■『ああ、禁煙vs.喫煙』姫野カオルコ 講談社文庫
- ああ、禁煙vs.喫煙 (講談社文庫)/講談社
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「自由に喫煙。嫌がる禁煙者。争いの元凶は実は?なんでもかんでも「いただく」は正しい?美容整形、まず気にすべきことは?私立大学推薦入学への新提案とは?「あたりまえ」だと思って疑問を抱かないと頭がコチコチに!読んで脳のストレッチ。新聞コラムを厳選&大幅改稿のエッセイ集」裏表紙より
姫野カオルコのエッセイはおもしろいなあ。
姫野カオルコを最初に読んだのは去年、『すっぴんは事件か?
』であり、これもエッセイで、次は小説を読みたいみたいなことを書いているが、またエッセイを買ってしまった。
『すっぴん』と比較すると、どことなくはなしがちらばっているというか、普遍性を帯びていて、なおかつ、自覚的にそこまで思索の深みに踏み込まないようにしている感じがあるのだが、たぶんそこのところは、もとの文章が赤旗や日経などの新聞媒体に掲載されたものだからだろう。あとがきにも、じぶんのことを知らないものが読むことを想定して書いたというふうにある。なるほど、たしかに、小説の連載でもなければ、またよっぽど感動的なおもしろさでもなければ、新聞のコラムの書き手が誰であるかなんて気にしないものかも。いまの段階で僕が姫野カオルコのコラムをどこかの紙上で発見したら、思考の鋭さや独特の「・・・だろう?」調などから「ん・・・?これはもしかすると姫野カオルコじゃないか?」となる可能性は高いが、新聞というのはそもそも雑多なものであり、だからこその新聞であり、書かれる内容としても自然とそういうものになるのだろう。
なにしろ考えるということに優れたひとで、また題名には非常に興味深い、禁煙と喫煙の文字が見えて、発見して即購入してしまった。
タバコの煙に関しては、ちょうど現在では原発の話題がそれをひどく拡大させたようにして続行されているが、いつまでたっても不毛なやりとりが続いている。あらかじめ断っておくと、僕はスモーカー、愛煙者である。いまもタバコを吸いながらこれを書いている。そして、現在では「わたしは脱原発推進者です」とか「原発推進派です」とか書くことが「宣言」になり、大きな決断を必要とするのと同様にして(もちろん話題のおよぶ規模では比較にならないが)、こうした発言は、ちょっとした決意を必要とするのである。じっさいには、そんな決意は必要ないのかもしれない。アクセス数や読者数という面で考えても、たぶんそれほど変化はないかもしれない。けれども、重要なのは「わたし」がどのように感じるかではない。世間がどのように考えるとわたしが感じているのか、というほうなのである。それとも、そんなふうに敏感になっているのは僕だけなのだろうか。それもそうかもしれない。タバコのこととなるとひとがみな言葉を選んでいるように感じられるのも、厄介な二元論にとらわれているからこそなのかもしれない。そしてまた、「あらかじめ断っておく」というような、身を守るためのことばが、二項対立を激化させる。タバコを吸うことが、そんなに「たいしたこと」ではないとおもうなら、わざわざ呈示することも、また隠すこともない。そのひとが右利きであるか左利きであるかなどということは、推理小説でもなければ、文章のなかのわずかな描写から「たぶん右利きだろう。どうでもいいけど」という程度にわかればいいはずなのである。「そんなにかんけいないけど、それとはむかんけいに中立的文章を書くつもりですけど、わたしは右利きです」と宣言することじたいが、「利き腕」にかんする重要度を引き上げてしまうのだ。しかし、とりわけ「吸うひと」において、喫煙を「利き腕」と同程度の重要度にして記す(あるいは記さない)ことは、なかなか難しいのではないかとおもう。ことばが発せられるそれ以前の地点に、そういう文脈がすでにある、あるいは、あると思い込んでいるのである。原発についても同様で、誰もがそのことについて考えるようになるのはいいことだとよくいわれるが、一概にそうとも言い切れず、たんじゅんに何派であるかを表明するだけなら、それは対立を激化させるだけになるかもしれない。真に事態を解明するのであれば、たぶんそれ相応の文体が必要になってくるだろう。
形状としてはよく似ていても、しかし原発とタバコではひとびとの生活におよぼす影響のレベルがちがう。だから深いぶぶんでは比較にならないのだが、表面で起こっていることはやはりよく似ている。最終的に、議論は「タバコ」ではなく、それを吸うひと、吸わないひとへの、幼稚な人格攻撃におよぶのである。
姫野カオルコは非喫煙者なのだが、独特の論理的思考で、まず、タバコは合法の嗜好品であり、なおかつ、タバコに関しての摩擦が起きる飲食店などでも、店でそれが許されている以上、論理的に吸うひとを怒ることはできない、というふうになる。そうして、飲食店に対してさまざまな提案がなされるのが前半のタバコ関連の文章なのだが、とはいえ、問題はもっと生理的なものだろう。タバコというのは、文字通りつかみどころのない煙を発生させる。髪や服や指先にもにおいはかなりつく。たんにマナー通りにふるまうだけでは、吸わないひとにタバコを意識させないところまでいくのは難しい。たとえばそれが野外で、シートを敷いて家族連れがお弁当を食べたりなんかしているような場所だとして、吸っていい場所で吸っていたとしても、風向きひとつで煙は非喫煙者のくつろぐ場所まで届いてしまう。そうなると、そこが私有地だとしたら、そもそもそんなかんたんに煙の届く場所に喫煙所を設けている管理者が悪いのだということになる、論理的には。けれども、期待しない煙を吸ったものからすれば、「くせえんだよ!」のただひとことにつきるのであり、その不快をもたらした根本原因に目をむけるというのは、無理のないことだろうとおもう。点火されなければ煙も出ないからである。
姫野カオルコの文章としては、もちろんそういう項目もあるのだが、基本的に論理を優先しているところがすばらしいのだが、じっさいのところそういう態度は、なかなかとりにくいものである。『たばこ喫みの弁明 』でも、たばこの健康への悪影響はあくまで疫学(統計)によるもので、証明がされているわけではないということが書かれていたが、もちろんだからといってそれがからだに「よい」ものというわけではないし、「たばこ喫み」の発することばは、たばこを喫まないものの発言に対応するかたちで、つまり「弁明」としてあらわれてくる。たばこに関する、ニュートラルな、なにものでもないことばというものは、趨勢的に存在することが非常に困難なのである。だから、僕の素朴な考えとして、まずは語り口の整備ということもかなり重要なんではないだろうか。原発同様、たばこについて一家言あるものばかりがこの世に生きているわけではない。どちらにも与さないというひとが、かなりの数いるはずなのである。それが、ひとたび「問題」にかんする議論に参加すると、二元論に回収されるか、あるいはそれに懲りてひとこともことばを発しないようになる。もっとも必要とされているのは、どうでもいい、「どちらでもない」という立ち位置の「語り口」なのかもしれない。そこで、おそらく、姫野カオルコが示す論理的な思考法が役に立ってくる。本書はページ数も少なく、出張の新幹線のなかで読みきってしまうようなサイズの本だが、そういう意味では、ぜひとも習慣化したい思考法がライトに示された、かっこうの作物であるのかもしれない。
- すっぴんは事件か? (ちくま文庫)/筑摩書房
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- たばこ喫みの弁明 (ちくま文庫)/筑摩書房
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