえることで穴をあけることなく年間通して行われる本公演とはまた別の、選抜メンバーによる公演を行う小劇場である。本公演と本公演のあいだのある時期に、組メンバーがたとえばトップスターのディナーショーとか、全国ツアー組とか、このバウホール組とかにわかれることになるのである。今回は専科公演となっており、そこに若干の月組生が混じることになるようだ。いちおう説明しておくと、専科というのはどこの組にも属さない、おもに各組組長以上の学年のベテランが属する専門家集団のことであって、いろんな公演にいろんなかたちで参加することになる。僕が子供のころのイメージだと専科というとほんと最上級生ばかりという感じだったが、ちょうど宝塚を観ていなかったころ、新専科制度というよくわからない企てが立ち上がったことがあり、ときの2番手が全員専科に異動するという、デモ行進が起こらなかっただけマシとおもわれるようなこともあったようだ。2番手のファンとしては「もうすぐトップになれるかも」という期待を胸に劇場に足を運んでいるわけで、そこからトップとしてもどっていったひともいるようだけど、印象としては「飛ばされた感」がぬぐえないわけである。

そうした企てがいまもあるわけではないとおもうが、現状、いまの専科もまた僕がむかし知っていた専科ではなくなりつつある。ひとつには専科の頂上になにかこうトップ・オブ・トップみたいな風情で轟悠というひとがたたずんでいるのがあるだろう。すでにいちどトップスターとして務めを果たしてから専科に移ったという異例のポジションにあるのである。このひとはいまでも現役とかわらない輝きと技能をもっていて、そのたたずまいはもはや神仏の類に近く、こうした「専科公演」みたいなことをイロモノとしてではなく通常の枠組みのなかで行うことができるのである。さらに、星組の柚希礼音のあとを継いだのが北翔海莉であるのだが、このひともついこないだまで専科に属して多忙な日々を過ごしていた、技術的には現役トップクラスのタカラジェンヌである。ほかにわれらが華形ひかるや沙央くらま、星条海斗といった、ふつうにかっこよくて、うまくて、ファンもたくさんいて、まだまだ現役生としてやっていけるであろう学年のひとが専科に移るなんてことが頻繁に起こるようにもなっている。そうしたひとたちのファンとしては、このまま在団していてもどうやら「トップ」という感じではないっぽい・・・、ということはどこかで理解していたりもする。が、そのいっぽうで「もしかしたら」と、考えずにはいられない面もある。そうしたところで専科異動というのは、トップとして返り咲きという事例があったとしても、若干のガッカリ感は否めないわけである。わけであるが、それはそれとして、僕のばあいでは華形さんにどうしても感情移入してしまうわけだが、専科に異動することであらわれるよい面ということもある。たとえばこないだの星組風と共に去りぬのアシュレとか、ずっと花組にいてもたぶんなかったとおもうのである。身もふたもないが、一長一短なのである。


はなしがずれたが、その専科における轟悠をはじめとしたメンバーと、凪七瑠海などの月組生によるオイディプス王が行われるということである。いまはじめて配役を見たが、華形さんはクレオンを演じるらしい。神託によってライオス王に捨てられた赤子のオイディプスは、じぶんの出自を知らないまま成長し、じしんもまた神託をうけて(実は義理の)父母のもとを去り、そのあとで父であるライオス王を(やはり事情を知らないまま)諍いのあと殺してしまう。そして、じぶんとしては外国人のつもりで故郷のテバイにやってきて、スフィンクスの呪いを解いて空位の王座につき、母であるイオカステと互いに正体を知らぬまま結婚してしまう。クレオンはそのイオカステの弟、血縁的には叔父にあたり、真実を知る前の認識では義弟ということになる。そのイオカステは男役の凪七瑠海がやるようである。

今回このテキストを読んではじめて知ったが、ソポクレスのオイディプスには続編があり、目をつぶして放浪の旅の果てに悟りをひらくオイディプスを描いた『コロノスのオイディプス』というものがそれらしい。その時点ではテバイではクレオンとオイディプスの息子たちによる王位をめぐる争いがはじまっており、そうした野心もクレオンにはあることだろう。というか、ことがことだけに、これは役者の解釈力が問われる公演となるかもしれない。だって、ほとんどのひとは、知らずに近親相姦してしまったなんてことはないわけだし、それに似た経験もありえないし、それが目の前で暴露されたりという経験もないのだから。いきなり目の前でそんなはなしがはじまって、僕だったらいったいどんな顔をするだろう。

まあ、僕は8月が一年でいちばんいそがしいので、まずまちがいなく見にいけないとおもうので、DVDを待つことになるとおもう。出るよね?


さて、もはやなんのカテゴリの記事だかわからなくなってきたが、やはり非常に勉強になる一冊だった。島田雅彦によれば、父殺し、近親相姦、自分探し、貴種流離譚やファミリーロマンスにも通じる捨て子の物語などの文学的要素がもりだくさんであり、「起承転結」などの、物語を構築する基本中の基本がはじまったのもここであるということだ。映画や小説や舞台で、わたしたちが当たり前に目にする物語、作り手としてももはやそこまで厳密に意識はしていないであろう、ほぼ内面化されているといっても過言ではない構成の基本が最初に立ち上がったのが、本作だというのである。

人物関係や地図などもわかりやすく提示されており、もともとそんなに複雑なはなしではないのだが、さまざまなテーマが入り乱れているぶん、深く読み込もうとおもったら細かなことがしっかり理解できていなければならないわけで、その意味でも大きな手助けになる。読んでいた当時もおもったことだが、オイディプスはほんとうにいろいろな読み方のできる作品である。表層的なテーマを掘り下げるのもよいし、たとえば、オイディプスは「知らず」父を殺し、「知らず」母と姦通したわけであるが、だとしたら「知る」とはなにか、そして罪とはなにか、というような問いもたてられるわけである。知る前と知ったあとで、オイディプスがそれらの罪を犯したことに変化があるわけではないのだ。それでもオイディプスがじしんの目をつぶさずにはいられなかったことについて、当時の歴史的な事情や、作品が神話を背景に成立していることなどが無関係であるはずもなく、ほんらいの意味での批評はこういうふうにはじまっていくのだなと感じたのだった。





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今週の闇金ウシジマくん/第375話

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第375話/ヤクザくん22






家守に指示を出していたハブが、その同じ場所で獏木とはなしている。獏木はあのときに丑嶋に柱に頭を叩きつけられて血を出していたが、いまはピンピンしている。あれはなんの血だったのか・・・。

事務所から獏木の携帯に電話を転送していて、そこに熊倉から電話がかかってきたのだ。じぶんの都合のいいようにしようとたくらんでいる熊倉が行動に出始めたのである。まずはハブに電話して大久保プラザホテルに呼び出しである。具体的なことはまだ話していない。大変なことをしてくれた、裏はとれてる、という具合である。これは、無視、できないのかな。


家守の加納への拷問は続く。もともとは柄崎の場所を聞き出すためにさらったが、ハブの指示で丑嶋を引っ張り出す作戦に変更となった。じっさい家守は電話をかけさせたのだが、男前・加納は命乞いはせず、ただ妻と子だけは守ってくれというだけであった。丑嶋もそれをくんで助けには出てこない。要するに失敗である。

ハブからの指示があったのか、それとも家守の独断かわからないが、利用価値がなくなったとして、拷問は家守の趣味になっている。もう殺す気ではいるようなので、ハブからの指示があったのかも。それとも、「どちらにしても死ぬ」という加納の決意のことばを聞いて、なにかを引き出す目的での拷問はもう無意味、という判断になったのかもしれない。

次なる拷問はドライヤーを口につっこむというものだ。ちょっと想像もしたくないなあ。いったいどういう状態になるんだろ。

家守は、いまうちの若いのが加納の奥さんを迎えに行っているという。奥さんにも同じことをしてやるから、どのくらい苦しいかよく味わっておけと、じつに家守らしいことをいうのだった。しかし、これはどうもうそくさい。まずだいたい、ハブ組の若い衆というのがいままでにいちども登場していない。最上とかは全員この場にいる。そして、もしそういうのがまだいたとしても、家守が指示を出している描写がない。奥さんが自宅を出てすぐ家守は加納を襲ったので、それから彼らはずっといっしょにいるはずである。もし加納のいるそばで電話をしたのであれば、こういう言い方にはならないし、むしろその電話じたいを拷問の一環とするだろう。そしてそれも含めて、家守が加納のそばを離れてこっそり電話をする理由もない。たぶんこれは、そうやって加納をいじめていい気分を味わっているというだけのことだろう。


ただ、加納を殺すつもりではあるらしい。拷問動画と死体を丑嶋に贈りつけるという。その動画は、マサルが指をかみながら、なにかに耐えるように撮影しているのだった。


ハブと獏木がホテルに到着した。珍しい、ハブと獏木のふつうの会話だ。相手は敵対しているヤクザものである。大勢のひとがいるホテルのロビーとはいっても、なにがあるかわからない。獏木は、じぶんが盾になるから、うしろを歩いてくれませんかとハブにいう。しかしハブは取り合わず、前だろうが後ろだろうが撃たれるときは撃たれると、なにか達観した物言いである。そして、遠めに熊倉たちをみつけて「あいつだ、いたぞ」などと獏木にいっている。井森・家守のいやな感じしか目に入らずにいたが、ハブと獏木の関係は悪くない。ふつうに親分・子分しているのだ。


さて、いよいよハブと熊倉の対面である。熊倉の横にはスキンヘッドの男がひとり立っている。護衛だろう。ハブには獏木がついているので、ちょうど2対1になった。ハブは近くに獏木しかいなかったというのがあるけど、熊倉はやはりハブをすごくなめている。ハブだって、丑嶋ひとりをさらうのに3人で出かけたのだ。「そういう事態」にはならないと考えているとしかおもえない。このスキンヘッドの男がプロの殺し屋とかだったりしたらまだわかるけど。

