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今週の闇金ウシジマくん/第309話②

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ひとつ前の記事 の続きです。



本ブログではなるべく触れないようにしてきたが、洗脳くんは明らかに北九州の監禁殺人をモデルにしている。しかし、本編の読解にはむしろそうした知識は邪魔になるかもしれないというのもあり、いっさい考えにいれないようにしてきた。といっても、僕のあの事件の知識は、まとめサイトをちらっと見て吐き気を覚え、新堂冬樹『殺しあう家族』なかばで挫折し、という程度なのだけど。今回まゆみが読んでいたフランクルの講演集は、調べてみるとどうやら、北九州の事件でまゆみ、あるいは勅使川原の位置にあった、要するに実行犯としての女が獄中で読んでいたものらしい。欄外の編集部注でわざわざ触れられているところからしても、これは明確な「メッセージ」と見ていいだろう。モデルはあの事件であると。



いま手元にないので記憶にたよるしかないのだが、ウシジマの迷言集巻末にあったインタビューによれば、もともとこのはなしは生活保護くんの前に書かれる予定だったとか(記憶ちがいだったらすみません)。タイミング的にはオセロ中島の洗脳事件とも重なったが、じつはそれは無関係であったとか、そんなことをいっていた気がする。もっとも不気味なのは、洗脳くんがはじまった直後に、例の尼崎での事件が発覚したことである。本記事でもこれらの事件と照らし合わせて考えることは僕の手に余るのでしないが、その符合の不気味さは指摘しておいてもいいだろう。




いったい「洗脳くん」とはなんだったのか。なぜいまこれが書かれたのか。これについては、洗脳の仕組みについて考えることからはじめたほうがいいかもしれない。といっても、毎度くりかえすように、僕は精神分析の専門家ではないので、素人の付け焼刃、なまわかりの知識を大きくふりまわしてみせているだけなので、読むかたにはあらかじめそのことを踏まえてもらいたい。

これも何度も書いていることで、読者のみなさまは耳にタコかもしれないが、僕の考えでは、少なくとも神堂と勅使川原の洗脳の手法は、トラウマの書き換えというところにあった。これは『映画の構造分析』における、内田樹のフロイト解釈を援用したものだが、トラウマというのは「語ることのできない物語」のことをいう。記憶の果て、幼少時に、あるとりかえしのつかない、いわゆる「トラウマ的」事態に遭遇したわたしたちは、その嫌な記憶を回避するため、抑圧し、忘れようとする。わたしたちの言語、つまり思考の作法は、語彙や文法や語り口や思考癖などを通して、その事態を語らないように設計されていく。そうして形成された人格は、中心にぽっかりと穴を抱えることになる。だが、わたしたちは、ちょうど「ドーナツの穴」を「ドーナツ」抜きで語ることができないように、それを語るすべをもたない、というより、語らないように形成されたものが、いまのわたしたちにおける人格なのである。内田樹のことばでいえば、「その人の言語運用そのものが、その「言語化できない穴」を中心に編み上げられている(155頁)」のである。抑圧されているものは、たとえば夢などで、べつのかたちをとってあらわれてくる。ときにはそれはひとに苦しみをもたらす。それを緩和するためには、トラウマを語らねばならない。だが、くりかえすように、原理的にわたしたちはそれを語ることができない。そこで、「分析医」が登場する。分析医は、なにもその経験知から正確に抑圧されているものを言い当てることを仕事にしているわけではない。本人にもわからないものを、他人が見つけることなどできない。仮に見つけられたとして、それが正解であると保証するものはどこにもない。ではなにをするかというと、対話をするのである。対話を通し、物語を「創作」するのである。虚構の物語でも、そこに一種のカタルシスが感じられたとき、症状が緩和することはまちがいない。