ハブは単刀直入に用件はなんだと問う。獏木とスキンヘッドが静かににらみあうなか、熊倉はやぶから棒に1億もってこいとハブにいう。とりあえずは鳶田が撃たれた件についての侘びということになるだろうか。ハブの側からいえば、じぶんは丑嶋に殴られたぶんをとりかえすために出たのだが、むしろそちらが邪魔してきたのでこういう事態になった、というところだろうが、そうやって「そもそも」を探っていってもこういうことははじまらない。滑皮がとりあえずは「そもそも」であるところの丑嶋について特に触れず、ハブとの件を「自分の問題」に繰り上げているのも、そういう思考法によるものだろう。とにかく重要なことは、いま目前にある出来事のほうなのである。

だからハブは「知らねーな」としかいわない。証拠は?と問われ、熊倉は「ヤクザものに証拠なんかいるかよ」というよくわからないことをいう。これもまあ、そういう思考法の変形だろう。特に熊倉のようなタイプでは、その事態でじぶんがどれだけ得をするか、というふうにしか考えないので、よけいに「そもそも」がどうでもいいのである。

どこまで本当なのか不明だが、すでに若い衆がハブの本家をいつでも襲撃できるように待機しているという。うそくさいけど、猪背組はふつうに規模がでかそうだし、そういうことも可能かもしれない。じぶんたちはケンカじゃ引かない、じぶんもいつまで抑えられるかわからないと、なんだか定型文みたいな脅しかたである。要するに、本家が襲われるような事態にならないようせきとめている最後の砦がじぶんであると、そういうはなしである。そうなりたくなければ、言うとおりにしろと。

熊倉は続ける。幸い鳶田は生きているし、警察にもばれていない。いまならなかったことにできると。

それを聞いてハブの表情が変わる。しかし熊倉は全然そのことに気づかない。それどころか、今回のはなしはじぶんのところで止めてあり、上には伝えていないという余計なことまで付け加えてしまう。

ここで熊倉は丑嶋をはなしに出す。金は、鳶田についての詫びや見舞金としてではなく、丑嶋と交換ということでどうかと。ハブがそれを整理する。じぶんたちのあいだにはなにもなかった、ただ熊倉とハブのあいだで丑嶋を売買するだけ、そういうことかと。

ハブはとりあえず納得したふりをする。5000万円ならあるが(こないだ強盗したし)、今すぐ1億はむりだ。残りは丑嶋と引き換えに払うと。熊倉もそれで納得する。熊倉は内心、やはりハブを「経済ヤクザ」とバカにしている。じぶんがカマせばちょろいものだと。ふーむ、だめだこりゃ。


ハブが金庫まで案内すると称して熊倉を連れて行くのはどこかの廃墟である。いつもの拷問倉庫と似ているようではあるが、ちがうっぽい。熊倉はのんきに、こんなところに現金があるのかとかいっている。

もちろんあるわけない。熊倉の護衛が後頭部から血を噴出し、ものもいわずにぶっ倒れる。ハブが射殺したのである。




つづく。




対面したその週にいきなり熊倉の命の危機である。


今回の熊倉の見立ての甘さは相当なものだが、熊倉も常にここまで無防備ということはなかっただろう。丑嶋にやられっぱなしというハブの表面の情報だけを鵜呑みにして、ヤクザのプライドとか、じぶんならどうするかとかいうことをぜんぜん考えてこなかった結果、彼のなかでほんとうにハブがヘタレのイメージとして完成してしまったのだ。だから、ハブがなにをいっても、その裏の意味をくみとることができない。納得したふりもそのまま納得として受け止めてしまう。なぜなら、熊倉のなかではハブは「経済ヤクザ」だから。

そして、まさにこういうことが、ハブが丑嶋にこだわる動機でもある。熊倉がハブをなめきっているのは「丑嶋に反撃しなかったから」である、ということは、そのことによって同様のなめた態度をとるものが多数出現しても不思議ではない。熊倉はみずからの生命をかけて「面子を損なったヤクザ」がどういうあつかいを受けるかをわたしたちに示してくれているわけである。いろんな意味でハブが熊倉を許すわけがないのだ。


ハブは熊倉の「なかったことにできる」ということばを受けて表情を変えている。熊倉はそれを「勘繰っている」というふうに受け取った。「ほんとかよ・・・ほんとになかったことにできるのか?」と、ハブは考えていると熊倉は考えたのである。なぜなら、熊倉に見えているハブのイメージは銭勘定が得意なヘタレの経済ヤクザだからである。

しかしもちろん、ハブはそのように考えているわけではない。細かな思考はもちろんまだわからないが、とりあえず熊倉のいいようにさせるつもりはないだろう。


ハブは熊倉の言動のどのぶぶんに反応したのだろうか。警察にばれていない、またそのあとの、猪背の上層部に伝えていないということにかんしていえば、ハブに熊倉に銃を向けさせるきっかけにはなったかもしれない。とりあえず熊倉を始末してしまえば、あとはあの現場にいた、どうせ殺すつもりの丑嶋を含めたものたちだけが問題であることになるのだから。

鳶田が生きているということについてはどうだろう。あの事件の目撃者はたくさんいる。ハブがひとを殺したかどうかを気にするはずもなく、また鳶田が生きていようと死んでいようと、万が一警察沙汰になったとき、刑期はともかくとしてもじぶんが捕まることは疑いない。ただ、警察にはもれていないということはけっこう重要だろう。たしかに、あるぶぶんでハブは、あの一件を「なかったこと」にしたいかもしれない。しかしそれは、熊倉の考えるように、熊倉の手を借りて、金を積んでそうしたいということではない。なかったことにしたいけど、してもらいたいわけではない。熊倉は、たぶんあたまのケガも関係しているとおもうが、金で物事を解決するという典型的なヤクザの思考法がより強くなってしまっている。たぶんそういうのもあってこんなまぬけな提案をするのだろう。熊倉的な等価交換の原理がどこでも普遍的に通用するなら、そもそもヤクザがこんなに面子にこだわることもない。いつかも書いたように、面子とは「他者の評価する私」ということである。かんたんにコントロールできるものではないし、ブランド・イメージのように、損なわれたぶん取り戻すことは最初に積み立てるより難しい。単純にいって、ハブが丑嶋に殴られたぶんをとりかえすためにハブが丑嶋を殴っても、面子は取り戻せないわけである。そこをたぶん熊倉はわかっていない。あるいは、忘れてしまった。「丑嶋に殴られたじぶん」という過去を塗り替えるためには、それを圧倒するような、そのはなしがうそくさくなるようなエピソードが必要なのである。だからハブは丑嶋を殺そうとしている。ハブは丑嶋との件や滑皮との件を、ある意味では「なかったこと」にしたいのかもしれないが、それは、等価交換の原理で、等価のものをそこに埋め込むことで行われるのではないのだ。それはそれとしてもう変えることができないのである。


そしてまた、熊倉の「なかったことにしてやる」的な発言は、熊倉がハブを「なかったことにしようとしているヤクザ」と見做していることを示す。それはつまり、なんらかの方法によって、過去の失敗を埋めることは可能であると考える熊倉的思考法である。熊倉はまたハブを経済ヤクザとも呼ぶ。「経済」とはエコノミーの訳語であり、広くお金のやりとり全般を指すことばである。つまり、物事を量に換算して貨幣として流通させるその機能に基づくやりとり、これにしたがうものとしてハブを想定しているのである。熊倉は「経済ヤクザ」ということばをくちにはしなかったが、その言動から、じぶんがハブを経済ヤクザと見做しているということを示してしまっているのである。

僕にとってここのところが若干意外だったのだが、ハブも、むしろそうやってひとを量に換算するタイプのヤクザにおもえていたのだ。というのは、ヤクザ像について、まず滑皮があり、それに対するものとして、「滑皮的ではないもの」としてハブを想定してしまっていたからだろう。滑皮はヤクザ業界の現状の反動として、「かっこいい兄貴」を目指す。誰も彼もが自己利益を追究していたのでは、組織は滅びてしまう。もともと無法者の集団である、そこにある種の秩序を加えるために、彼らは親子関係の幻想を持ち込んできた。子が親を見て学ぶように、子分のものたちにとってのロールモデルとしてふるまわないと、彼らは兄貴にあこがれないし、あこがれがなければ、ヤクザにとって世知辛いいまの状況では若いものも入ってこない。これはべつにヤクザ業界に限らない。「こんな大人になりたい」というモデルがなければ、子供はいつまでたっても子供のままであり、世界は滅びてしまう。自己利益の追究は、ある意味その子供たちの抜け道である。それは、多くのひとたちは自己利益のためだけに生きているわけではない、という前提ありきで成立している動機なのである。この世の成員すべてがそういう行動に出れば、ホッブズが社会契約以前の人間の状態として想定した自然状態、つまり普遍闘争に陥ることになる。そうなると、もっともちからを、端的にいって腕力のあるものがすべての利益を独占することになり、当の自己利益が追究できなくなる。その強者にしたところで、そうした自然状態に同意してしまっているのだから、いつか必ず次の強者に駆逐される運命である。自己利益の追究とは、「自己利益追究のためだけに生きているわけではない大人」たちの庇護なしには決して成立しないのである。

ヤクザくんでは滑皮とハブが明らかに対立的に描かれているので、そうした描写もあり、ハブはそうした「大人」的位置とは逆ではないかと、勝手に推測してきたわけである。しかし今回の獏木との描写も含めると、そう単純でもないのかなとおもえてくるのだ。たしかに、ハブは、ちょうど自然状態時の強者のようにふるまって、井森や家守を屈服させてきた。それは、ひとを量として換算する熊倉的態度と馴染み深い。しかし今回わかったように、ハブは単純に等価交換で事態を把握しているわけではないのだし、当然経済ヤクザでもない。そして獏木との会話からは明らかにある種の親密さが感じられる。獏木はふつうにハブを、ちょうど梶尾たちが滑皮をそうとらえているように、「かっこいい兄貴」と考えているのではないか(髪形も似てるし)

そう考えて振り返ってみて、あるいはハブを暴君に仕立て上げたのは井森家守なのではないかと。まず、いまのヤクザ業界の不況もあって、井森家守には日常的に不満がたまっていた。そして肝心なときにハブは刑務所に入っており、丑嶋に反撃をしない。ことはそう単純ではない。カウカウにはケツモチがおり、まさにいまそうなっているように、行動に出れば面倒なことになる。だからハブはハブで考えがあったとおもうのだが、しかしイモリヤモリにはそう見えなかった。そうして、信頼が失われた。重要なのは、そのことによって、つまり井森たちからの「かっこいい兄貴」目線がなくなったことによって、げんにハブが「かっこいい兄貴」ではなくなってしまったということなのである。ヤクザは面子の生き物だという。「他者の評価する私」が、自己イメージそのものなのである。だから、イモリヤモリがハブを「かっこわるい兄貴」と評価するのであれば、ハブは彼らの前で「かっこわるい兄貴」になってしまうのである。おもえばハブがカウカウ皆殺し宣言をしたのは、井森たちが不穏な行動をとっているとわかったところだった。丑嶋ひとりの命ではたりない、全員殺さないと済まない、とするハブの意識は、まさに井森たちがそうした行動に出てしまうということ事態にもかかっていたのである。

その意味でいうと、獏木はある意味滑皮の逆側ということになるかもしれない。そんな透徹した視野の持ち主とはおもえないが、壊れかけているじぶんたちの関係を見て、せめてじぶんだけでもハブをしっかり「かっこいい兄貴」として尊敬し、立て続けないと、ハブ組は崩壊すると、そのように直観しているのではないだろうか。






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今週の刃牙道/第64話

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第64話/掴んでいる






武蔵の本気の斬撃によって義足を落とされ、顔から胸のかけての真ん中を切られた烈海王。烈的には、もしその義足がほんものの足であったなら、出血で戦闘不能になっていた可能性も高かったわけで、また義足であることに救われたかたちになり、それが気に入らない。もう一太刀ということでふたりは同意し、おそらく最後の接触に向かうことになる。


ダメージはなくても、義足はずいぶん短くなってしまったので、もう足としての役目は果たせない。烈は両方の拳をついて、ショルダープッシュアップ的な体勢で構える。しかし、武蔵の見立てではそれは構えではない。「狙い」がそのままに現れて隠されていない、いまからどうやって向かっていって、どうやって攻撃するのか、ひとめでわかるようになっているというのである。突撃するにしても片足の状態で、ここからどういう攻撃が可能なのか僕にはわからなかったが、武蔵には一目瞭然のようである。

そして、それはどうやら捨て身の攻撃であるらしい。斬られつつ攻撃するというような打撃のようなのだ。しかしそこまで見えている武蔵には、刺し違えるつもりなどない。

爆発力そのものは残った左足のみから出ていると見ていいだろうか。前足で調整することもできないから、ほんとうに前に進むだけの攻撃だ。烈が右拳を突き出す。それが、なぜかいつもの縦拳ではない。烈は崩拳と呼んでいたかな、掌や手の甲が左右を向くかたちではなく、直前の描写では脇のしたあたりに掌をやや上向きにして拳を置きながら、正拳のようにねじこんでいるのである。

武蔵としては、構えからして、そうやって全身をロケットのようにして飛んでくるということは見えていたのだろう。その先端を打ち落とすだけのことである。すばやく抜いた刀が拳に斬り込まれる。中指の真ん中を通るようにして刀が手首あたりまで食い込む。が、それ以上先にすすまない。そのことに武蔵がかつてないほど驚愕する。さまざまな思考が乱れてあらわれるほど、衝撃を受けている。生身の、ただ強く握っただけの拳の途中でじぶんの刀が停止してしまうとはおもってもいなかったのだ。拳の硬さや密度に驚愕する複雑な反射的思考のなかには、烈への敬意や好意、また若干の恐怖も見られている。こうしたあたりが武蔵の強さの原動力でもあるだろう。


烈は笑って、刀を掴んだと宣言する。が、こうなったらなったで、武蔵には無限に対処の方法があるのである。刀を拳に預けたまま深く沈み、膝のあたりにからだを当てたのだ。烈が刀を掴んでいるのだとしたら、彼の状態は前方下向きに引っ張られることになる。そうして生じた回転を、武蔵は烈の足を右手で跳ね上げるようにして増幅させ、空中に放り投げる。このときには刀は離れている。

あの速度の武蔵がこんな至近距離で自由になってしまったわけである。烈は回転しながら体勢を立て直そうと左足を地面に伸ばしている。着地は、ぎりぎり間に合ったのか、だめだったのか、微妙なところだ。武蔵の横向きの振りが烈の胴体を襲う。ぱっと見、消力は成功しているようでもある。が、烈の体からは血が噴き出る。


武蔵は烈がたしかに掴んでいると、こころのなかで認める。剣が当たり前には存在しないこの時代において、生身の拳を剣として掴んでいると。




つづく。





最後のコマには羽が切れている絵が含まれているので、消力は失敗したようだ。もともと、郭は少しでも斬られていたじてんでこれを失敗としていたが、多少の出血はあっても、武蔵の考えたとおりに運ばせなかったという意味では無効にしたといってもよく、烈はこれを成功と見做していた。が、今回は、羽の絵からして失敗ということのようである。おもえば、本部が喝破したように、武蔵の生きた戦国の時代におけるたたかいの結果は、生きて立っているか、死、あるいは再起不能になるかの、「ゼロか100か」だった。この「生きて立っている」というのが、無傷なのか、それともけっこう重傷なのか、わからなかった、武蔵のたたかいぶりを見ていると、刀のたたかいでも必ずしもくらえばおしまいということではなかったのではないかとは思えてくる。ともあれ、思想として「ゼロか100か」ということはたぶんある。それこそが、武蔵の、多少のケガはノーカン、というようなスタンスを導いている。

その視点でいえば、武蔵の斬る気で放たれた攻撃を多少受けつつも、「ゼロ」になるほどにはくらわなかったのだとしたら、それはやはり「無効にした」といってもよいのである。やはりもうこの時点では郭より烈のほうが武蔵の境地に近づいていたようである。

烈の攻撃は縦拳ではなかった。烈は、ピクル戦で、例のピクルタックルを受けるという、たぶん人生最大の一撃を必要とするときも縦拳を放っていた。今回も同様の一撃が望まれたはずである。しかしそうしなかった。それはおそらく、「掴む」ためだったとおもわれる。片足の攻撃ということもある、次の一撃の先端を武蔵は間違いなくとらえるだろう。そしてそれはおそらく、いままでの攻撃からして、上から振り下ろされるものになるにちがいない。このとき縦拳だと、4本の指をすべて落とされることになる。鍛え抜かれた拳の強度も無関係になってしまうかもしれない。だから拳を横にした。烈は最初からかためた拳に賭けるつもりで、それをとらえようと拳を突き出したのである。


烈はどこまで斬られてしまったのだろう。失敗といっても、いちおう烈は回転している。消力を試みてはいるのである。が、今回は着地が微妙だった。消力は、たんに全身の力をきれいに抜き去るだけでは成立しない。そうしたとしても体重ぶんの抵抗はどうしても残るからである。赤子が実行している脱力が高等技術たるゆえんはそこにあったと僕は考えている。要するに、複雑な戦闘の局面で、全身のちからを抜くのに加えて、相手の攻撃にあわせて体重ぶんの抵抗もたとえばうしろに多少跳躍するなどして相殺してしまうのが、消力の要諦だったのである。

これが、空中だと不可能になる。烈の足は地面についているので、あるいは間に合ったのかもしれないが、武蔵の攻撃を先ほど以上に無効化するほどには脱力できなかったのだ。

直前の絵では背骨まで切られているようでもあるが、これは回転をしているところなので、じっさいのところどこまで切れているのかは不明だ。が、最後のコマの出血は尋常ではない。さすがにこれは、死なないまでもさすがに再起不能かもしれない。武蔵の司るたたかいのレベルにおけつ決着がついたのである。


烈が死ぬとなると、じっさいかなりショックである。バキ世界では、明らかに死んだとおもわれる怪我をしたものがふつうに生きていることがけっこうある。たとえば加藤である。首にピアノ線を巻かれてプッシャーして、一晩サンドバッグのなかに詰め込まれていたのに、死にはしなかった。まあ、ドリアンがへんな優しさを発揮して、多少の処置はしていた、なんて可能性もないではないが、とにかく生きていた。また独歩の知り合いの闇医者や、鎬紅葉みたいな不可能を可能にするドクターも存在する。なので、なんとなく大丈夫のような気もしないでもない。しかし、そういう問題とは別に、不思議なことだが、いま現に烈が死ぬかもしれない大怪我を負っているのにもかかわらず、彼や克己がピクルとたたかったときのような、あるいはその加藤や末堂がドリアンとたたかったときのような、なにかこわさのようなものがないのである。このことは実はずっと感じていた。緊張感がないということではないのだが、烈みたいな重要なキャラが、あるいは死んでしまうかもしれないという、悲愴感というか不安感というか、それがないのである。それは、もしかすると彼らの実現しているたたかいの質によるものかもしれない。たとえばピクルとたたかったときも、食われるかもしれないという恐怖、そしてピクルの涙が意味するところの死ぬかもしれないという恐怖はあった。そしてそれは、彼らが望んでしたことであったとしても、なにかサバイバル的な意味合いが強かったのである。まさにピクルがそうした時代を生きてきたということもあり、たたかうことがそのまま生きることであり、負けるということは生の終わりを意味するということが、たたかいの外面にしっかり刻印されていたのである。だから、そのたたかいの外形は、彼らの生物としての存在をかけたようなものになった。彼らじしんがすすんでその場所に立ったということがことをわかりにくくさせているが、要するに彼らは、生きるということがたたかうということであった時代にみずからすすんで降り立ち、「じぶんは、じぶんの技術で生き残ることができるのか」ということを試していたのである。