上原まゆみにおいては、勅使川原がこの分析医の役目を果たしていた。ただし、勅使川原はそのトラウマの物語を共作したりしない、まゆみに気付かれぬように「捏造」するのである。このちがいは、かなり繊細なもので、なにがちがうかと問われてもよくわからない。いずれにせよまゆみが快復の実感を得ていたとしたら、それは分析医と変わらないのではないかといわれると、僕には反論できない。そうなのかもしれない。ただし、そこで創出された物語には、接続すべき「続き」があったのである。

まゆみはスピリチュアル系婚活女子、美人で仕事もできるが、彼氏は年下の甲斐性なしで、言い知れぬ不安感のようなものを抱いていた。神堂の言葉遣いは、ふつう「・・・いいんです」と撥音になるところが「・・・いいのです」というふうになっていて、ぜんたいとしてあえて芝居がかったものになっていた。唐突に出てくる比喩とか、あるいはじっさいのふるまいとかもそうかもしれない。ともかく、芝居がかった、つまり「まるで台本を読んでいるような」口調は、「準備」を感じさせ、会話の即興性を損なってしまう。いまじぶんの発したことばに反応してこのひとはことばを発していると、そういう実感が失せてしまうのだ。しかし逆に、ここには効果もある。それは「余裕」の演出である。スピリチュアル系女子がすべてそうなはずはないが、少なくとも、勅使川原はそうした「傾向」のある女性を選択し、神堂に教えたはずだ。スピリチュアルなワーディングには、「ハイヤーセルフ」とか「インナーチャイルド」みたいに、たんに現行の「世界」でも流通していることばを言い換えただけのものでありながら、べつの次元の空気を感じさせるものがある。わたしたちのよく知るものではない原理で、あるいは世界は説明可能かもしれない、そういう直感に、スピリチュアルな言葉遣いは応えるものなのである。くりかえすようにすべてのひとがそうであるはずはないが、少なくともまゆみは、そこに傾きつつあった。そして、そのように傾きつつあるからこそ、神堂の「余裕」、すなわち、まゆみの知っている原理では捉えきれないつかみがたさに、「包容力」を感じてしまう可能性もあるのだ。



占い師として、勅使川原がどの程度のものかはよくわからないが、最初のじてんですでにまゆみはかなり勅使川原を信頼していた。そこにどういう操作があったかわからないが、ともかく、神堂が現れて以降の「運命」の演出には決定的なものがあった。冷静に考えるとたんじゅんなことだ。勅使川原と神堂はグルだったわけだから。

しかし、しっかりと築かれた信頼関係のなかで、「あなたはほんとうはこういうひとなのだ」と、スピリチュアル界における「まゆみ」というにんげんの解釈を聞かされることで、まゆみのトラウマは徐々に変更されていき、つまりまゆみのつかう言葉、思考法、最終的には人格も、勅使川原仕様に変わっていったのだった。まゆみは、じぶんの言語や思考法が以前とはすっかりちがってしまっていると、ほんとうの意味で自覚することはできない。なぜなら、自覚しようとするその意識じたいが、すでに改変されているものだからである。こうして、神堂のことばを無抵抗に受け容れる準備が整ったというのが、僕の考えである。まゆみの内には、神堂のことばを客観的に解釈することばがすでに欠落している。不安は覚えても、なにが不安なのか言い当てることができない。神堂は運命のひとであると、改変されたまゆみの直感が告げてくるからだ。