しかし武蔵においてはそうではない。というのは、戦国時代であっても、勝利と生存は必ずしも等号では結ばれなかったからである。ある意味では、戦国時代における決闘というものは、烈たちがピクルを相手に描いたものとよく似ていたかもしれない。つまり、そうすることで、じぶんには生き残るちからがあるのかどうかを試そうとしていたのである。が、そうしないでも生きてはいけた。それは選択肢のひとつ過ぎなかったはずである。そして、だからこそ、その場所に降り立つものは限られたはずであり、当然技術は洗練されていった。もちろん、生まれというか家系などの問題もあり、これはことを単純にしすぎているとはおもうが、しかしたとえば農民とか商人みたいな生き方も、「選択の余地」があるかどうかに関わらず、ともかく存在していたわけである。個人の意志のレベルでどうかではなく、人類がシステムとして築き上げた人為的な存在価値のようなものに、すでにしてみずから「生き残り」の勝負にのぞむような意志が構造的に刻み込まれているのである。

それが、おそらく武蔵がホストとして構築する、今回のような試合の枠組みなのだ。そこにはたしかにピクル的な「生き残り」のマナーが存在してはいる。が、それは、人間が生物として好むと好まざるとにかかわらず参加しなければならないような性格のものではなく、人工的なシステムなのである。それだから、げんに命の奪い合いをしていながら、サバイバルというよりは技術戦のような雰囲気を帯びるのだ。生物としての存在価値の競い合い、というよりは、そうした道を選んだものたちのプライドのぶつかりあいというような色あいに、どうしてもなってゆくのである。


そして、そうしたありようが、ちょうど海外の目線が「サムライ」を見つめるときのような、若干のフィクション性を呼び起こす。げんに命の奪い合いをしていながら、それは存在をかけたなにか不可避で理不尽なものではなく、専門性を帯びたものになっていくのだ。だからといって烈が生き残るかどうかというのはまた別問題だが、どこかピクルのときのような追い詰められた感じがないのは、おそらくそうした理由があるのだ。





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スカーフェイスの新刊が6年ぶりに発売されたぞ!


5巻が出たのが2009年だった。遠い昔のことである。花山に重傷を負わせた作中最強の敵であるところのGM、これと、花山を慕う、花山なみの身体能力をもつレックスという男がたたかいを開始し、あまりにもレックスが強すぎるので、GMがそこに違和感を抱き始め、「これはひょっとして・・・」みたいなことを言い出し、なにかに気づいたのである。そこで連載が止まってしまった。あんまり大きな声で騒ぐのもアレだが、要するに先が出てこなくなってきてしまったのである。いちおう原作が板垣恵介となってはいるが、勘だがたぶんこれの意味するところは「花山薫」という人格や世界観を提供しているという程度の意味で、はなしじたいは山内雪奈生というひとがすべてつくっているのではないかとおもわれる。はなしができなくなってしまって、たぶん板垣先生や編集にはけっこうプレッシャーをかけられたとはおもうが、しかしそのスタンスじたいは板垣先生ゆずりで、要するに作者は登場人物といっしょになって世界に直面しているのである。この書き方は荒木飛呂彦も採用している。特徴としては、作者でさえ先の展開が見えていないので、物語がほかでは考えられないほどの一回性を帯びるのである。ジョジョで、主人公たちが敵の不可解な能力にぶつかって、対抗策を練っているときは、作者も、そして読者もどうするか考えているのであり、主人公がそれを思いつくということは作者がいまそれを思いついたということでもあり、わたしたちはそれを追体験することにもなる。そうした緊張感がスリリングなわけである。

が、この書き方じたいはリスクが高いものではある。ジャズの即興演奏でも、最初の一音からすべて即興というひともいれば、ある程度決めてしまっているひともいる。いちおう、ステージの前にはお金を払って聴きにきているひとたちが大勢いるわけで、そういうことも含めると、いくら真の即興演奏の緊張感がほかでは得られないものだとはいっても、なかなかそうもいかないところなのだ。だって、なにかのひょうしにあたまが真っ白になってしまったりしたら、もうなにもできなくなってしまうわけだから。(以下内容について触れます)


そうして、作者いわく広げた風呂敷をたたむことが難しくなってしまったわけだが、ついにその続きが描かれることになったのだった。読んでみた直観としては、この展開そのものは、あるいは当時から思いついてはいたのではないかということだ。本書でもまだ詳細は明かされないが(あるいはずっと明かされないかもしれない)、GMがおもいついたことというのは、このレックスが、体型やその強さからして敬愛する範馬勇次郎の息子、ジャックなのではないか、ということだった。もちろん、レックスはジャックではないので、これはまちがっている。つまり、6年前にGMがつくりだした壮大な引きは、早とちりだったわけである。でも、だとしたらこのレックスの強さはなんなのかというはなしになり、そこにこたえを見出さなければならない。それが鎬紅葉の人体実験ということだった。そして僕は、6年前の時点で、もしかするとこのことについては作者も考えついていたのではないだろうかと、そう感じたのである。レックスの強さは人為的なものであると。しかし、実はこのことについてはGMたちは知らされない。読者に向けて、光成と紅葉の会話が描かれるだけである。だから、要するにその人体実験の件を、GMとレックスの間に会話として入れることができなかったのではないかと。だって、GMは紅葉のことを知らないだろうし、レックスにも説明できないだろうから。GMがそれに気づいたとしても、まちがいないと確信できる機会が、この場にはないのである。そしてたぶん、それと並行して、レックスが範馬の系譜ではないか、というような連想もあったことだろう。しかしそれはそれではなしが大きくなりすぎるし、花山の立場がなくなる可能性もある。そういうところで葛藤した結果、書けなくなったんではないか。


アイデアのストックをしはじめたという可能性もあるが、しかしいまのところは相変わらずのすっ飛ばしかたで、5巻までと同様、バキ本編とはほとんど関係がない展開になってきている。外伝というよりは二次創作くらいに考えてもいいかもしれない。(本編以上に)強すぎる花山を求め続ける読者であるなら、6巻も相変わらずおもしろいだろうとおもう。少なくとも僕は、GMの薬がきれて抑えていた筋肉が膨らみはじめる、というある意味安っぽい展開も含めて、非常に興奮したし、スカーフェイスはこれでいいのだと感激した。このまま最後までやりすぎなくらいのとんでもない展開を続けてほしいです。






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今週の闇金ウシジマくん/第376話

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第376話/ヤクザくん23






丑嶋に殴られてなんの反撃もしないでいたハブを、経済ヤクザとして完全になめきっていた熊倉は、ハブの危険さを見誤ってしまった。金と丑嶋を交換するという条件を出して、のこのこハブのアジトについていってしまったのだ。護衛としてついてきたスキンヘッドはけっきょくひとことも発することなく、正面から描かれることさえなく額を撃ち抜かれて死亡、熊倉もその場で足を撃たれてしまった。

前回見たときはなにか奥まった場所のように見えたので、ちがうところなのかとおもったが、その場にぞろぞろと家守たちが集まってきたので、けっきょくいつもの拷問用の倉庫だったらしい。ハブはうめいて転がる熊倉を猪背のナンバー2だと紹介する。現状猪背組の二代目組長が鳩山で、そこの理事長が熊倉だった。で、鳩山のさらにうえにいる初代組長の猪背がいちばんうえのなんとかいうひとの引退でくりあがるので、いま三代目組長を決めようとしているところなのであった。このさきどう展開しても熊倉はちょっともうダメそうだし、もうひとりの候補であった鹿島は連絡がとれないというし、猪背組どうなっちゃうんだろ・・・。


ハブがそばに転がっている加納に気がつく。これだけではわからないが、くちにつっこまれているドライヤーはとまっているように見える。熊倉との移動時にハブが連絡をしたか、あるいはだれか聞いたことのない男の声がするとかで家守が気をきかせたかして、彼らはいったん引っ込んでいたのかもしれない。だとするとドライヤーは切られていた可能性も高い。さすがの熊倉もドライヤーの音に気づいて加納を発見したら警戒するだろうし、護衛の彼も黙ってないだろう。家守の言い方からしても、とりあえずいますぐは殺す気ではないようだ。というのも、今この場にいない最上が加納の奥さんをさらいにいっているのである。奥さんをいたぶれば、我慢強い加納も丑嶋の居場所をはくかもしれないと。それで前回の描写を見返すと、たしかに加納のそばには3つの人影しかない。家守と獏木とマサルである。この時点で最上はもういなかったのだ。気づかなかったな・・・。だとしたら家守が連絡をとる時間がない云々の前回の考察は無意味である。こそこそっと、そこらへんでいえばいいだけのことだから。

が、ハブは、それはもういいという。なぜならこの熊倉が丑嶋の居場所を知っているからである。加納宅の前で準備万端で待機していた最上が呼び戻される。そして、その車の横には戌亥。ニンジャみたいに車に忍び寄って発信機を貼り付けたのだ。しゃがんでキュッってやってるのは、靴ひもを結ぶふりをしているということだろう。まあそんなことしないでも戌亥は気づかれなそうだけど。戌亥はそのことを丑嶋にメールかなんかで知らせる。奥さんに関しては、いちおう顔見知りではあるのか、柄崎が説得して実家に帰らせたということだ。誰が中心になって指示を出してるのか不明だが、ともかく、たぶん丑嶋を通して加納がつかまっているらしいことが情報として共有され、奥さんは柄崎に任せ、戌亥はなにか動きがあるかもしれないということで実家を張っていたのだろう。


というわけで、発信機を搭載した最上の車が到着したところがハブたちのアジトである。丑嶋は場所がわかりそうだと滑皮に伝える。しかし、組織の人間である滑皮はだからといって勝手には動けない。そこに隠れていろという指示なのだから。はなしでは熊倉が上に相談するということになっている。しかしそれから誰からもなんの連絡もなく、滑皮は苛立っている。熊倉理事長はなにをやっているのだと。


なにをしているかというと、全裸にされてM字開脚の状態で縛られ、空中に浮いている。熊倉は震えているが、足の痛みからだろうか。あれほど武闘派風だった熊倉がおびえているということはなさそうだが、しかしなんのことばも発しないのはなぜだろう。それだけハブの迫力がホンモノだったということだろうか。


家守が配役をする。じぶんは監督、マサルは加納拷問に引き続きキャメラマン、最上は男優と。熊倉とヤれというのだ。当然最上は無理っすと応えるが、家守は女ひとり拉致れないようなやつは男とやってろと無茶苦茶なことをいう。最上はべつに拉致に失敗したわけではないのだが・・・。

それを聞いてハブは「ケツまくれ」と家守にいう。丑嶋ひとり拉致れないじぶんも男優だということだろう、だからドライヤーをつっこんでやると。以前にも見たことのあるやりとりだ。今回の家守はふてくされたようにして謝っている。たしか、獏木が肉蝮にやられた件で家守が責めたとき、それはおれのことかとハブがかみついたのだった。


最上は倉庫の隅で吐いている。これは・・・もう終わったのだろうか? 一見した感じでは、これからやることを考えて気持ち悪くて吐いているようにも思える。ノンケの男子としては正常な反応だろう。しかしどうだろうな・・・。そのひとつ前のコマで熊倉をじっと見てるのは、これは最上だろうか?みんな同じかっこうだからわからん。もし最上だとしたら、もうコトは済んだのかもしれないな・・・。熊倉の体勢からしても服を全部脱ぐ必要はないわけだし。熊倉はともかくとしてもノンケの最上はいったいどうやって・・・。

完全に死んでいる熊倉の手下を見てマサルが若干動揺している。もし最上が最後までやっていたとしたら、そのことも動揺を誘っただろう。ハブはふつうの神経ではないし、敵にまわしてはいけない。そう考えたのかもしれない、マサルは獏木にじぶんもハブ組の盃をもらえないだろうかとたずねる。要するにハブ組にヤクザとして入れてくれないかということだ。現代のヤクザ業界は若者不足というはなしであるから、ふつうだったら、マサルくらいの腕っ節と知恵があれば、受け入れてもらえそうだ。しかし、獏木は一拍おいて、ハブにきかないとわからないと応える。それを聞いていた最上は、じぶんがあんなことをやらされた(あるいはこれからやらされる)というムカツキもあってか、お前みたいに仲間を平気で売るやつが盃をもらえるわけがないだろという。獏木はその最上を「余計なこと」をいうんじゃないと叱りつける。「余計なこと」とな。


獏木はなんでもない感じを取り繕う。そのときにマサルの携帯が鳴る。肉蝮なのだった。




つづく。




うーん、毎週激動だなあ。


しばらくヤクザどうしの駆け引きに終始していたが、ここでようやく真性の肉蝮が参加してくるようだ。肉蝮のことだから、別にたいした用事ではないかもしれない。が、マサル的にはじぶんが肉蝮と通じていることを獏木に知られるのはマズイ。なぜなら、獏木は肉蝮のことを殺したいと考えているからである。なんか最近のごたごたでうやむやになっているが、井森たちからのプレッシャーで、獏木は近いうちに肉蝮を片付けなくてはならないのだ。それを、丑嶋打倒のためとはいえ組んでいることが知れたら面倒なことになる。獏木の件を含めて探りを入れている、とかいう言い訳でもするつもりだろうか。肉蝮にかんしては、誰もがそう考えただろうけれど、なんでマサルはわざわざあんなのに接触したのかということがある。ハブ組と通じているということがわかってからはなおさらだ。たんに丑嶋を倒すのに戦力不足だということであるなら、ハブ組でじゅうぶんのはずである。マサルのばあいは、丑嶋を殺したいといっても、ハブのように「殺す」ということばの動詞的なぶぶんが重要なわけではない。勝手に病死とかされても無価値かもしれないが、特段自分自身の手で殺すことにはこだわっていなかったはずだ。始末できれば、それもなるべく来るしんで死んでくれれば、けっきょくはそれでよかったはずなのだ。だからこそハブ側についた。あちこちにねらわれてカウカウじたいが存続が危ういと読んで、なかでももっとも強力な勢力であるハブについた、とも考えられる。いずれにしても、常識的に考えてそれでじゅうぶんなのである。ハブはヤクザなのだから。それなのになぜわざわざ、ふつうの会話を続けることさえ困難な肉蝮なんかと接触したのか。考えられたこととしてはとりあえず「漁夫の利」である。


現状のマサルは丑嶋を殺すという動機とそこから派生した展開に縛られている状態ではあるが、目標としては、丑嶋のようなアウトローとして大きな存在として、自立して歩きたいということがあっただろう。なにしろ、マサルは丑嶋の量的縮小、「小さい丑嶋」なのである。愛沢の件で文字通り「一度死んだ」マサルは、直接それを救出した高田を母とし、生きていく技能を間接的に授けた丑嶋を父として転生し、現在の生を確立している。だから、もしマサルがアウトロー的技能を用いて丑嶋を葬ろうとすれば、腕っ節や交渉術、取立てのしかたや人脈はもちろん、たとえば獏木みたいなヤクザとも対等にやっていけるような表情なども含めて、それらはすべて丑嶋が与えたものであるから、結果として彼は丑嶋的技法で丑嶋を殺そうとすることになる、というのはこれまでもくりかえし見てきた。そして、彼の丑嶋打倒の動機は、ただ利害関係の結果ということではなく、復讐である。コンテナでどこかへ運ばれた盛田を経由して、マサルは丑嶋を殺すことを決めた。盛田がかわいそうじゃないのかと問うマサルに、丑嶋は「奴に生きる価値あるのか?」と応える。それを受けてマサルは「あんたも地獄行きだ」と応えたのである。そのときの感想でくわしく調べたが、この「あんたも」というのは「盛田に加えて丑嶋も」という意味だ。ひとの生きる価値を誰かべつのものが勝手に決めていいわけがない。それを行う丑嶋を、今度はマサルのほうが「生きる価値」なしと評しているのである。マサルは意識していないだろうが、そんなふうにじぶんの価値観にしたがってひとの生きる価値を決めてしまうような冷酷な丑嶋と、まったく同じように、マサルは丑嶋の生きる価値を決めてしまっているのである。だから、「ひとの生きる価値を勝手に決めてしまうような人間に生きる価値はない」と、若干の正義感さえこめて考えた瞬間に、実はマサルじしんも「生きる価値」を失っているのである。丑嶋を否定し、殺そうと考えるということは、マサルについていえば自己否定にほかならないのである。もちろんこれは無意識のはなしなわけだが、マサルがこころのどこかで、じっさいに自分自身のありかたを否定している可能性はある。それが、いつまでも昔のはなしを持ち出してと高田あたりからいわれそうなくらい執拗に丑嶋復讐を誓うマサルの原動力になっているのだ。


はなしはそれたが、ともかく表面的には、マサルは丑嶋を否定する。真実それが自己否定であったとしても、とりあえず彼には丑嶋を超えるという目標じたいはむかしからあった。そうしたときに、たとえばハブを利用して丑嶋を殺しても、丑嶋のようなポジションにじぶんが立てるかというと、かなりあやしいのである。ハブ組がケツモチになったらなったで面倒だし、できたら、丑嶋を片付けたあと全員消滅してくれないかな、とおもうのがふつうの人間だろう。そこで肉蝮なのではないかと。肉蝮が、獏木みたいな下っ端ではない、ハブ・滑皮レベルのモノホンのヤクザと接したときどう出るかは、まだわからない。たぶん三蔵ならなにも変わらないとおもうが、肉蝮には三蔵よりはまだ知性がある。しかし、筋肉信仰の強い彼であるから、組織とか、その後の報復とかいうこともあまり恐れない可能性も同様にしてある。だったらその組ごと皆殺しにすればいい、とか本気で言い出しそう。マサルはそれを期待しているのではないか。おもえば、そういうつぶしあいみたいなことは、丑嶋も年中やっていた。これもまた丑嶋的スタイルなのである。愛沢や鼓舞羅はそうやって片付けてきたのだ。