そこからどのように神堂が取り入っていったのか、僕としてももう忘れてしまっているので、興味のあるかたには記事を遡ってもらうとして、「洗脳くん」のおそろしさというのはこの「語ることのできない」というところにあるというのが僕の結論である。それは、肉蝮や三蔵といった、野性的な過去の悪役を思い返してみればいい。本作は、真鍋先生のことばではいままでで最悪のはなしになるということではじまった。僕としては、その肉蝮や三蔵よりひどい悪役というのはどうしても想像できなかったが、そもそも「悪」の質が異なるのである。極端なことをいえば、肉蝮や三蔵というのは「モノ」である。あんな異様な風体の男が、たとえば包丁をもって向こうのほうから走ってきたら、とりあえず僕は回れ右をしてダッシュで逃げる。逆にいえば、そうすれば回避することが可能だということである。しかし神堂はそうではない。洗脳されているものは、それが解除されないかぎり、洗脳されている、あるいは洗脳されていたことを自覚することができない。だとするなら、いまこうして洗脳とは無関係のつもりでいる「わたし」が、なんの洗脳のもとにもいないと、どうして断言できるのか。重要なのはげんに洗脳されているかどうかということではない。わたしたちはいつでも、ある「物語」のなかを生きている。また、ある語られないトラウマ的物語に内部から規定されるかたちで生きている。それはたしかである。だが、わたしたちにはその「物語」がじっさいのところ「何」であるのか、言い当てることがぜったいにできないのである。



たぶん、ここのところについての真鍋先生の結論は、まゆみと桜の描写にあらわれているとおもう。非常に詩的な描写で、解釈はわかれるかとおもうが、僕はあそこに、なにか超越的な物語の直観を感じた。三国志のゲームや映画なんかを見ていて、あまりにもひとがかんたんに死ぬので、そんな、はなしたこともない、わけのわからん軍師の考えた策に乗って、どうしてそんなかんたんに命を燃やせるのだろうと、最初のころは考えたものである。しかし、たぶんそういうふうに感じるのは、わたしたちが、現代人として「死に縁取られたものとしての生」に慣れすぎてしまっているからかもしれない。わたしたちは、眠りにつき、いちど意識を失っても、じぶんが昨日のじぶんとまったく同一人物であるということを疑わない。「死」だけが、わたしたちの自己同一性を断絶する。そういう「生」の観点では、どうしても、「わたしの存在していない世界」というのを想像することが難しい。死んでしまえばこの認識は中断し雲散霧消してしまう。だとするなら、世界はじぶんが生きているあいだしか存在しないも同然なのである。だが、ここでいう、三国志に出てくるものたち、特に歴史に名を残すこともないであろう一兵卒たち、彼らでは、それがありありと想像されているのである。そうでなければ、あんなふうに命を賭すことなどできない。信頼する君主や将軍の野望が達成されているよき世界、そういうものが「わたし」ぬきで存在することを想像できるからこそ、仮に納得できなくても、生命を賭けることができるのである。



「洗脳くん」は日常の襞に潜んでいる。わたしたちの与する物語の全貌を、わたしたちは語りつくすことができないという不安感が、洗脳くんの最悪性を保証するものだろう。だがまゆみは、子供と、くりかえしやってくる季節のなかに、そうした認識にかかわる物語を超えたゆるがぬものを見たのである。僕には子供はいないが、子をもつ親の世界というものも、じっさい近いのではないだろうか。たとえば子の成長をじぶんの手柄、つまりじぶんの物語に回収されるものとみなすのではまた異なるだろうが、じぶんの親や祖父母と、また子供たちを見たときにたしかにおとずれる超越の感覚は、手ごたえのあるものだろう。「わたし」の認識を通さずともたしかに存在している世界、そこに、まゆみは大いなる包容力を見たのではないだろうか。




かつてないほど長い記事になってしまった。なんかまだ書きたいことあったような気もするんだけど忘れた。カウカウについては「数年後」も健在というのが、なかなかおもしろい。要するに、丑嶋を狙う滑川や肉蝮、ハブ、それにマサルなんかは、数年後もそれを達成できていないらしい。




今回はとにかく、真鍋先生お疲れさまでしたとしかいいようがない。神堂みたいな男をあたまのなかに飼って描いていくというのは、想像しただけでたいへんなストレスだ。それにこの長さである。ツイッターなどではなんでもないように書かれているが、そうとうにお疲れではないかとおもう。ウシジマくんはしばらく休載。再開は7月8日発売号から。真鍋先生ほんとうにお疲れ様でした。



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