ただ、今回引っかかったのは盃をもらえないかという件である。マサルはヤクザになりたいのだろうか。そういうわけではないだろうとおもえる。ひとつには、ハブのおそろしさを目の当たりにして若干ビビッたということがあるだろう。そして、マサルもこの世界は長いわけだし、多少の不安を感じ始めたのかもしれない。問われて、獏木の態度は少し冷たくなっている。最上とのやりとりからしても、獏木はなにかをマサルにかくしている。「余計なことしゃべるな」という言い方など露骨である。じっさい、どういう事情があれ、仲間を売るような人間は、そのことによって次の組織に入ったとしても信用されないだろう。だとしたら、すべての殺人などの犯行にかかわっているマサルを、ハブは生かしておくだろうか。たぶんそんなことをマサルは直観したのだろう。そして、とりあえず本当の仲間になれないか、というそのままの意味に、探りを入れるということも含めて、今回のような問いが出てきたのだろう。


今回はハブと家守のあいだで、二度目の「それはおれのことか」が出てきた。言質をとる、あげ足をとるということは、典型的なヤクザ、あるいはクレーマーの語法である。それは、ひとことでいってしまえば「バカのふりをする」ということだ。極端な例だがたとえば、ゼクシィという雑誌は非常に分厚く重いが、「これの角のところで思い切りひとを殴るとケガをします」とはいちいち書かれていない。そんなことはふつうの思考能力があればわかるからである。しかし、そこにつけこんでくるのがこの方法だ。この場合は、「書かれていない」ということを根拠にして相手に切り込んでくる。書かれていること、くちにされたことを表面的なデノテーションのレベルのみで受け取り、書かれていないこと、あるいは常識的なことについては顧慮しない、それがこの弁舌法である。これが通用するのは、この会話が行われる状況において、両者の立場に相対的な差があるときのみである。たとえばそれがレジカウンターなら、一般的にいって反論ができないので、売り手のほうが弱く、買い手のほうが強い。そしてヤクザの場合もそれと相似形で、たいていのばあい、一般の人間はトラブルを避けるし、ふつうに暴力はこわいので、ヤクザのほうが強く、カタギのほうが弱い。現場での会話レベルではそうなるのである。


ヤクザくんではこの語法は、だからごく当たり前のものだ。しかし、おもしろいのは、ハブと家守のあいだにあるこの「それはおれのことか」はそうではないのである。だって、言葉の表面のどこを見ても、家守はハブのことなどいってないのだから。これは深読みである。深読みをしてむりやり謝らせる、という点を見れば、あるいはヤクザらしい強権的な語法ともとれるかもしれないが、とりあえずそれはたとえばクレームの現場ではなんの意味もない。「1080円になります」「なに?!キサマおれの貯金が1080円しかないっていうの?!」みたいなことは、起こったとしても謝罪とか訴訟まで視野にいれたクレームとしては成立しないだろう。「ナンダコイツ」でおしまいである。似たところではヤクザくん冒頭の梶尾とガールズバー店長とのやりとりがあるが、「この水まずい」「ちゃんとしたミネラルウォーターですよ」「じゃあおれの舌がバカなのか」「とんでもない」「こんな感じだから変なのに難癖つけられるんだよ」「わかりました水かえます」「じゃあうちが卸すね」という具合に、上手に言質をとっているのである。

ともあれ、ハブはこのやりとりで家守に二度とも謝らせている。つまり、梶尾が店長に水をかわせたり、あるいはクレーマーがレジでのトラブルから発展して社長の謝罪を要求したり、というようなものよりさらに無茶苦茶なことを実行しているのである。そうした理不尽なことであっても家守はしたがうのであり、じぶんのほうが上だということを確認することはできているのだ。そして、ハブの深読みは、「家守がじぶんのことをバカにしている」という、いってみれば被害妄想的なものだ。ハブは、そうすることで、家守のなかにある反抗心のようなものを牽制しているのだろう。なんか逆効果なような気もするが。




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今週の刃牙道/第65話

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第65話/次に・・・






烈の狙い済ました突撃は刀をつかむためのものだった。武蔵は烈の突きを落とそうと刀を拳の先端に振り下ろし、拳のなかばまで斬るが、烈は鍛え上げた肉体でそれをかためるように固定し、掴んだのである。

が、そこで動揺するような武蔵ではなかった。武蔵には闘争においてのひとつの場面にすぎない。下半身を跳ね上げ、烈を空中に放り投げ、着地したぎりぎりのタイミングで再び横振りの斬撃である。消力は成功しているように見える。が、おそらく遅かったのだろう。烈の胴体は切られてしまった。


腹から血を噴出しながら烈は回想している。烈の回想はいつも子供とか若いときのものが多かったのだが、これは比較的最近のもののようだ。しかし足はある。師匠というか稽古の相手は刀をもっていて、ふたりとも汗だくだ。このときは消力はつかえないので、ふつうに対武器術の稽古をしていたのだろう。ということは、回避とカウンターの稽古をしていたはずだ。

烈は師匠にいう。斬られたらそこで終わりなのだろうかと。もちろん、ほんとうにすっぱりからだを斬られたら死ぬ、それはわかる。だけども、ほんとうになんの反撃もできないほどのダメージを受けるのだろうかと。そして、古来より拳法界にある刃物への恐怖心を嫌うともいう。要するに、いままでやっていた稽古、なるべく斬られないようにして、逃げるなり攻撃するなりする稽古のようなスタンスが、嫌いだというのである。

そして、首をはねられない限りは、仮にそのあと死ぬとしても反撃は可能なはずだと烈は断言する。

師匠は刀に長けているひとなのかもしれない。そして、それと同時に、烈の才能を知ってもいる。試してみるかというと、烈は例の「一向に構いません」である。師匠は苦笑するしかない。たぶん、そんなことは無理だということを師匠は知っている。であるのに、なぜこのとき師匠はもっとそのことをいわなかったのだろう。烈ならひょっとしたら・・・というふうに、期待してしまったのだろうか。


武蔵に斬られた烈は倒れつつ「斬られる」ということを実感している。そして最後の瞬間を振り返る。放り投げられたとき、せっかく掴んだ刀をはなしてしまった。消力を行いはしたが、まず胴体に予感がおとずれ、そこをなぞるようにつづいて刃がおとずれた。内臓や背骨が切断される感覚もしっかりあった。

そうして、とてもではないが反撃などできないということを、あのときのじぶんの宣言が誤りであったことを、このときになってはじめて知る。立ち上がることすらできない。というか、たぶん烈は立ち上がろうとしている。が、動けない。そしてそのこともあって傷が開き、内蔵が次々と漏れ出していくのだった。薄れゆく意識のなかで烈は、しかしこれを「大きな収穫」と呼ぶ。次に活かせると。




つづく。




ついに決着がついた。勝負アリを宣言する光成はなにをおもうだろう。

烈のからだからは内臓があふれ出ており、しかも背骨まで切られているという。前回だったか、ピクルのときほど緊迫感がない、などと書いておいてアレだが、これはじつにショッキングな結果となった。独歩の知り合いの闇医者と、鎬紅葉と、光成の金の力と、寒子の霊感と、それらぜんぶを投入しても、たぶんもうどうにもならないだろう。死んだか、あるいはよくても車椅子、格闘技者としては実質再起不能だろう。


烈の回想が意味するところはなにか。ここで烈は、要するに斬られても反撃できないはずがないといっているのだ。それについて師匠は、最初に冗談っぽく「死ぬ」とはいいつつも、その後は回答をぼやかしている。たぶん、そんなことはできない、ということを師匠は知っていたはずである。でも烈ならもしかしたらできるかも、と考えたかもしれない可能性はあるが、もうひとつ考えられることとしては、「いってもしかたがない」ということがあるだろう。烈のいっていることというのは、「死んでもがんばれば生き返ることができる」というようなこととあまり差がない。「試す」ことのできない経験なのだ。「死ぬほどの攻撃を受けても反撃はできる」ということを試す機会というのは、いつでも本番なのである。おそらく、だからこそ、師匠は「試してみるか」ということばのつかいかたをしたのだ。ふつうの武術の、反復を基本とする術理を説くようには、このことについて語ることはできない。斬る側として経験的にどのくらい斬ればひとは反撃できない、というようなことはわかっても、じっさいにこれから死のうとする人間が反撃できるかどうか、そしてどういう気分になるのかということは、誰にもわからない。なぜなら、それを経験したものはもれなく死んでいるからである。

もしこの回想が烈の敗因にかかわることだとすると、それは、斬撃を、そして死を、烈がおそれていなかったということかもしれない。烈は、鍛えぬいたおのれの肉体と、それを授けた中国武術という体系に大きな信頼を寄せている。それだから、感覚レベルで、反撃くらいできるはずだと、このように予想するわけである。しかしできなかった。もちろん、今回のこの横振りは武蔵の選択した攻撃であり、烈がみずから戦法として、つまり反撃をねらって「斬られた」わけではない。しかし、そのことによってたとえば距離感とかが変化してしまった可能性はある。だいたい、消力という技術じたいが、ふつうの神経のひとは選ばない、危険な技術である。凡人であったら、たぶん、刀より長い武器を用意してとにかく近づかないとか、そういう方法をとるだろう。けれども、肉体と技術に過度の信頼を寄せる烈は、接近して積極的に攻撃する方法を選んだ。誰よりもからだを鍛えぬき、信頼していた結果、斬られてしまったのだと、そうとらえてもそこまでまちがってはいないだろう。

「次に・・・」というのもなんともいえない。烈はあるいは、ほんとうの意味で死を理解してはいなかったのかもしれない。


こんな凄惨な場面を見て、果たして烈に続いて武蔵に挑むものがいるだろうか。以上のことを踏まえると、刀を恐れない、死さえも飲み込んでしまう、そういう烈の気概というか志みたいなものが裏目に出ているので、そうではない人物が武蔵には有効かもしれない。となると渋川先生しかいない(本部はいろんな意味で未知すぎる)。渋川先生も古い武術家だし、ある程度の武器術には精通していることだろうし、なにより根本が護身術なので、しっかり刀をおそれ、死なないようにしてたたかっていくことだろう。ただ問題はやはり距離である。合気は触れなければはなしがはじまらないわけだが、体格的には烈以上に接近しなければならないことになる。しかしまあ、逆にそこまで近いと、刀のほうが不利ということにもなるかも。刀相手の場合は内側に入ってしまえとはよくいうし。

あとはもう、動けなくても烈が生きていることを祈るばかりである。鎬紅葉はなにしてるんだろ・・・。試合の始まる前には観客席にいたとおもうんだけど、最近全然見ないな・・・。こうした事態が起こることを予期してなにか準備しているんだろうか。




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今週の刃牙道/第66話

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第66話/間違っていた






烈対武蔵の武器アリ対決、ついに決着がついた。拳ごと切らせて刀をつかんだ烈だったのだが、武蔵はこれを冷静に放り投げて刀と分離し、烈の試みる消力も無効にするおそろしい一撃で胴を切断したのである。前回の回想で、烈は以前まで死ぬほどの斬撃をうけても反撃はできると考えていたことが描かれた。しかしこの本番において、それが不可能だということを烈は学習する。彼は、まだそれを「次」に活かそうという気ではあった。けれどもそこから意識が飛んでしまう。まさにそういうところにこそ烈の敗因があったという描写かもしれない。死んだら次はないのだし、死をおそれずにつっこんで、いい一撃を加えられるかもしれないが、あるいはあっさりやられてしまうかもしれない。そういうところを、もしかすると烈はほんとうには理解していなかったのかもしれない。


観客は静まりかえっている。いのちのやりとりをする現場を前にしながら無関係を決め込んでいられるじぶんたちを恥じているというのだ。なるほど、偶然目にしたとかならともかく、彼らは、どういうルートが知らないが、ともあれじぶんから望んでやってきたものたちなのだ。

光成は武蔵を見やって考える。特に地下闘技場では、勝者というものはたいていのばあい、讃えられ、人々の押し寄せるものだった。ところが、人々は武蔵から離れていく。青龍の方向に帰っていく武蔵を、客席のものたちは席を離れて避けていくのだ。




「迷いなし


躊躇いなし


そして支持はなし・・・


それでも尚



天下無双也


宮本武蔵」



客席にいたバキ、郭、本部、渋川、克己、それに光成が、台に横たわる烈を見守っている。斬られた箇所にはバンドのようなものが巻かれている。烈は一見眠っているようではあるが、同様に斬られた正中線の出血はとまってしまっている。オリバのように回復したというわけではなさそうだ。すきまがあいている。

険しい表情で、無言のままでいる彼らに、光成は、じぶんは間違っていたのだろうかと問う。それは、どこのぶぶんについてだろうか。武蔵をよみがえらせたことだろうか。それともこの試合を許可したことか。あるいは、そもそもこうした闘争を趣味道楽として運営していくことか。

郭は試合についての問いと受けて応える。試合も、また武器の使用も烈じしんが望んだことである。もし間違っていたとじぶんがくちにしたなら、烈はハネ起きて噛み付くだろうと。

それを聞いて涙する光成は、では間違っていたといってくれという。そうすれば起き上がってくれるというのなら、いってくれと。


別の日、光成と武蔵がたたかいを振り返る。傷は全然癒えていないので、翌日か、あるいはその日の午後かもしれない。

光成は武蔵を立てたのか、楽勝だったなというのだが、武蔵はそれをにらみつけて、こんなに顔を傷だらけにされて楽勝のはずがないという。

では烈海王はどうだったかと問う光成に、武蔵はしばらく考えたのち、「関ヶ原」なみ、と応えるのだった。




つづく。




烈の死についてのことばはないが、状況からして死んでしまったことはほぼまちがいないだろう。

まず、もし生きている、あるいは死んでいたとしても蘇生可能であるなら、たぶんいくらなんでもあんなふうに台のうえに寝ているということはあるまい。なぜか姿の見えない鎬紅葉を中心に緊急オペがはじまるところだろう。が、そうはなっていない。試合のはじまるまえには姿の見えた紅葉がなぜかいなくなったのは、あるいはそうした理由からかもしれない。台に横たわる烈のからだを前にしては、スーパードクターの立場がないのである。だとしたら、板垣先生もあの段階ではまだ烈を生かす気でいたのかも。

出血もとまってしまっている。死んでしまえば心臓もとまってしまうわけだから、血流もなくなってしまうだろう。いずれにしても手当てらしい手当てをされていないのが、まったく生を感じさせないのだ。

そして郭と光成のやりとりである。そうすれば起き上がるというのなら間違っていたといってくれ、というのは、要するに烈が起き上がらないからこそ出てきたことばなのだ。

しかし、明確な死とか殺人とかいうことばが出てきていない点には、なにしろバキワールドなので、希望をもってもいいかもしれない。その意味では鎬紅葉が姿を消していることもまた意味をもってくる。なんらかの秘策を彼がどこかの段階ですでに用意していた、というような展開になって、その説得力の問題さえ乗り切ることができれば、烈の蘇生は可能だろう。


武蔵は烈を関ヶ原と評する。関ヶ原の戦いのことだとおもわれるが、しかしその戦いのどこのぶぶんをもってそういうのだろう。西軍東軍どちらかの戦略のことだろうか、全体でみたときの展開のことだろうか、それとも、武力のレベルのはなしだろうか、はたまた、関ヶ原という大地のことだろうか。

以前武蔵はバキに接触したとき、若いころたたかったものの名前を出して、そのあたりでは勝負にならない、みたいなことをいっていたことがある。これは、ただたんに武蔵が「むかしのひと」だから、過去の事例と比較してしまう、ということ以上に、あるいは武蔵のサムライとしてのありようを示していくものかもしれない。バキにしても烈にしても、彼らがいかに強くても、それはすでに武蔵の経験の内にあるのであり、既知なのである。しかしこの発想は、実は勇次郎のものであり、武蔵には無関係にもおもわれる。経験と知識に裏付けられた強さは、量的なものである。勇次郎の場合、その知識が全世界にわたっていたので、バキが量的な意味合いにおいて勇次郎の強さに迫ることは困難をきわめていたのであった。ただ、ひとことで量といっても、いろいろな出現のしかたがあるだろう。バキではゴキブリまでも師匠にすることになったが、そこから編み出されたゴキブリダッシュを見ても、勇次郎はその師匠を言い当てることが出来なかった。というのは、ふつうのひとはゴキブリからなにかを学ぼうとは考えないからである。バキにとっての勝機は勇次郎の未知にあったが、全知であるところの勇次郎にそれをつきつけるためには、勇次郎がそもそも気にもとめないもの、たとえばゴキブリのようなものさえからもなにかを学んでいく必要があったのである。

宮本武蔵はその親子喧嘩のあとにあらわれてきた新しいスタイルのファイターだった。登場したころ分析したその意味は、あまり覚えていないが、親子喧嘩が終結して絶対がゆらいだところにやってきた新しい意味の最強者ということだった。勇次郎が体現していたところの「最強」は、くりかえすように量的なものだった。基本的にバキにおいての闘争は流動的で、試合の勝敗が決定する不等号が成立しない、「強さランキング」が意味をもたないものであるが、そのなかで唯一、いつでも絶対不等号が定まっているのが勇次郎であった。彼の前では、どのようなファイターも「彼より弱い」というしかたで量的に規定されるのであり、それぞれの個性や、闘争の流動性もいっさい意味を失ってしまう。しかしそのことで、勇次郎はすべてのファイターに位置情報を与えもしていた。どのファイターも「彼より弱い」という点ではまだ鍛える余地があるのであり、その個性を否定され、絶望すると同時に、まだやることはあると感じることはできたのである。それが、親子喧嘩後失われた。相変わらず勇次郎は絶対者的強さではあるのだが、それでも、最強者が負けることがあるという事実をつくりはした。その結果があのジャックたちのあくびであるというのが僕の推測である(ような気がする。あんまり覚えてないけど)。要するに、彼らの位置を規定する揺るがぬ定点のようなものが失われてしまったため、まったく星の見えない暗闇の宇宙を飛んでいるように、じぶんがどれだけ進んだか、どのあたりにいるのか、闘争の流動性そのままのなかに泳いで不明瞭になってしまったのだ。

そこへ武蔵到来の予感がくることで、彼らにおいて鍛えへの動機と退屈が同居するという異様な状況が現出した、というところだとおもうのだが、そういうわけで、「絶対最強のものも負けることがある」という転回点を経験したこの世界においては、もう勇次郎的最強は存在することができない。だから、宮本武蔵の最強性は勇次郎のものとは異なるだろうと、そんなふうに考えていたのだった。


この推測が正しかったとすると、武蔵の、過去の事例を引く思考法は、たんにそれを「経験内」として語っているだけではないことになる。「関ヶ原」の真意はまだ不明だが、ともかく烈を関ヶ原と比べるとき、武蔵は過去の経験である「関ヶ原」と“量的に”同程度であると、そのようにいっているのではないのである。ではなにかというと、これは形容詞なのではないだろうか。比喩なのである。烈と関ヶ原はあらゆる意味で同一の事物ではないし、量に換算して比較しようにも、そもそも出来事と人物であるのだから、本来はやりようがない。しかし、武蔵の体感においての感想ということであるなら、はなしはわかる。武蔵はこうした言動において、「それはすでに経験済みだ」というようなことをいっているのではないのではないか。そうではなく、武蔵は、全然似ていない、というか比べるための度量衡を想定しえない二者から、互いを参照して似ているポイントを探し出すことができるのだ。これは要するに比喩の、もののたとえの技法である。一見無関係に見える物事からでも、ヒントを引き出すことができる・・・これはバキにもいえたことである。おもえばじぶん以外すべてを師匠とする、というのは武蔵の言葉ではなかったか。バキはすでに、その後到来する武蔵の技法を先取りして、勇次郎に未知をつきつけるという偉業を達成しているのである。








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国立新美術館『マグリット展』

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公式サイト





国立新美術館のマグリット展に行ってきた。6月26日16時半頃入場。企画展示室2E。すべてを見終えて、ポストカードなどのグッズを大量に買って、外で休憩をした時点で19時をまわっていたので、2時間半くらい見ていたことになる。



マグリット展は開催されるのをずっと待っていた展覧会のひとつである。最初にマグリットを知ったのは、たぶん10年くらい前になるだろうか、コンビニでバイトしていたときのことだ。夜勤で、特に流行っている店ではなく、ひとりだったために(大きい声ではいえないが)、よく漫画を読んでさぼっていたのだが、なかで藤子不二雄Aの短編をおさめたコンビニ廉価版があったのである。藤子先生についてはぜんぜんくわしくないのだが、とりあえず手にしてみて、そこでマグリットの『ピレネーの城』という作品にとりつかれた青年が出てくるおはなしがあったのだ。それを収録したブラックユーモア短編集もその後手に入れたのだが、もちろん紛失してしまっている。調べてみたが「マグリットの石」という作品でまちがいないだろう。「ピレネーの城」は、波打つ海の上に巨大な岩が浮かんでおり、そればかりかその頂上には城が立っているという、じっさいかなり異様な絵であった。青年は大きな石が空中に浮かんでいるのを幻視するようになり、たしか死んでしまったはずである。そして、白黒のその短編に映じる「ピレネーの城」のインパクトはじっさいたいへんなもので、それからしばらく僕自身もマグリットってどういう作家なんだろうと、少なからずとりつかれてしまったのだった。



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当時調べたところでは、美術関係のブログだったろうか、マグリットというのはアイデアのひとなので、じっさいに絵を目にしてタッチがどうの配色がどうのという作家ではない、といっているひとがいて、美術に不案内なものとしては、そんなもんかというところだったが、しかしそうはいっても直接ホンモノを見てみたいとおもうのはしかたがない。やがて安めの画集も手に入れたのだが(この画集も、今回よく探したのだけど、サイズの大きい本であるにもかかわらずやはり紛失してしまった。本の山の底のほうにブラックホール的ななにかがあるとしかおもえない)、それからずっとマグリット展が開かれるのを待っていたのである。

ふつうにまともな休みがない状況だったが、これだけはゆずることができないということで、なかなかハードではあったが今回出かけてきた。画集はなくしてしまったが、それとは別の本をまた新たに購入して相方にも予習させ、勇んで出発したわけである。


見たいとずっと願っていた、とはいっても、僕は美術についてはなにも知らない。高校で音楽と美術にわかれるときは迷いの瞬間など一瞬もなかったし、お金とか一般常識とか流行とかと同様、僕の人生に無関係なもののひとつとして数え上げてもそれほどへんではないだろうというほどには縁遠い分野である。とはいえ、哲学や文学とつながりがない領域ではないので、これからも目に付くかぎりは積極的にこうしたイベントに参加していきたい。

とはいっても、今回の展覧会には「ピレネーの城」はなかった。あってもなくても次いつやるか知れないマグリットなのだから関係ないということで別に調べてなかったのだが、好きな絵の大半がなかったことにはやはり多少がっかりしてしまった。たとえば、部屋いっぱいの巨大なリンゴが描かれた「リスニング・ルーム」、暖炉からなぜか汽車が飛び出ている「つきさされた持続」、有名なパイプの絵やよく画集などの表紙になっている「複製禁止」、などといったあたりは見当たらなかったのだ。が、それの類品というか、そうした作品に前後して連なっているイメージのものはたくさんあった。そして、2時間半もかけてゆっくり見ていた結果が示すように、じっさいのところそれはたいした問題でもなかった。「ピレネーの城」があったらあったで、それは狂喜したことだろうけれど、まあいま列挙したような作品の欠如は、あとで家に帰ってショップで購入した図録などを振り返ってみてはじめて気づいたのである。ひとことでいってたいへんな経験になったし、勉強になった。だいたいピレネーの城をじっさいに見てしまったら、しばらく眠れなくなっていたかもしれない(どうやら京都での展覧会では出品されるようである)

ほかの作家もそうなのか、くりかえすように僕にはわからないが、漫画でいうところのスターシステムに近い、イメージの特別出演がマグリットの作品には非常に多く、それもまた、一個のイメージの結実としての作品の欠如を感じさせない要因ともなった。たとえば、部屋にぎっしりの一個のリンゴは「記念日」という、リンゴが岩になった絵で置き換えられるし、ピレネーの城よりさらに4年後に描かれた「現実の感覚」は、構図的には「城」と酷似している。ただ、頂上に城がある、つまりひとの痕跡が感じられるという違和感と、あの圧迫感は、「現実の感覚」においてはなぜか薄かった。ピレネーの城そのものは依頼されて描かれたものだが、それの変奏を創案した結果、多少の明るさが付け加えられたということなのかもしれない。これはこれでたいへんな鳥肌ものであった。

岡田敬二がじぶんの好む曲をなんべんでもいろんなショーで使いまわすように、マグリットでは嫌というほどくりかえし特定のモチーフが頻出する。それどころか、過去描いたじぶんの絵そのものが、背景に飾られていたりもするのである。マグリットがそのことにおいてなにを意図したか、たとえばそのモチーフ単独の効果そのものをねらっていたのか、それは不明だが、いずれにしてもそのスタイルは非常に展来会向きなのである。くりかえすように美術には暗いので、いまこれを描きながらいろいろググっているのだが、山高帽の男や、当初は不安の種的になにか連なってたくさんあらわれていたが、やがてスターウォズのデススターばりの迫力で大きくなっていった鈴、けん玉、幕、卵、樹木のサイズの葉、リンゴ、そして巨大な岩、こうしたモチーフを前にして、展覧会におけるわたしたちは当然、たったいま見たばかりの別の絵を連想して、つなげて鑑賞することになる。ふつう、芸術作品というものは、鑑賞の際になるべく言語を介さないほうがいいということが一般論としてあるだろうが、マグリットにおいてはそういう一般論もあまり意味をなさない。誰もが、これはいったいなにを描いているのか、どういうつもりなのかと考えざるを得ない世界が、呈示されているわけである。そうした前提があったうえで、くどいほどに岩やリンゴが登場してみれば、これはなんなんだと、わたしたちはとらえるはずである。いま見たところでは「心のまなざし」「無知な妖精」「同族意識」に登場しているが、マグリットの作品になにかを話し合う山高帽の紳士二人組みが登場することがある。たしか彼らが主役の作品も存在したはずだが忘れた。これが、けっこうかわいくて、わたしたちは気に入ってしまったのだが、彼らがどうしても展覧会でマグリットの絵を鑑賞しているわたしたちじしんに見えてしかたがないのである。「心のまなざし」では鈴にも似た球体を、「無知な妖精」では石化しているように見える魚を、「同族意識」ではなぜか尾びれで自立する魚から遠く離れた場所で、やはり球体を見ている。これは、くりかえし使用されるモチーフを通してなにかの意図をくみだそうとしている、あるいはしてしまうわたしたちの背中ではないのだろうか。そして、そうした彼らじしんがまた、くりかえし使用されるモチーフとなっていく。わたしたちが鑑賞し、たぶんほとんどのひとが大差なくぶつかる疑問や思考、そういうものもまた、マグリット作品においてはモチーフのひとつとなってしまうのである。

マグリットの作風というか哲学はけっこうはっきりしていて、証言などを見ても、かなりしっかりと意識してものを描くひとだったということが伝わってくる。シュールレアリスム勃興という時代もあったかもしれないが、哲学にもそれなりに造詣があったようで、フロイトやヘーゲルの影響などは隠さずにそのまま示されている。だから、作風の変化についてはけっこうわかりやすいというか露骨なぶぶんもある。そのあたりについては触れないが、通して「見えているもの」についての不信や、世界への信憑性への疑い、またそうしたものが一周して、なにか「見たまま」である、というようなアンビヴァレンスなようなところもある。そうしたところで、なにかおかしな絵を描いて、鑑賞者においてさまざまな解釈が生じていく、そうした現象そのものもまた「世界」であると、そんなことがこのふたりの紳士には付託されているような気がするのである。マグリットの絵は素人が見ても異様で、歴史性とか批評性ぬきに端的に「おもしろい」わけだが、そうした作風の危うさは解釈が自在に可能であるというところにある。もちろん、テクスト論的にいえば、解釈というのは、解釈する側からすればいつでも「自在に可能」ではあるのだが、マグリットは作品そのものにそれを忍ばせたのではないだろうか。



「恋人たち」や「ゴルコンダ」のような超有名な名作もたくさん展示されているが、なかでも度肝をぬかれて鳥肌たちっぱなしだったのは「ガラスの鍵」という大作だった。いったい、どうすればこんな想像をすることができるのか。こうした感覚はマグリットの絵を通して以外は体験したことがない、そういうものをもたらすのである。


ショップでは美大生っぽいかわいい女の子がみんな黒づくめの帽子というマグリット・ファッションで働いており、非常に気のきいた演出となっている。展覧からショップまで、想像以上に混んでいて、マグリットってすごい人気なんだなあと改めて実感させられた。そうしたわけで、見れなかったピレネーの城やそのガラスの鍵などのポストカード、缶バッジや画集などを買わずにはいられない展開になっており、雨のなかもほくほくと幸せな気持ちで帰宅した次第である。






↓うえがむかし買って紛失したもの。大きくてみやすい。下が最近買ったやつ。





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